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ステージⅡ

 ステージⅡ


 十月六日


 鎮目は天羽にPET­CT検査を受けさせようとしていた。

 モニタールームのガラス越しに検査室を見ていると、大きな機器の真ん中にあるドーナツのような穴に天羽が飲み込まれていった。

 鎮目は天羽に計二回の撮影を行った。

 きれいな画像を撮影するために安静にする時間を含めて、四時間近くも放射線技師の指示に従い続けた天羽はぐったりして特別病室に戻っていった。

 PETとは電子放出断層撮影を意味する「positron emission tomography」の略で、放射性薬剤を体内に投与して異常のある部位に蓄積させ、特殊なカメラでとらえて画像化する機器のことだ。

 PET­CTでは異常のある部位がはっきりと光る。

 放射線技師がモニターに映し出した画像を見てみると、やはり天羽のほとんどの臓器が発光していた。天羽の体内がガンだらけであることを光が示していたのだ。

 多少は光っていない部位もあるにはあるが、胃ガン、肺ガンの一部、肝臓ガンなどは放射性薬剤が集積しにくく、尿路系の腎臓ガン、膀胱ガン、前立腺ガンはPET­CT検査でも発見しにくいという欠点があった。

 また、病巣の大きさが五ミリ以下の場合には、検出率の精度も悪くなる。

 したがって、ここまでガンが広がっているならば天羽の体でガンになっていない臓器は一つもないと鎮目は結論付けた。

 天羽の特異なナチュラルキラー細胞UCANはあらゆるガンの抗体を持っている。

 だからこそ、あらゆるガンを攻撃することができ、ガンの特効薬になる可能性を秘めていた。

 では、UCANは一体どのようにしてあらゆるガンの抗体を獲得したのだろうか?

 その答えが分かった。あらゆるガンが天羽の体内に元々存在していたのだ。

 天羽の体内でUCANはガンと日夜戦っていたのだと鎮目はようやく思い知らされたのだった。

 最初は、UCANがガンを圧倒的に抑え込んでいたので検査結果にも異常は見られなかった。ところが、鎮目が臨床実験のために天羽の血液からUCANを大量に採取してしまったために均衡が脆くも崩れてしまった。

 ガンはあっという間に増殖して、天羽の全身を蝕んだのだろう。

 通常のナチュラルキラー細胞と一緒で、天羽のUCANも増殖するスピードは遅いはずだった。

 全身がガンに冒されていると分かった以上、しばらくは天羽の血液からUCANを採取してはいけないと鎮目は考えた。

 天羽の体に負担を掛けすぎて万が一死なせてしまったら、そこでこの研究が途絶えてしまう。人類の悲願が潰えてしまうからだった。


 鎮目が研究室に戻ると、妃織が待ち構えていた。

 どうやらPET­CT検査の結果が気になっていたらしい。

 妃織は腫瘍マーカー血液検査の結果を知っている。ウソをついても騙しきれるはずもないので、鎮目は素直に画像を見せることにした。

 しばらく画像を見つめていた妃織が口を開いた。

「嘉山病院長にはどう報告したらいいですか?」

「……俺が言うまで黙っていてほしい」

「分かりました」

 鎮目は目を大きく見開いた。

 頼んではみたものの、妃織が素直に従うとは思っていなかったのだ。

「いいのか?」

「……いいもなにも、看護師は主治医の判断に従うだけです」

 君は一体、嘉山病院長とはどういう関係なんだ?

 鎮目は頭に浮かんだ言葉を飲み込んだ。

 妃織が愛人だと認めるはずがないし、否定したところで疑いが晴れるはずがないからだ。

「あとこれ。天羽さんから預かったんですけど」

 嘉山病院長との関係を詮索されると思ったのかどうかは不明だが、妃織が唐突に話題を変えた。

 妃織は麻の平織り物を鎮目に差し出した。

「これがどうかしたの?」

「児童養護施設に捨てられたときに包まっていたおくるみですって。大事なものだから退院するときまで預かっていてほしいって言われたんですけど、なんとなく先生に知らせたほうがいい気がしたので」

 鎮目も天羽から聞いたことがある母親の形見だった。

「……ちょっと預からせてくれ」

 鎮目は妃織から平織り物を受け取った。

「鎮目先生に預けたこと、天羽さんには内緒にしておきます。あと病状も」

「ああ」

 妃織が研究室から出て行った。

 鎮目は平織り物を広げて、手触りを確かめた。

 そして、この平織り物を手掛かりに天羽の母親の居場所を突き止めようと考えた。

 形見である平織り物を大事に持っているぐらいだ。母親が見つかれば天羽もきっと喜んでくれる。それに、母親が見つかれば天羽の体に万が一のことがあったとしても研究は続けられるかもしれないのだ。

 鎮目は午後に予定していた研究を取りやめて、天羽がいたという群馬県前橋市の慈聖園に向かうことにした。


 北関東自動車道を一台のレンタカーが走っていた。

 時速は八十キロほどと遅く、しびれを切らした後続車が次々と追い越していく。

 運転免許はあるもののペーパードライバーである鎮目は、追い越す貨物トラックの風圧で車体が揺れることに恐怖していた。

 ルート検索をしたら乗り継ぎの多い電車よりも自動車のほうが早くて安いことが分かったので、鎮目は思い切ってレンタカーを借りて目的地を目指すことにしたのだった。

 二時間ほど車を走らせているうちに少しは恐怖心も薄れて運転を楽しむ余裕も出てきたが、出口である駒形インターが近づいてきたので鎮目はハンドルを左に切って高速道路から降りた。

 国道一七号線から県道に入ってしばらくまっすぐ北上したのどかな田園風景の中に、鎮目の目的地である慈聖園はあった。

 まったく車通りがない道だったが念のため邪魔にならない場所に自動車を停めて、鎮目は門塀から敷地内をのぞき込んだ。

 敷地内では日向ぼっこをする老人の姿が数多くあった。

 児童養護施設のはずなのに子どもの姿はどこにもない。若くても三十代ぐらいの人間の姿しか見当たらなかった。

 ふと見ると、門塀には「特養老人ホーム慈聖園」と書かれた表札があった。

 児童養護施設じゃないのか?

 園内をのぞき込む鎮目を不審に思ったのか、中老の男性が鎮目に声を掛けてきた。

「なにかご用ですか?」

 おそらく責任ある立場の人間なのだろう。鎮目は素直に事情を話すことにした。

「あの、こちらが児童養護施設だと伺ったものですから」

「あぁ、もうやめたんですよね。子どもも減ったし、寄付も集まらなくて運営を維持できなくなったので、特養老人ホームに変えてしまったんです」

「……そうだったんですか」

 鎮目は落胆した。

 少子高齢化のご時世ではありえる話だった。それも仕方のないことだが、当時のことを知る人間がせめて一人でも残っていれば助かるのだが。

「ご用件はなんだったんですか?」

「失礼ですが、あなたは?」

「私はここの園長をしてます、長岡と言うもんです」

「園長」

「はい。あなたは?」

「失礼しました。東京で医者をしてます、鎮目恭夫と言います」

「東京のお医者さんがどうしてこんなところに」

「園長は児童養護施設時代のことをご存じですか?」

「もちろんですよ。亡くなった父と私で運営してたんですから」

 助かった。であれば、この園長に話を聞けばいいだけだ。

「以前ここに天羽大輝という人間がいたと思いますが、彼の話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「……大輝とはどういったご関係なんですか?」

「いま、彼の主治医をしているんです」

「そうでしたか。どうぞ中へ」


 鎮目が案内された場所は食堂のようだった。

 壁や床はまだきれいで、新しい建物特有のシンナーと木材が混じったような匂いがかすかに残っていた。

 玄関から廊下と食堂までの導線に段差はなかった。車イスや杖をつく年寄りのためにバリアフリー設計がされているようだ。

 ということは、児童養護施設だったときの建物は取り壊して、新たに立て直した建物である可能性が高かった。

 園長は鎮目に名刺を渡した。長岡卓と名前が書いてあった。

 長岡によると、二〇一三年に二代目園長だった父親が病死すると寄付が集まりにくくなってしまったらしい。そこで仕方なく、児童養護施設の運営を諦めて特養老人ホームを始めたという。

 わずかに残っていた子どもは県内の別の児童養護施設に引き取ってもらい、若い職員には退職してもらったそうだ。

 孤児や仕事を失った職員の立場からすれば少し酷な話に聞こえるが、五〇歳過ぎの家族もいる男性に返せる当てのない借金を作ってまで児童養護施設の運営を続けろというのも残酷な話だった。

 孤児にすれば慈聖園だって仮の住み処でしかないし、職員だって若ければ別の仕事が見つかりやすいだろう。

 長岡の判断はなにも間違ってはいないと鎮目は思った。天羽の母親の手掛かりが残されていればの話だが。

「大輝はなにかの病気なんですか?」

「はい。守秘義務があるので具体的には言えませんが、亡くなる人もいる病気です」

 長岡は黙り込んだ。お見舞いに行くと言い出さない感じを見ると、いまはもう他人だし余計な面倒に巻き込まれたくないとでも思っているのだろう。

「ですから、彼が産みの母親に会えるようになにか手掛かりが残っていればと思ってここに来た次第です」

「手掛かりって言われても、あの子はなにも持たずに捨てられてたからなぁ」

 鎮目は平織り物を取り出して見せた。

「天羽さんが捨てられていたとき、これに包まれていたらしいんですが。これから母親に繋がる手掛かりを見つけられないですかね?」

 長岡があっという表情を見せた。なにか思い出したのかもしれない。

「当時のこと、なんでもいいので話して頂けませんか?」

 長岡は黙って立ち上がって食堂から出て行った。

 鎮目はなにか機嫌を損ねることを言ったかと心配したが、長岡は同じような平織り物をいくつも抱えて戻ってきた。

 長岡は鎮目の前に平織り物をどさっと置いた。

「これは……?」

「越後上布っていう新潟の名産品です」

 触ってみると材質は同じ麻で、一緒にしてしまうとどれが天羽のおくるみだったのか分からなってしまうほど平織り物はどれもよく似ていた。

「ある程度物心ついてきた孤児は必ず質問してきます。『なにか母親の手掛かりはなかったのか?』って。正直に無いと答えると傷つけることになるから、『これに包まれていたんだよ』って親父はいつもウソをついていました」

 優しいウソか。

 信じたくない話だが、長岡の言葉には妙な説得力があった。

 子どもを捨てる母親の立場になって考えてみれば、繋がりを残したいなら昼間に訪れて職員にちゃんと名前を名乗ってから子どもを手渡すはずだった。

 それを夜中にこっそりやってきて玄関先に赤ちゃんを棄てるのだから、職員に会いたくない、名乗りたくない人間が、自分が捨てたと分かるような証拠をあえて残すはずがないのだ。

「南魚沼市にいる親戚がこの越後上布の職人でね、ことあるごとに送ってよこすんです。ウソつきな親父も死んでしまったから、どんどん溜まっていく一方ですよ。よかったら持って帰ってください」

「……じゃあ、せっかくなので一つだけ」

 天羽のおくるみが新潟県南魚沼市で作られた麻の平織り物だったことは明らかになったが、それでは母親となんの関連性も無かったことになってしまう。

 死んだ前園長や息子の長岡を批難したい衝動に駆られたが鎮目はぐっと堪えた。そんな権利は誰にもないからだ。

 越後上布が二枚に増えてしまったが、鎮目は天羽の母親を見つける手掛かりを早くも失ってしまった。

 土曜日、日曜日、体育の日の月曜日と、母親捜索のために三日分の着替えを準備していた鎮目のドライブは、結局日帰りで終わることになった。


 十月九日


「経過観察は必要ですが、UCANの投与をあと数回もすれば橋本冴子のガンは寛解するはずです」

 鎮目から冴子の臨床実験が成功したとの報告を受けて、嘉山はご満悦だった。

 鎮目は天羽が全身ガンであることはもちろん黙っていた。

 伝えたところで臨床実験を中止しろと言う人間ではないし、だとしたらカードを伏せたままのほうが鎮目にとって有利にゲームを進められるはずだからだ。

「この調子で次も頼む」

 嘉山が鎮目の前に新たな患者のプロフィールを差し出した。前回と違って、もう鎮目に選ばせる気はないらしい。 

 患者の氏名欄には「岸谷郁実」とあった。

 嘉山は席を立つと「よろしく」と鎮目の肩を叩いて部屋から出て行こうとした。

「どちらへ?」

「妻と前祝いをしてくるよ」

 さすがに気が早いと思ったが、鎮目は口には出さなかった。嘉山の機嫌がよいことが臨床実験成功の必要条件だと考えていたからだ。

 嘉山はガンの特効薬をすでに開発したつもりになっているのか、満面に喜色を湛えて病院長室をあとにした。


 研究室に戻った鎮目は、電子カルテシステムで郁実の個人情報を閲覧した。

 岸谷郁実は二十八歳の女性だ。病名は子宮頸ガンのステージⅡ期。

 子宮頸ガンを発症した場合、早い段階で発見されれば摘出をせずに子宮を残すことができる。円錐切除という子宮頸部の一部を切除する手術で治療することができ、その後の妊娠出産も可能だった。

 郁実もガンが見つかってすぐに円錐切除を受けたようだが、不運にもガンが取り切れなかったらしい。そこで現在は放射線治療を行っているようだ。

 家族構成は、結婚したばかりで六歳年上の夫・次郎がいた。

 冴子の場合と違って、子どもがいないならトラブルになる可能性も少しは低そうだと鎮目は思った。

 だが、鎮目はなぜ嘉山がステージⅡ期の郁実を選んだのかが気になっていた。

 ――だから死にかけの、手の施しようがないガン患者をセレクトしたあげたんじゃないか。

 あのとき、確かに嘉山はそう言った。

 なのに、郁実はステージⅡ期だ。手の施しようがないわけではない。

 確実に助かるとは言えないが、仮に子宮を全摘すれば助かる可能性は格段に高いのだ。

 鎮目は郁実を選んだ嘉山の真意を掴みかねた。

 だが、助かる見込みが高い患者であれば鎮目も少しは気が楽になる。臨床実験の患者が郁実でも特に問題はなかった。

 鎮目は初診の日程を決めるために、プロフィールにあった連絡先に電話をした。


 十月十日


 鎮目が待ち構える診察室に郁実と付き添いの次郎がやってきた。

 自己紹介を手短に済ませて新しい免疫療法について順を追って説明しようと思っていると、鎮目は郁実のお腹が大きいことに気がついた。

 郁実は丸顔で愛嬌がある顔をしていたが、決して太っているわけではなかった。

「あの、郁実さんはもしかして……?」

「はい。妊娠二十三週です」

 郁実が子宮全摘しない理由が鎮目にはよく分かった。だが、その一方で嘉山の考えは一切分からなくなった。

 お腹に赤ちゃんがいれば、危険にさらされるのは一人ではなく二人だ。

 郁実が助かっても、お腹の赤ちゃんになにかあればなんの意味もなかった。

 孤独な末期ガン患者は他にいくらでもいるはずなのに、どうして嘉山は今回の臨床実験に不向きな女性患者ばかりを選ぶのだろうか?

 今すぐ病院長室に怒鳴り込んでやりたい気持ちになったが、医者が急に席を立ったら患者が不安に思うだろう。

 鎮目は郁実に説明を続けることにした。

「免疫力が活性化する物質を郁実さんの体内に投与して、上手くいけばガンが寛解する可能性があります。この治療を郁実さんに受けて頂きたいと思っているんですがいかがでしょうか?」

「はい。ぜひお願いします」

 最初から受けると決めていたのか、郁実の返事は早かった。

 ただ、夫の次郎は難色を示した。

「ちょっと待てって。他に方法がないか、よく考えて決めたほうがいいんじゃないか?」

「もう決めたの」

「だから、よく考えようって」

「よく考えて決めたんだってば」

 このままだとずっと押し問答が続くだろう。鎮目は間に入ることにした。

「ご主人はなにを気にされているんですか? ざっくばらんにおっしゃってください」

 医者には言いづらいことでもあったのか、次郎は口籠もってしまった。

「この人は子どもを諦めてもいいと思っているんです」

 次郎を批難する口調で郁実が答えた。

 二人とも助けようとして結局どちらも助けられなくなるぐらいなら、どちらか一人を助けたほうがいい。その考えは鎮目も同意できた。

 ただ、それは自分の体に子どもを宿すことがないオスの発想だった。

 自分の体を痛めて子どもを産むメスは違う。

 一度胎動を感じてしまえば、自分の命を犠牲にしてでもメスは子どもを守ろうとする生き物だ。

「俺は子どもを諦めたわけじゃないよ。これからは子宮移植もできる時代だって言うし、子宮を全摘してもいいんじゃないかと思っただけで」

 郁実が両手でお腹を守るような仕草を見せた。

「そうしたらこの子は死んじゃうんだよ? それでもいいって言うの?」

「……郁実が助かるためなら仕方ないと思ってる」

「私はこの子を産みたいの」

「だから、子どもを産もうとして郁実まで死んだらどうするんだって」

 夫婦の間で何度も繰り返されてきた議論だろう。

 何度話し合っても、男女では理解し合えないことが世の中には存在している。

 けんか腰になる前に早めに話題を逸らそうと鎮目が思っていると、郁実が唐突に涙を流した。

「先生の前だぞ。どうして泣くんだよ?」

「もしこの子を諦めても、結局私だって死んじゃうことだってあるでしょう?」

「それは……」

「そうしたら、次郎ちゃんが一人になっちゃうんだよ?」

 自分一人が残されることを想像したのか、次郎まで泣きそうな顔をした。

「でも、私がこの子を産めれば次郎ちゃんは一人じゃない。あなたが寂しくないように私は絶対この子を産みたいの」

 次郎は黙ってしまった。しかし、郁実の意見に賛同したわけではない。涙を堪えるのに精一杯で反論できなくなってしまったようだ。

 郁実と次郎の主張は平行線のまま、二人の議論が途絶えた。

 どちらかが折れないことには線が交わらない。ただ、このままここで話していてもどれだけ時間が掛かるのか分からなかった。

 鎮目は同意書を渡して二人に帰ってもらうことにした。


 鎮目はすぐ嘉山のもとに向かった。

「急にどうしたの?」

 約束もなく院長室を訪ねてくるだけでも失礼なのに、鎮目は仏頂面をしていた。

 その表情に気付くと嘉山の顔つきも変わった。

「なに、その顔は? 僕になんか文句でもあるの?」

「教えてください。なぜ、よりにもよって妊娠中の患者を被験者に選んだんですか?」

 嘉山は溜め息交じりに「そんなことか」と言い放った。

「最悪の場合、同時に二人も殺してしまうことになるんですよ?」

「分かってるよ。ただ……」

 ただ、なんだと言うのだ?

「岸谷郁実に感情移入してしまってね」

「どうして彼女なんですか?」

「じつは、妻の百合子も過去に病気で子宮を全摘してるんだよ」

 嘉山がプライベートな打ち明け話をするなんて、鎮目は思ってもいなかった。

「別れた前妻との間には娘が一人いる。だから、もう子どもはいらないと思って再婚したんだが、百合子はたまに申し訳なさそうな顔をするんだ」

「……そうだったんですか」

「岸谷郁実がそんな顔しないで済むように願ってはいけなかったかな?」

「いえ、そういうことでしたら」

 嘉山から意外に人間味のある部分を見せられて、鎮目は気勢をそがれてしまった。

「なに、ステージⅣの橋本冴子でも大丈夫だったんだ。ステージⅡならなんの問題もない。彼女の臨床実験もよろしく頼んだよ」

 鎮目は「分かりました」と答えて、すごすごと引き下がるしかなかった。


 十月十一日


 次郎が一人で鎮目を訪ねてきた。

 郁実抜きでは話したいことがあると言うので、鎮目は次郎を診察室に通した。

「申し訳ないんですが、先生から郁実を説得してほしいんです」

「それは新しい治療法を諦めろ、ということですか?」

「……はい」

 郁実のことを思っての行動だろうが、次郎は後ろめたさも感じているようだった。

「最初に被験者になった患者さんはステージⅣの肺ガンでしたが、現在は寛解に向かっています。それにこの治療法には大きな副作用も確認されていません。不確かなことは言えませんが、期待はできると思います」

「じゃあ、郁実は必ず助かるんですか?」

「それは約束できませんが、子宮を全摘すれば必ず助かるという保証もありません。私の立場からすれば、お腹の赤ちゃんを諦めなくて済むこちらの治療のほうがまだ郁実さんの希望に添っていると思いますが」

「郁実には必ず助かってもらわないと困るんですよ!」

 次郎が急に大声を張り上げた。

 鎮目は大声の割りに弱気な次郎の言葉が気になった。

 そこで、真意を引き出そうとして少し意地悪な質問をすることにした。

「それはどうしてですか?」

「どうしてって……」

「郁実さんを愛しているから失いたくないとか、共働きだから家のローンの支払いがキツくなるとか、理想から現実的なことまで理由は色々あるじゃないですか」

「もちろん愛してますよ。結婚を機に仕事は辞めてもらったので家計は自分が支えていきます。でも……」

 次郎はまだ本音を明かすことに躊躇していた。

「ご主人は一体なにを恐れているんですか?」

「……赤ちゃんだけ残されても、俺一人で育てていく自信がないんですよ」

 郁実は次郎のためを思って子どもを残そうとしているが、それが次郎にとっては大きなプレッシャーだったようだ。

 鎮目は美沙と離婚するときに真悠の親権をすんなり明け渡していた。

 この先に真悠と簡単に会えなくなることは目に見えていたが、鎮目が親権を明け渡したのは異性である娘と二人で暮らしていくのが怖かったからだ。

 毎朝、真悠の髪型を男の自分がちゃんと結ってあげられるだろうか?

 思春期の女の子はどんな服装を好むのだろうか?

 自分が買った服のせいで周りから浮かないだろうか?

 真悠が自分の存在そのものを嫌う日が来たらどう接したらいいのだろうか?

 真悠に好きな人ができたらどうしたらいいのだろうか?

 真悠が結婚する日が来たら……。

 未来を想像すればするほど恐怖心が募っていった。だから、次郎の悩みは鎮目にも痛いほどよく分かった。

「……とはいえ、子どもまで失ったらあなたはきっと後悔しますよ」

「でも怖いんです。どうしたらいいか分からないんですよ」

「郁実さんもお腹の赤ちゃんも、二人とも助かる方法を試すしかないと思います」

 次郎はじっと鎮目の目を見つめていた。

 鎮目も、逸らさずにじっと見つめ返した。

「郁実さんと一緒に、もう一度私のところに来てください」

 次郎はこくりと頷いた。ようやく覚悟が決まったようだ。


 十月十九日


 鎮目はUCANを点滴静脈注射で郁実に投与した。

 患部にも直接投与したが、遠隔転移がある可能性も考慮して点滴も行ったのだ。

 容態が悪化して時間が無かった冴子の場合とは違って、免疫寛容とUCANを培養する時間をたっぷり一週間取ることができた。

 これで郁実は助かるはずだ。そして、今回はあまり採血せずに済んだので天羽の全身ガンが進行することもないと思われていた。

 鎮目は胸を撫で下ろしていた。


 十月二十六日


「なんで……?!」

 研究室で思わず声を荒らげたのは妃織だった。

 細胞診、超音波検査、PET­CT検査の結果、郁実の子宮頸ガンが縮小していないことが明らかになったからだ。

 正確に言うと鎮目の初診から数週間経過した分、ガンはさらに増大していた。

 看護師である妃織が動揺しているならなおのこと医者が動揺するわけにはいかない。鎮目は努めて平静を装った。

「郁実さんにもう一度UCANを投与しましょうか?」

 妃織の問いかけに、鎮目はしばらく考えてから口を開いた。

「なぜ効果が出なかったのか、その理由も分からないのにまた投与したって結果は同じだ」

「投与量を増やせば効果はあるんじゃないでしょうか?」

「またUCANを採取するのか? こんなに早い間隔で血を抜き続ければ、全身ガンで天羽が死ぬぞ?」

「だったら、もう一度天羽くんのPET­CT検査をしましょう。前よりガンが治まっていれば採取してもいいんじゃないですか?」

 鎮目の制止を聞かずに、妃織は天羽のPET­CT検査を放射線科に電話で依頼してしまった。

 珍しく妃織が感情的になっていたのは、年齢の近い郁実と検査などで接するうちに親しくなっていたからだろうか。

 感情移入した患者を殊更に救いたいと思う気持ちは分からなくもない。

 妃織に続いて、鎮目も仕方なく放射線科に向かった。


 画像診断の結果、天羽の全身ガンの状態は以前とあまり変わらないことが明らかになった。

 あらゆる臓器にガンが残ったままで、画像は至るところで発光していた。

 元々、人間の体内にナチュラルキラー細胞はそう多くない。天羽のUCANが特異な存在であってもその数自体は常人のそれと大きく変わらなかった。

 にも拘わらず、鎮目は臨床実験のために天羽の体内からUCANをたくさん採取してしまった。

 抑え込むUCANが激減したことで、天羽の体内で全身ガンが一気に発症してしまったのだ。

 ただの献血だって一度血を抜けば一ヶ月ぐらいは間隔を空ける。しかし、鎮目は妃織に指示して天羽から短期間に何度も血を抜いていた。

 天羽の減ってしまったUCANがもとの数に戻るには、全身ガンを再び抑え込むには、それこそ一年単位の時間が必要なはずだった。

「天羽が死んでしまっては元も子もない」

 妃織は返事をしなかったが、鎮目の言葉は理解したようだった。

 そのとき、オペレーションルームの扉が開いた。

 入ってきたのは、天羽だ。

「どうかしたのか?」

「まだ血を抜いてくれても大丈夫だよ」

 天羽はどういう意図で言ったのだろうか。鎮目はとりあえず話をはぐらかした。

「……血液検査はしばらく必要ないよ」

「しらばっくれないでいい。僕は全部知っているんだ」

 知っている? 天羽の口から予想もしなかった言葉が飛び出して鎮目は動揺した。

「知ってるって、なにをだ?」

「僕は全身ガンなんだよね?」

「……そんなこと誰から聞いたんだ?」

「PET­CT検査なんてガン患者しかしないよ。何度もされたら、嫌でも自分がガンだって気付く。それだけじゃない。僕は自分の免疫細胞が普通じゃないことだって最初から知っていたんだ」

 鎮目は妃織の顔を振り返った。

 妃織は頭を振った。自分が天羽に話していないことを主張したのだ。

「じゃあ、誰が言うんだ? もしかして嘉山病院長が?」

「違うよ。……僕は森元生物化学研究所で治験のバイトをしていたんだ」

 鎮目の口から「あっ」という声が漏れた。

 天羽が森元生物化学研究所の名前を口にしたことで、鎮目の頭の中の疑問がいくつか解消されたのだ。

「病室で詳しく話そう」

 妃織に聞かせないように、鎮目は天羽を連れ出した。


「あそこでもよかったのに」

「担当医と二人っきりのほうが患者も話しやすいと思って」

「涌田さんが病院長に密告しないか不安だっただけだろ」

 天羽は意外と勘がするどいようだ。

「まぁ、そんなことはいいから順番に説明してくれ」

 鎮目は天羽に詳しい説明を求めた。

「二〇一〇年の十二月二十四日に十八歳の誕生日を迎えた僕は慈聖園を出ることになった。とはいえ、群馬県で定職を探す気もなかったからとりあえず母親を探す旅に出ることにしたんだ」

「手掛かりはなかったんじゃないのか?」

「おくるみだけでなんとかしようと思ってた。ただ、それを知った園長がなぜか僕を必死に止めてきたんだ」

 だろうなと鎮目は思った。

 園長がついた優しいウソを真に受けて真冬の新潟県を彷徨い歩けば、天羽はきっと凍死してしまうだろう。

 殺人罪に問われることはないが、園長は眠れない日が続くことになる。

「不思議に思って問い詰めたら、園長が『おくるみは俺が用意した偽物だ』と白状した」

「なるほど。善かれと思って嘘をついていたのか」

 鎮目は初めて知ったていで話を合わせた。

「たくさん用意してあった越後上布を見せられた。怒りがこみ上げてきて園長に殴りかかろうかと思ったけど、触り比べたら自分の平織り物とは触り心地が違うことに気付いたんだ」

「……どういうことだ?」

「同じ麻でも産地によって品質が変わる。園長はいつものように自分が用意した越後上布だと思い込んでいただけで、僕が持っていたのは沖縄県宮古島産の宮古上布だったんだ」

「本当なのか?」

「園長が親戚の職人さんに相談してくれて、織物の専門家が鑑定してくれたから間違いない。だから、僕の母親は沖縄の宮古島に所縁がある人の可能性が高いんだ」

 園長の息子だが面倒に巻き込まれたくなかった長岡よりも、当事者で真実を明らかにしたい天羽の言い分のほうが信憑性がある気がしてきた。

「宮古島には行ったのか?」

「行った。けど、宮古島には五万人以上の人が住んでる。そんな簡単に母親は見つからなかった。お金はすぐに底をついたけど、冬の宮古島に仕事なんて無かった。そこで手っ取り早くお金が貯まりそうな仕事を探して治験のバイトを知ったんだ」

「森元生物化学研究所が発表した論文。君の細胞がUCANにそっくりなのかと思っていたが、まさか君こそがオリジナルのUCANだったなんてな」

「最初に僕の体の特異性に気付いた近藤博士は、元々さい帯血の研究をしていた。さい帯血に豊富に含まれる幹細胞という、体の様々な細胞のもとになる細胞を再生医療や細胞治療に応用できないかと考えていたんだ」

「それで、君の特異なナチュラルキラー細胞を幹細胞で再現しようとしたわけか」

「鎮目先生も気付いただろうけど、僕から採血し続けるのは限界があるからね」

「じゃあ、捏造扱いされたあの論文は事実だったんだな」

「その辺のことは正直僕にも分からない。ただ、こうして僕が存在する以上、UCANを人為的に作ることは可能だったんじゃないかと思う」

「近藤博士の本当に自殺だったのか?」

「それも分からない。捏造騒ぎが起こってすぐに研究所を抜け出してから博士とは連絡をとってなかったから」

「自分も有名になれると思ったからガンの特効薬の研究に協力したんだろ? 母親が見つかったかもしれないのになんで逃げたんだ?」

「マスコミから論文捏造に加担した犯罪者扱いされたらどうするんだよ? 刑務所に入ったら母親に会えるものも会えないし、集まった資金を独り占めしたい人間に口封じで殺されるかもしれないじゃないか」

 そうなると、近藤博士もやはり自殺に見せかけた他殺だった可能性が高い。

 UCANを持った天羽まで殺そうとしたとは限らないが、逃げたのは懸命な判断だったと鎮目も思った。

「……それで、そのあとは?」

「福島で倒れるまで、期間工や日雇い労働をしながら各地を転々としてたよ」

「なるほどな」

「でも、こうしてまた僕のことに気付いてくれるお医者さんに出会えてよかった」

 そう言われると鎮目も悪い気はしない。

「臨床実験の成功は僕のためでもあるんだ。だから、必要ならもっと血を抜いてくれてかまわない」

「それはダメだ。ここでさらに血を抜いたら、君の全身ガンが治せないところまで進行してしまう。母親に会うどころじゃなくなくなるぞ」

「じゃあ、どうやって患者を救う気なの?」

「それは……これから考える」

 天羽は不安そうな表情を見せた。


 鎮目は手元を照らすデスクライトだけを点けて、カーテンを閉め切った研究室で一人、電子顕微鏡をのぞき込んでいた。

 この研究室の存在は院内で明示されていなかった。外に明かりが漏れて警備員に来られると説明が面倒くさい。だから、鎮目は日没後はいつも暗い部屋で研究をしていた。

 シャーレには郁実のガン細胞が置かれている。細胞診で採取したものの残りだ。

 そこにスポイトでUCANを投与するが、動きはなかった。

 本来であればUCANが敵だと認識したガン細胞に向かって動きだすはずなのだが、そのまま観察していても一向に変化はなかった。

 まるで敵などどこにもいないかのように、UCANはのんびりとその場に留まっている。

 天羽自らが全身ガンで、UCANはあらゆるガン細胞に対して抗体を持っているはずなのに、なぜ子宮頸ガンには無反応なのか?

「……子宮!?」

 そこで鎮目は、自分が大きなミスを犯していたことにようやく気付いた。

 冷凍庫に保管しているあらゆる臓器のガン細胞から卵巣ガン、乳ガン、子宮体ガンのサンプルを取り出して、順番にUCANを混ぜてみることにした。

 すると、UCANは乳ガンだけには反応した。卵巣ガン、子宮体ガンには反応しなかった。

 卵巣、子宮、子宮頸部、これらに共通するのは女性特有の臓器だということだ。

 乳ガンは男性でも乳腺という組織があるので稀に乳ガンになってしまう人もいる。

 つまり、身体学的性別が男性の天羽大輝の体には卵巣も子宮も子宮頸部も存在しない。したがって、UCANもそれら女性特有の臓器に起こるガンの抗体を持っているはずがなかったのだ。

 鎮目はようやくUCANの弱点を知った。

 UCANは諦めて郁実を別の方法で救うしかなさそうだ。子宮を全摘すれば赤ちゃんの命が失われてしまうが、それも仕方がないことなのかもしれないと鎮目は思った。


 十月二十七日


 鎮目は診察室に郁実と次郎を呼び出して治療の結果を報告した。

「新しい免疫療法ですが、郁実さんの体には効果がありませんでした」

 鎮目の言葉を理解できなかったのか、それともなんと言えばいいのか分からないのか、郁実と次郎は黙っていた。

 最初に言葉を発したのは郁実だ。

「それは治療が失敗したということですか?」

「いえ、効果が出なかったんです」

「……一体、なにが違うんでしょうか?」

「ご存じだと思いますが、有名なガンの免疫薬『オプシーボ』ですら、効果の出る患者さんは二割強です。じつに八割の患者さんには効果が無いんです」

「郁実はその八割だって言うんですか?」

「そういうことになります。ですが、効果が出ない人がいたとしても、オプシーボが失敗作ということにはなりません。同じように、今回郁実さんに試した治療法も失敗だったことにはなりません」

 鎮目の話は論理的に正しい。ガン患者の全員が助かる治療法はまだこの世に一つも存在しない。一度でも患者を助けられなかった治療法を失敗だと排除していったら、この世から治療法がなくなる。結果、誰一人として患者を救えなくなるのだ。

 ただ、鎮目の説明を受けて郁実と次郎が感情的に納得できるかどうかは別の話だった。

「あんた、郁実を救うって言ったくせに、いざ治療に失敗したらそんな詭弁で逃げるつもりかよ!?」

「私は救うなんて一度も言っていません」

 鎮目は確かに救うとは言っていない。せいぜい、二人とも助かる方法を試そうと言ったぐらいだ。

 だが、世の中には三つの真実がある。自分の真実、本当の真実、そして相手の真実だ。

 次郎の中では、鎮目はすでにウソつきだったのだ。

「言っただろうが!」

 次郎が手を出して鎮目の胸ぐらを掴んできた。

「落ち着いてください!」

 静観していた妃織が慌てて割って入った。

「次郎ちゃん!」

 郁実も背後から次郎に抱きついた。

「責任逃れするつもりなんだろ、お前! ふざけるんじゃねーぞ!」

 鎮目と次郎が揉み合ううちに、郁実がイスに躓いて転倒した。

「郁実さん!」

 妃織がすぐに郁実を抱え起こそうとした。

「郁実!」

 頭に血が上っていた次郎も冷静さを取り戻す。

 郁実は咄嗟にお腹をかばっていた。そのおかげかお腹の赤ちゃんも無事で、郁実に怪我もなかったようだった。

「次郎ちゃん、落ち着いて話しましょう?」

「……ああ、ごめん」

 次郎は鎮目にも謝罪した。

「申し訳ありませんでした」

 胸ぐらを掴まれたので首元と、机に押しつけられたので腰当たり、おそらく最低二カ所に全治一週間程度の打撲傷ができているはずだが、鎮目は謝罪を受け入れることにした。

「ええまぁ、大丈夫です」

 鎮目から慰謝料だ訴訟だの話をしたらやぶへびになるだけだ。

 鎮目は倒れているイスを起こして座り直した。

「新しい免疫療法の効果が無かったことは私にとっても不本意です。ですが、今日は郁実さんに子宮頸ガンの別の治療法を提案できればと思いました」

「別の方法? そんなのあったんですか?」

「はい。子宮全摘出術です」

「先生。だから私はこの子を諦めたくないって言ったじゃないですか」

「ですから、三十四週まで待って赤ちゃんを帝王切開で出産します。その後、すぐに子宮を全摘するんです」

「……三十四週という数字はなにを根拠にしてるんですか?」

「早産児は様々なリスクを抱えています。体の機能が未発達で産まれてくるため病気を抱えていたり、しばらくは治療が必要になったりします。ですが、妊娠三十四週目の赤ちゃんは自分で呼吸ができる程度までに肺の機能が完成しています」

「いま二十五週だから、あと九週間待てば赤ちゃんを無事に出産できるということですね?」

「はい。そのあとすぐに子宮を全摘すれば、赤ちゃんも郁実さんも助かる可能性があるんです」

「先生。その方法でお願いします」

 郁実は次郎を見ることなく鎮目に返事をした。

 たとえ自分の命を失っても元気な赤ちゃんを産むという決意は固いようだ。

 鎮目は卓上カレンダーを見た。

 郁実が三十四週を迎えるのは年末だった。だが、土日や正月休みで病院スタッフが少ないとなにかあったときに郁実と赤ちゃんの命が危ない。

 必然的に郁実の出産予定日は、通常通り営業している十二月二十八日の金曜日に決まった。


 十二月二十三日


 鎮目は新宿駅西口にある家電量販店にいた。

 天羽の誕生日がクリスマスイブだと知ってしまったので、なにかプレゼントをしようと考えたのだ。

 医者が患者に個人的なプレゼントすることは社会通念上許されないだろうが、そもそも鎮目が天羽にやらせていること、ガン患者にしていることが社会通念上許されていない。

 鎮目はこの際、細かいことは気にしないことにした。

 本音を言えばプレゼントはマンガの単行本など安めのもので済ませたかったが、天羽はスマートホンで無料マンガをよく見ていたのでゲーム機を買ってあげることにしたのだった。

 ゲーム機コーナーに足を運ぶと、発売されているゲーム機が数種類あった。

 近くにいた店員に声をかけて「一番人気なのは?」と質問したが、二種類のゲーム機がシェアを二分しているのでどちらが一番とは言えないようだ。

「お子さんは女の子ですか? それとも男の子?」

 店員からの逆質問に鎮目の頭の中を真悠がよぎった。

「私の子どもじゃないんです。プレゼントするのは成人してる男性ですね」

 それを知って店員が薦めてきたのは、グラフィック性能が優れたゲーム機のほうだった。

 男性人気は圧倒的にこっちのゲーム機らしい。

 鎮目は本体と一緒にシューティングゲームのソフトを買うことにした。


「誕生日おめでとう」

 鎮目からゲーム機を受け取った天羽は喜んだ顔を見せなかった。

 包み紙を開けたあとから、思い出したように「ありがとう」と鎮目にお礼を言った。

「ゲームじゃないものがよかったかな?」

「いや、欲しかったよ。でも患者さんのことが気になってしまって」

 郁実の容態は正直あまりよくなかった。

 帝王切開で産むと決めた郁実は、赤ちゃんに悪影響が出るという理由で抗ガン剤はおろか放射線治療まで拒否していたからだ。

 確かにそれらの治療法は赤ちゃんの成長を妨げる、赤ちゃんを出産する郁実の体力を削ぐ可能性があったが、事実上なにも治療をしないまま三ヶ月が経過したせいで、郁実の子宮頸ガンはステージⅢ期まで進行してしまった。

「心配しなくても大丈夫。だから、気兼ねなく遊んでてくれ」

「もし、お腹の子どもが死んだら、僕のせいなのかな?」

 UCANが郁実のガンに効かなかった理由を、鎮目は天羽に話していた。

 これからの臨床実験を成功させるためには、天羽に秘密を作るべきではないと考えたからだった。

 ただし、天羽が郁実の件で勝手に責任を感じてしまうと、それがストレスになって天羽の全身ガンが悪化する恐れもあった。

 だから、鎮目は天羽に楽観的な話だけをするようにしていた。

「誰も死なないよ。じゃあ、一日早いけどメリークリスマス」

 郁実の容態についてしつこく聞かれないように、鎮目は特別病室からさっさと出て行った。


 研究室に戻って帰り支度をしていた鎮目は、机の下に押し込めたままになっているぬいぐるみが気になった。

 真悠の誕生日の約束をすっぽかしたあと、鎮目は何度か美沙に連絡を入れていた。

 だが、美沙が鎮目の電話に出ることはなく、ショートメールに返信が来ることはなかった。

 できれば会って謝罪をしたかった。患者である冴子の命が危なかったことを説明して理解を求めたかった。だが、はなから拒絶されてしまってはどうにもならなかった。

 せめて、渡しそびれた誕生日プレゼントをクリスマスプレゼント兼用ということで真悠に渡せないものだろうか。

 そんなアイデアが鎮目の頭をよぎった。

 勝手に送りつけようにも、鎮目は美沙と真悠の自宅住所を知らない。

 そのとき、鎮目は美沙が子供服の輸入販売の仕事をしていることを思い出した。

 美沙の会社の事務所か店舗か、ネットで調べれば住所が分かるかもしれない。

 パソコンを開いて関根美沙、スペース、子供服で検索すると、それらしき店舗が自由が丘にあることが分かった。

 見つかった店舗名の「ハーレクイン」と美沙の名前で再検索すると、女性情報サイトの起業家インタビュー記事が出てきた。

 ここが美沙の店で間違いないだろう。

 鎮目は宅配便の伝票を書き始めた。そのお店にぬいぐるみを送りつけることにしたのだった。


 十二月二十八日


 郁実の出産予定日になったが、産婦人科医ではない鎮目ができることはなにもなかった。

 ただ、公開手術用の見学ルームに鎮座して郁実の帝王切開術を見ているだけだった。

 鎮目の同期で産婦人科医の大野賢一が執刀する手術が始まっていたが、たった二分で赤ちゃんが姿を見せた。

 大野から赤ちゃんを預かった看護師は、小児科医の身体チェックを受けさせるために手術室から出て行った。

 はっきり性別を確認できなかったが多分女の子だと鎮目は感じた。あの女の子の可愛らしい産声は全身麻酔で眠っている郁実の耳に届いただろうか。

 鎮目はどんな赤ちゃんなのか自分の目で確かめたい衝動に駆られたが、緊急性が高い郁実の手術を見届けるためにこの場に留まることにした。

 それは後日、ゆっくりすればいいことだ。

 手術室では、続けて子宮全摘出術が始まった。

 大野が子宮と臓器の間に手を入れてガンの正確な進行度を確かめる。

 しばらく手探りしていた大野の動きが止まった。

 大野の口が動いてマスクが揺れた。

 ガラス越しの鎮目にも「インオペ」と言った大野の声が聞こえてきた。

 機械出しの看護師から剥離鉗子を受け取ると、大野は子宮に残されたさい帯と胎盤を剥離して膿盆に取り出した。

 次に看護師から糸付き縫合針を受け取った大野は、子宮の切開ラインを縫い合わせていく。

 インオペとは、手術は手遅れという意味だ。

 大野と看護師の会話する声が漏れ聞こえてきた。

 それによると、どうやら郁実の子宮頸ガンは画像診断で見たより症状が悪く、不運なことに扁平上皮ガンが腺ガンに変化してしまっていたらしい。

 子宮体部に近い箇所にできる腺ガンは膣側にできる扁平上皮ガンより悪性度が高い。早くから転移が起きやすいうえに抗ガン剤や放射線も効きにくいとされている。

 そして実際に、子宮周囲の臓器やリンパ節などにも転移があったのだ。

 仮にこれらのガンをすべて取り切っても、これだけ症状が悪化しているなら子宮から距離の離れた臓器への遠隔転移もきっとある。

 無理にガンを切り取ろうとして体に大きなダメージを与えるよりも、そのままにしたほうが少しでも長生きできると大野は判断したようだ。

 鎮目も大野の判断を全面的に支持した。

 最後に、大野は郁実のお腹を閉じて悔しそうな声で手術の終了を宣言した。


 集中治療室のベッドで、体にいくつもチューブを点けた状態で郁実は目を覚ました。

 不安げな表情を浮かべる郁実に次郎が声をかけた。

「赤ちゃんならすぐとなりにいるぞ」

 ベッドのすぐ横には郁実が産んだ赤ちゃんが入れられた保育器があった。

「女の子だって」

 赤ちゃんがモゾモゾと体を動かした。

 それを見て安堵したのか郁実が涙を流した。

「女の子だから、名前は萌果だ」

 保育器のプレートには、芽が出るという意味の萌に目的を果たすの果と書いて「モエカ」と書かれていた。

 郁実と次郎はすでに赤ちゃんの名前を決めていたようだ。

「萌果、お母さんだよ?」

 萌果の目はほぼ閉じているので、郁実の存在を認識できているのかどうかは定かではない。

 保育器には赤ちゃんを触れるように、腕が入る穴がいくつか空いていた。

 大野が郁実に赤ちゃんを触っても大丈夫だと教えてあげた。

 お腹にまだ痛みがあるのか、郁実はゆっくり上体を起こして保育器の中に腕を入れた。

 自分の手を触れてくる郁実の人差し指を、萌果が握り返した。

 その握力の強さに郁実は驚いていた。

「私、ガンでもこんなに元気な赤ちゃんを産めたんだ」

「萌果はどこも悪いところがなかったって。本当にありがとうな」

「……私のガンはどうなったの?」

 郁実のふいな質問になんと答えればよいのか分からずに次郎は狼狽えた。

 鎮目も大野も、自分の口から答えるべきなのか判断できずにお互いの顔を見合わせてしまった。

「そっか」

 三人の表情を見て、郁実はすべてを悟ったようだ。

 堰を切ったように次郎の両眼から涙が流れだした。

「ごめん、郁実。本当にごめん」

「なんで次郎ちゃんが謝るの? まだ死ぬって決まったわけじゃないでしょ? 私は死なないよ。萌果よりも長生きしてやるんだから」

 郁実は気丈にも笑っていた。


 二○一九年一月十六日


 郁実が亡くなった。

 妃織から知らせを受けた鎮目が新病棟の霊安室に駆けつけると、郁実はベッドの上に横たわって穏やかな顔をしていた。

 郁実の顔を撫でていた次郎は鎮目が来たことに気付くと、白い布を郁実の顔の上に戻した。

 そして、ぶつぶつと念仏みたいな声を発した。

「……あのとき、あなたが薦めた新しい免疫療法が効いていれば郁実も死なないで済んだはずなのに」

 鎮目を見据える次郎の両眼は眼窩が窪んでいて、まるで死者のようだった。

「なんで失敗したんですか? なんで郁実は死ななければならなかったんですか?」

 批難するような次郎の視線が鎮目には耐えられなかった。

「お願いだから教えてください」

「……このたびはご愁傷さまでした」

 そう言って頭を下げて、鎮目は早足にその場から逃げ出した。

 後ろから「答えろ!」と叫ぶ声が聞こえたが、鎮目は振り返らずに走った。

 研究室に戻ったら部屋の前に大野が突っ立っていた。

「岸谷郁実さんが亡くなったぞ」

「もう聞いた。わざわざ教えてくれてありがとう」

 IDカードをセンサーにかざそうとする鎮目の腕を大野がさえぎった。

「なんだよ?」

 大野が周囲を見回す。二人以外は誰もいなかった。

「教えたかったのはそれだけじゃない。旦那がお前の研究のことを嗅ぎ回っているぞ。郁実さんの司法解剖も望んでる。医療過誤訴訟をする気満々だよ」

 鎮目が不安に思っていたことが、思っていたより早く現実になったようだ。

「……なにか話したのか?」

「人に話せるほど、俺はお前の研究に詳しくない」

「だったら、よかった。また聞かれてもなにも話さないでくれ」

「お前は一体なんの研究をしてるんだ?」

 質問には答えずに鎮目は大野を押しのけてドアを開けた。そして、中に入ってこようとする大野を突き飛ばしてドアを閉め切った。

 イスにもたれ掛かった鎮目は大きく深呼吸した。

 ここから先、もし判断を間違えたら鎮目の医師免許は剥奪されてしまう。業務上過失致死罪で刑務所入りも考えられるだろう。

 そうならないように、まずは冷静さを取り戻すために深呼吸を繰り返したのだが、呼吸をするたびに次郎の批難するような視線を思い出してしまい、動悸がどんどん速くなっていった。


「第二の被験者である岸谷郁実さんが亡くなりました」

 鎮目から報告を受けた嘉山は、身じろぎ一つしないで聞いていた。

「UCANを投与した効果はなく、赤ちゃんの出産を優先したために子宮頸ガンが転移して手遅れになってしまったようです」

「……なんで、UCANは彼女に効かなかったんだろうか?」

 鎮目は分かっている事実を包み隠さずに話すことにした。

 嘉山に次郎から守ってもらいたい気持ちがあったからだ。

「じつは、天羽の体中にガンがありました」

 嘉山が目を見開いた。

「だからこそ、あらゆるガンに対する抗体をUCANは獲得できたんだと思われます。しかし、天羽は生物学的に男性です。女性特有の臓器である子宮や子宮頸部、卵巣は持ち合わせていません」

「なるほどな。そういうことだったか」

 嘉山はイスの向きを変えると、窓から見える景色をしばらく眺めていた。

 夫の次郎が臨床実験のことについて嗅ぎ回っている話は大野から嘉山の耳にも入っているはずだ。きっとその対応について考えているのだろう。

「今後の臨床実験についてですが」

「研究は続ける。実験は止めないよ」

 鎮目は嘉山のほうから中断を切り出されるものだと思っていた。

「……しかし、天羽がガンだということは」

「そんなことは分かってる。天羽を死なせないようにしながら続けろという意味だよ」

「ですが、UCANが万能ではないことが分かった以上、むりやり臨床実験を続ける意味がありません」

「意味があるか無いかは私が決めることだ!」

 再会してから初めて嘉山が声を荒らげた。

 鎮目は黙るしかなかった。

「……思ったんだが、逆に岸谷郁実から天羽大輝に免疫寛容したらどうなると思う?」

 鎮目はハッとした。

 日本一有名な大学病院病院長の座に登りつめることができたのは運が良かっただけではないらしい。

「岸谷郁実の免疫細胞から、UCANが子宮頸ガンの抗体を獲得するかもしれません」

「つまり患者の性別は関係なくなるよね。ガンの特効薬になる可能性はまだまだ残ってる。実験は続けるんだ」

 鎮目にも研究者の本能があった。嘉山のアイデアに興味が湧かないわけはない。ただし、

「一つだけ確認させてください」

「なんだ?」

「岸谷郁実の夫が臨床実験のことを嗅ぎ回っています。もしどこからか情報が漏れたら警察や日本医師会も黙っていないかと」

「あの夫のことなら心配はいらない。最初から手は打ってある」

 最初から?

 鎮目は嘉山の言葉の意味が分からなかった。

 だが、これ以上口答えをして嘉山から見捨てられでもしたら、裁判を起こした次郎と一人で争わなければいけなくなるかもしれない。

 嘉山に勝算があるなら、鎮目はせめて従うふりをしておくべきだと考えた。

「では、夫の対策はお願いしました。私は天羽に免疫寛容を行っていきます」

「頼んだよ。すべてうまく行ったら、君の栄転だって考えてあげるからさ」

 意外な言葉が嘉山から飛び出した。

 いま鎮目に裏切られたらきっと嘉山もダメージを避けられないのだろう。だから、ニンジンをぶら下げる気にでもなったのか。

「……ありがとうございます」

 自分を教授にしてくれるのか。栄転の意味を具体的に尋ねようと思ったが止めた。

 口ではなんとでも言えるからだ。

 せめて書面にするか、教授のイスを用意させたあとにガンの特効薬を引き渡すように持っていかないと、嘉山から金星をあげることはできないのだ。

 鎮目は一礼して部屋から出て行った。


 廊下に出てエレベーターを待っていると、滅多にならないスマートホンが鳴った。

 知らない番号だ。

 もしかすると次郎が雇った弁護士かもしれない。

 鎮目は恐る恐る電話に出ることにした。

「はい……」

「もしもし?」

 女の声がした。

 声からしてまだ若いような気がした。弁護士ではなく、そのパラリーガルだろうか。

「お父さん?」

 鎮目をお父さんと呼ぶ権利がある人間はこの世に一人しかいない。

「もしかして……真悠か?」

 鎮目が憶えていた七年前の声から少し変わっていたが、「うん」という返事が聞こえた。

 間違いない。ずっと聞きたかった声だ。

 真悠は鎮目に「話がある」と言った。

 夜になるのに中学生の女の子を都心の繁華街まで外出させるのは気が引けたので、鎮目が真悠の住むという自由が丘駅まで向かうことにした。


 タクシーで新宿三丁目駅まで出た鎮目は、副都心線で自由が丘駅にやってきた。

 改札を出てすぐに喫茶店のドトールがあったが、せっかく真悠と会えるのだから少しはしゃれた店で待ち合わせようと鎮目は考えた。

 同じ通り沿いにマカロンが有名な洋菓子店があったので、その二階のカフェに入って鎮目は真悠を待つことにした。

 鎮目は店員にホットコーヒーを注文して、ショートメールで真悠に店名を伝えた。

 七年ぶりに会う真悠の顔がすぐに分かるだろうか?

 たまたま中学生ぐらいの別の子が入ってきたら真悠と間違えてしまわないだろうか?

 そんなことを不安に思っているとあっという間に時間は過ぎていった。

 店内の階段を誰かが上ってくる音がする。

 上ってきたのは、真悠だ。

 間違いない。かなり成長しているが幼いころの面影が残っている。それに、出会ったころの美沙にも似ていた。

「真悠。こっちだ」

 鎮目が手を上げると真悠も気付いたようだ。

 真悠は緊張した面持ちで駆け寄ってきて、「久しぶり」と言って鎮目の向かいに座った。

「元気だったか?」

「まぁね」

 ちょうど店員がホットコーヒーを持ってきたので、鎮目は真悠にメニューを見せた。

「なんでも頼んでいいぞ」

「ミルクティーください」

 真悠は悩むことなく即答した。

「それだけでいいのか? マカロンでもケーキでもなんでも頼んでいいんだぞ」

「それだけでいい」

 店員は鎮目に会釈をして、伝票を持って下がっていった。

「久しぶりにあったからって、そんなにはしゃがないでいいからね」

 確かに鎮目のテンションは上がっていたが、はしゃぐというほどではなかったはずだ。

 中学生である真悠はきっと反抗期に差し掛かっているのだろう。

 嫌われたりしないように目立つ言動は慎もうと鎮目は思った。

「そうか。じゃあ静かに話すよ」

 真悠はいきなりスマートホンを取り出して、SNSを見だした。

 いますることかと思ったが、七年ぶりに会った父親と相対して真悠も真悠できっと緊張しているのだろう。

 その緊張を誤魔化すためにこんな行動をとっているのだと鎮目は理解を示した。

「そういえば、俺の電話番号をどこで知ったんだ?」

「伝票に書いてあったから」

 鎮目がクリスマスにプレゼントを贈った宅配便の伝票のことだった。

「誕生日の約束をすっぽかしたくせに、あんな一方的に大荷物を送りつけてくるからママはメチャクチャ怒ってたからね」

 怒って当然だろう。少なくとも美沙に疎まれるのは分かっていた。

 問題は真悠がどう思ったかだ。

「クマのぬいぐるみ、どうだったかな?」

「私の部屋、すごく狭いんだよ? 置き場所に困るんだけど」

「そうか。それは知らなかった」

「一応お礼言っとく。ありがとう」

 美沙が真悠を身籠もったことが明らかになったあと、鎮目がプロポーズで花束を贈ったことがあった。

 ――花は雑菌がついているから感染症になる危険があるって知らないの? この子になにかあったらどうするつもりなのよ。

 結論から言えば美沙は鎮目のプロポーズを快諾したのだが、最初はなぜかそう言って悪態をついていたことを思い出した。

 もしかしたら、見た目だけではなく素直じゃない性格も美沙に似たのかもしれない。

 真悠の言動を好意的に解釈した鎮目は、そろそろ本題を切り出すことにした。

「お礼を言うためにわざわざ連絡をよこしたわけじゃないよな? なにかあったのか?」

 怒っている美沙の目を掻い潜ってわざわざ番号を調べて鎮目に連絡をよこすということは、美沙には言えないような重大な問題が起きたときだろう。

 鎮目はそう考えたのだ。

 真悠は鎮目の質問にどう答えるべきか悩んでいるようにみえた。

 そのうちに店員がミルクティーを持ってきたので、真悠は一口すすった。

 気持ちが落ち着いて心の整理もついたのか、真悠はようやく口を開いた。

「……じつは、ママの仕事がうまく行ってないみたいなんだよね」

 美沙の仕事とは子供服の輸入販売だ。ECサイトだけのビジネスかと思ったら実店舗も構えていたので、鎮目はてっきり美沙の仕事は順調なのかと思っていた。

「赤字だったのか?」

「ううん。黒字だったんだけど、一緒に経営していた友だちが店のお金を持ち逃げしたらしくて」

 良い知らせではなかったが、鎮目は内心ほっとしていた。

 真悠が彼氏の子どもを妊娠したなどと言い出さないか、少し心配していたからだ。

 金でどうにかなる問題なら、鎮目は問題だとは思わなかった。

「警察に被害届け出してるらしいんだけどお金が戻ってくる保証はないし、仮に戻ってきたとしてもその前に支払いが滞るから店が潰れちゃうってママが悩んでてさ」

「……いくらあれば大丈夫なんだ?」

「分からない。具体的なことは私に一切話してくれないから」

「そうか。じゃあ、とりあえずあるだけ美沙の口座に振り込んでおく。足りなかったら、美沙から俺に連絡をよこすように伝えといてくれ」

 仙台にいた七年間に、散財せずに貯金していてラッキーだったと鎮目は思った。

「もう心配しなくていいからな」

「ごめんなさい」

「なんで謝るんだよ? 俺は真悠に頼ってもらえて嬉しかったんだぞ」

「……じゃあ、ありがとう」

 真悠はようやく緊張が解けたのか、急に涙を流し出した。

「お、おい、なんで泣くことがあるんだ?」

 ハンカチを持たない鎮目は、テーブルにあった紙ナプキンを慌てて真悠に手渡した。

 他の客や店員の視線が集まってかなり気まずい。流行りのパパ活と勘違いされていないか不安な気持ちもあったが、鎮目は父親らしくいられるこの時間がもっと続けばいいと思っていた。


 一月二十三日


 シャーレには子宮頸ガンのガン細胞が置かれていた。

 そこに、スポイトでUCANが注入された。

 UCANは少しずつガン細胞に近づき、その内部に侵入した。

 UCANが徐々にしわくちゃになって死滅すると、今度はガン細胞もしわくちゃになって死滅し始めた。

 病院長室の壁に映し出されていたプロジェクターの再生が終わった。

「免疫寛容をして子宮頸ガンの抗体を獲得したUCANが、実際に子宮頸ガンのガン細胞を攻撃するのを確認できました」

「思った通りだったね」

 鎮目の説明を聞いて嘉山が表情を緩めた。

 郁実の臨床実験をするより前に、自分がこのアイデアを思い付かなかったことを鎮目は少しだけ悔やんでいた。

「じゃあ、臨床実験を再開してもらおうかな?」

 嘉山が新たな患者プロフィールを取り出して鎮目に手渡した。

 名前は倉持陽菜。二十七歳で無職の女性だ。

 長い黒髪が美しく小顔なわりに瞳や口の大きさが印象的な、簡単に言えば美女だった。

 アイドルグループのセンターにいてもおかしくはない出で立ちだが、この年齢で現在は無職ということは彼女は芸能界などには興味がなかったらしい。

 都内の有名女子大学を卒業して希望していた商社に就職した陽菜は、不幸なことに乳ガンを発症してしまう。

 右胸を部分摘出して間もなく社会復帰したが、不運なことに四年目の検診で今度は脳に腫瘍が見つかった。現在は会社を辞めて治療に専念しているそうだ。

 別々にできたガンかもしれないが、乳ガンから脳に転移する症例は多いので彼女も乳ガンから転移したと考えられていた。

「可哀相に、外科手術では摘出が困難な位置に脳腫瘍があるらしい」

「なんでなんですか?」

「……どういう意味だ?」

「天羽の全身ガンは好ましいとは言えない状態が続いています。体内でUCANが元通りに増加してガンを抑え込むにはもっと時間が必要なんです。なのに、なんでまた臨床実験をしなければいけないんですか?」

「君が知る必要はないだろう」

 もっともな疑問だったが、嘉山にとっては答える価値すらないらしい。

「……では、せめてもう少し時間をください」

 嘉山がボソッとつぶやいた。「その時間が無いんだよ」

 鎮目にはそう聞こえたような気がした。

「時間が無い?」

「何度も言わせるな。これは命令だからさっさとやればいいんだ」

 嘉山の剣幕に気圧された鎮目だったが、今日は引き下がらずになにか言い返そうと思った。

 同時に、嘉山の電話が鳴った。

「はい」

 電話に出た嘉山が鎮目に対して手を振った。出て行けという意味だ。

 嘉山の表情が一層険しくなる。

 仕方なく、鎮目は部屋から出て行った。


 研究室に戻った鎮目は、橋本冴子、岸谷郁実、倉持陽菜の患者プロフィールを机の上に並べた。

 共通するのは、三人とも女性ということだ。

 人口動態統計によるガン死亡データによれば、二〇一六年にガンで死亡した人は三七万二九八六人で、うち男性が二一万九七八五人、女性が一五万三二〇一人だ。

 確率論でいえば、この三人のうちに男性が二人、少なくとも一人はいないと不自然だった。

 にも拘わらず、これまでの被験者は全員が女性だ。

 さらに、死亡数が多いガンは男女計で第一位が肺、第二位が大腸、第三位が胃、第四位が膵臓、第五位が肝臓だ。

 この三人が肺ガン、大腸ガン、胃ガンを患っているならまだ分かる。

 ところが、冴子は肺ガン、郁実は子宮頸ガン、陽菜は乳ガンから転移した脳腫瘍だった。

 冴子の肺ガンはいいとしても、郁実の子宮頸ガンは子宮体ガンと合わせても女性で第五位。陽菜の脳腫瘍は脳・中枢神経系のガンでくくっても全体の一パーセントにも満たないレアケースだった。

 これまでの臨床実験でUCANが女性特有の臓器には特効を持たないことが分かり、郁実から天羽に免疫寛容をしたことで性別に関係なくあらゆるガンに特効を持つことができた。

 UCANの弱点が無くなったので、結果的にこれまでの臨床実験にメリットはあった。

 だが、それはあくまでも結果論だった。

 少ないサンプルで大きな成果をもたらすためには、女性だけではなく男性患者も交えて死亡数が多いガンから順番に臨床実験をするのが一番効率がよかったはずだ。

 天羽のUCANが有限で、UCANを採取しすぎれば天羽自らが死んでしまうと分かった今、それでも嘉山があえて脳腫瘍の女性患者を次の被験者に指名するのは一体なぜなのか?

 ――その時間が無いんだよ。

 あのとき、嘉山がつぶやいた言葉には一体どんな意味があったのだろうか?

 時間が無い。

 たとえば、この陽菜という女性の余命がないという意味だとしたら?

 陽菜は嘉山にとってただの患者ではない。だが、外科手術では摘出が困難な位置に脳腫瘍があった。彼女を救うことは容易ではなかった。

 しかし、嘉山はUCANの存在を知った。これで陽菜を救えるかもしれない。

 万善を期すためにもっとも多い肺ガン、次に子宮頸ガンの女性患者でテストしたあとに、陽菜にUCANを投与すれば失敗するリスクも大幅に軽減できる。

 あの嘉山なら充分にありえる筋書きだった。

 だとすると、陽菜は嘉山にとって一体どういう女性なのか?

 鎮目がふいに振り返った。

 視線の先には妃織がいた。鎮目に見られていることには気付かずに黙々と天羽の診療記録を記入していた。

 高齢の嘉山に愛人が何人もいるはずがないと、嘉山は頭を振った。

 愛人関係ではないとすれば他に考えられる関係性は?

 ――別れた前妻との間には娘が一人いる。

 お腹に赤ちゃんがいる郁実を被験者に選んだことを鎮目から批難された嘉山は、珍しくプライベートを明かしてくれた。

 あれが作り話ではないならば、陽菜は嘉山と前妻との間にできた実の娘なのかもしれないと鎮目は思った。

 嘉山の本当の目的を推測するうちに、鎮目の脳裏に真悠の顔が思い浮かんだ。

 父親にとって娘は可愛い。何者にも代え難い。

 中国には愛国無罪という言葉がある。「国を愛することから行われる蛮行に罪はない」という意味だ。

 それと同じと言ったら大袈裟かもしれないが、嘉山は「娘を救うために行われる蛮行に罪はない」と考えたのかもしれない。

 そのためには末期のガン患者が何人か死んでも仕方がない。

 そんな思想は社会通念上、決して許されることではないだろう。

 だが、自分が嘉山ともし同じ立場だったとしたら、そんなことはしないと鎮目は断言できなかった。



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