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ステージⅠ-2

九月十八日


 早朝から鎮目は研究室で論文を読み込んでいた。

 鎮目は免疫抑制剤に代わる別の方法に気付いていた。それが免疫寛容だ。

 論文はどれも免疫寛容に関するものだった。

 まず、患者の体から血液に含まれる免疫細胞を取り出す。

 次に、患者の免疫細胞に天羽のUCANを混ぜ、特殊な薬剤と一緒に培養する。

 このとき、患者の免疫細胞は「UCANは敵ではない、味方だ」と学習するのだ。

 そうやって躾けた免疫細胞を再び患者の体に戻す。

 すると今度は、患者体内にある司令塔の免疫細胞にも「UCANは敵ではない」という情報が伝わり、攻撃をしなくなる。つまり、拒絶反応が起こらなくなるのだ。

 必要な免疫機能も保たれるため、合併症のリスクも減る。ガンの発生率が上がることもない。

 この方法を使えばUCANの治療に失敗しても直ちに患者を殺してしまうことはないと鎮目は考えた。仮に死んだとしても、それは治療の効果が出るより先に患者の体力が尽きて死んだに過ぎないのだ。

 無責任な考え方にも思えるが、そう思わなければいきなり人体で臨床実験などできない。それに、鎮目だってできることなら患者を救いたかった。

 鎮目は、覚悟を決めた。


 旧病棟一階にある診察室だった部屋で、妃織が橋本冴子から採血をしていた。

 基本的な血液検査で冴子の病状を確認するためでもあったが、採血管の本数が通常より何本か多かった。

「ご気分が優れないようならすぐ仰ってください」

「大丈夫です」

 冴子はそう返事をしたが、冴子の見た目から大丈夫だと思う人間はいないだろう。

 ただの採血でも致命的なダメージを与えかねないと思えるほど、冴子は痩せ細って衰弱していた。冴子の体はガン悪液質と呼ばれる状態だったのだ。

 ガン悪液質とは病状の進行に伴い、体重減少、低栄養、体力消耗が徐々に進行していく状態を指した。

 もっと分かりやすく言えば、体が吸収しようとしている栄養を先にガン腫瘍が吸収してしまうことによって体が衰弱していく状態だ。

 このまま放っておけば、冴子の命はもって三ヶ月だろうな。

 鎮目はこれまでの経験から冴子の寿命をそう見積もった。

 採血が終わったので、妃織が廊下で待たせていた冴子の夫・忠信を招き入れた。

 鎮目は挨拶もそこそこに、冴子と忠信に新しい治療法についての説明を始めた。

「冴子さんには新しい免疫療法の被験者になって頂きたいんです」

「はぁ」

 冴子は力のない相槌を打った。

「免疫力が活性化する物質を冴子さんの体内に投与して、上手くいけばガンが寛解する可能性がある治療法です」

「あの、すみません。質問いいですか?」

 忠信が話に割り込んできた。

 鎮目は順を追って説明してから最後に質問の時間を設けようと思っていた。

「もちろんです。疑問に思ったことはなんでも聞いてください」

「免疫療法は効果に個人差があってすぐ効かなくなることが多いと別の先生にお聞きしました。だから、うちのは抗ガン剤治療を選択したんですが」

 ガン患者の家族だけあって、忠信は色々と詳しいようだ。

「その考え方も間違いではありません。ガン細胞には免疫細胞の攻撃にブレーキをかける能力があると言われています。それで、多くの免疫療法はガンにブレーキをかけられてしまうので効果が持続しないと言われてきました」

「それじゃあ、あまり意味がないように思いますけど……」

「今回お願いするのはまったく新しい免疫療法なんです。個人的には治療を受ける価値があるのではないかと思っています」

「免疫力が活性化するって、具体的にはどんな物質なんですか?」

 質問してくるのは忠信ばかりで冴子は黙って聞いていた。

「お教えできません」

「え、なんで?」

「情報が漏洩してよそで先に論文を発表されてしまうことを防ぐためです。薬が開発される場合は特許も関係してきますから、情報漏洩を絶対に防がないといけません」

「そうですか」

 忠信が残念そうに吐息をついた。

 天羽という一人の人間の特異なナチュラルキラー細胞だと説明してもどうせ納得はできないだろう。だったら、もっともらしい話で濁しておくほうが鎮目にとって何かと都合がよかった。

「奥さまの体に関わることですから心配されるのは分かりますが、近い将来に多くの患者さんを救うためには必要な措置だとご理解ください」

 自分の体ではない忠信が話に前のめりで、自分の体のことなのに冴子は他人事のようだった。それにどこかソワソワしている。

 以前もどこかでした質問を繰り返す夫にイライラしているのだろうか。それとも、早く話が終わってほしいとでも思っているのだろうか。

「分かりました。じゃあ、その治療法にどんな副作用があるのか教えてもらえますか?」

「現在確認できている副作用はありません」

「そうなんですか」

 だったら、ダメ元で治療を受けようよ。

 忠信はそう言わんばかりに冴子を見た。

「ですが、冴子さんの体に副作用が出ないとも言い切れません。どんな治療にも副作用はあるんです。ただ、私はどんなことがあっても全力で冴子さんの治療に当たるつもりですよ」

 全力で治療に当たるとか、医者であれば当然の義務をわざわざ強調するのは鎮目の好みではなかった。だが、こういう大袈裟な医者の方が患者から信頼されると言うこともよく知っていた。

「冴子……」

 忠信は冴子に声を掛けた。

 この医者なら信頼できそうだから、自分で返事をしてくれ。

 忠信は冴子をそう促しているのだろう。

「……あの、先生」

「はい」

「その新しい免疫療法の治療費って、どのくらいかかるんでしょうか?」

 鎮目は冴子がお金のことを言い出すとは想定していなかった。

「治療費……ですか?」

「はい。きっとお高いんですよね?」

 創薬の治験ならば費用は製薬会社が負担してくれるが、今のところ製薬会社は研究に噛んでいない。しばらくはその予定もないだろう。

 嘉山と鎮目が秘密裏に行う異端な研究に大学予算が割り当てられているとは思えない。割り当てようとすれば内容が明るみに出てしまうので今後も大学予算は期待できないだろう。きっと嘉山の裏金がこの研究の資金源になっているはずだ。

 その状況で事前に相談なく、治療にかかる費用はすべて病院が負担すると冴子に答えようものなら、あとで嘉山になにを言われるか分からなかった。

 もしかすると、治療費を全額自腹で支払わされるかもしれない。

 だとすれば、鎮目はこう答えるしかなかった。

「おっしゃるとおり、この治療は自由診療になります」

「やはりそうですか」

「自由診療ってなんですか?」

「すべて実費になる治療ということです」

「保険は利かないってことですか……」

「ええ。入院費などもすべて実費ですし、もし副作用で別の病気になったとしてもその治療は自由診療扱いで実費になってしまうんです」

「高額療養費制度みたいにあとでお金が返ってくる方法はないんですか?」

「ありません」

「そんな……」

 本人以上に落ち込む忠信を慰めようと、冴子が背中に手をかけた。

「私は大丈夫だから」

 忠信は冴子が背中に置いた手をとって握りしめた。

「いや、受けよう。ガンが治る可能性があるなら新しい治療法にかけてみようよ」

「うちにそんなお金ないでしょ」

「定期預金を解約すればいいじゃないか」

「哲平の大学進学はどうするの?」

 鎮目は息子の名前が哲平だと知った。

「あとで考えればいいだろう」

「あとでって、もう来年のことでしょ。たった一年でどこから学費を捻出する気?」

「それは、奨学金とか色々方法はあるだろう」

「簡単に言うけど、奨学金は返せなくなる子どもが多いって社会問題になってるじゃない。哲平が破産でもしたらどうするの?」

「それは……」

 忠信は答えに詰まって黙り込んでしまった。

 気まずい沈黙を終わらせるためにも、鎮目は同意書を差し出した。

「あとはご家族でよく考えて頂いて、一週間後にはお返事を頂けると助かります」

 クリアファイルに入れた同意書は、冴子ではなく忠信が受け取った。


 研究室では妃織が血液から免疫細胞を分離させて、培養する準備をしていた。

 採血管のラベルにあった名前は橋本冴子だ。

 鎮目は冴子の同意がまだないのに、培養目的で多めに採血するように妃織に指示を出していた。

 免疫細胞を培養して天羽のUCANと免疫寛容をするには、どんなに急いでも一週間はかかってしまう。同意を取り付けてから準備をしていては、冴子の命を無駄に危険にさらすことになる。

 そこで鎮目は、先回りして時間的ロスを無くそうとしていたのだった。

 もしも冴子が治療に同意しなければ、培養した免疫細胞は捨ててしまえばいいだけだ。感謝されることはあっても、それが表沙汰になって問題になることはない。

 そもそも、この臨床実験自体に問題があるのだが、その解決法を鎮目は思いつかなかった。

「鎮目先生って、嘉山病院長に似てきましたよね」

 作業をしていた妃織が唐突に話しかけてきた。

「……そうかな? ありがとう」

 鎮目はウソをついて、精一杯嬉しそうな素振りをみせた。

 すると、妃織の口元がなぜか緩んだ。

「なにがおかしいの?」

「本当は病院長のこと嫌ってますよね?」

「そんなこと……ないよ」

「人間は自分と同じような人間を本能的に嫌うようにできてるんですよ」

「同属嫌悪ってやつか」

「だから、病院長は鎮目先生のこと嫌いらしいです」

 鎮目の心が騒ぎだした。

「誰が言ってたの?」

「それは言えませんよ。……本人は言ったことを忘れているし、先生も忘れてください」

 この女は俺をからかっているのか? それとも嘉山の命令でしていることなのか?

「君はなにが言いたいんだ?」

「いくら病院長の命令があったとはいえ、違法な治療行為は慎んだほうがいいと思います。言いたかったのはそれだけです」

 妃織は冴子の同意がないまま免疫細胞を培養することを問題視しているのだろう。

「ご忠告ありがとう。よく考えてみるよ」

「よろしくお願いします」

 免疫細胞を乗せた培養ディッシュを培養器にしまうと、妃織は研究室から出て行った。

 妃織が純粋に自分を心配して言った言葉なのかどうか、鎮目には判断できなかった。もしかすると、鎮目を脅す目的があったのかもしれない。

 嘉山のスパイだと思っていたが、妃織には妃織の思惑があってスパイのふりをしている可能性もあると鎮目は考えた。

 嘉山とは別に、妃織の行動にも注意を払う必要がありそうだ。

 一人になった鎮目は私物のノートパソコンを開いた。

 そして、「橋本哲平」の名前を検索した。

 ネットリテラシーが低い今どきの高校生だけあって、検索結果には様々なSNSのアカウントが引っかかった。

 クリックしたSNSには体育祭の写真がアップされていた。ジャージにあった「KOUYO」の文字から、哲平が通っているのは私立向陽高等学校だと分かった。

 学校ホームページに載っているジャージのデザインとも一致した。間違いない。

 鎮目は冴子の息子の哲平に偶然を装って会おうと考えていた。

 母親がガンで死にそうなら、普通の息子は自ら望んで大学進学を諦めるだろう。

 あそこまで痩せ細っていれば、哲平も冴子がガンだと知らないはずがなかった。

 なのに、冴子も忠信も哲平に大学進学を諦めてもらおうという話をしなかった。それは一体なぜなのか?

 鎮目は哲平本人に問いただすつもりだった。

 本来であれば医者がここまで患者のプライベートに干渉することはない。ただ、今回は特別だった。

 哲平に会うことで冴子が治療を拒否する理由を潰せるならばそれに超したことはない。

 そうでなくても、哲平がなにかあったときに裁判を起こしそうな人間性だと分かれば、こちらから冴子の治療を中止する判断も下せるだろう。

 哲平に会うのは鎮目にとってただの安全策。石橋を叩いて渡る行為に過ぎなかった。


 鎮目は都営三田線の西巣鴨駅に降り立った。

 幸いにして駅から向陽高校までは明治通りの一本道だったので、途中で待ち伏せしていれば哲平もすぐに見つかりそうだった。

 鎮目が高校まで歩いて向かう途中に、待ち伏せするにはちょうどいい公園があった。

 鎮目がベンチに腰掛けていようと思い中に入っていくと、向陽高校の制服を着た男の子の姿があった。

 この時間に帰宅するならきっと部活に入っていない生徒だ。細身で身長は平均より少し低いぐらいか。まだ暑さが残っているのに半袖シャツの一番上までボタンを閉め、ちゃんとネクタイを締めている。真面目な性格をしているのだろう。

 その男の子は水道でなにかを洗っていた。

 前屈みになって顔が見づらかったが、鎮目は念のため顔をのぞき込んだ。

 すると、男の子はSNSに上がっていた写真と同じ顔をしていた。早くも哲平が見つかったのだ。

 鎮目は少し考えてから、哲平に声を掛けることにした。

「橋本哲平くんだよね?」

「……誰ですか?」

 哲平は知らない人間から名前を呼ばれて驚いたようだ。

「お母さんの治療を担当している医者で、鎮目と言います」

「なんで僕のことを?」

「治療中にお母さんが君の話をしていたから」

 哲平は鎮目を警戒しているのか黙り込んでいた。

「この近くのクリニックで月に何度か外来を受け持っているんだ。お母さんが見せてくれた写真と同じ男の子がいたもんだから、ついね」

「母は僕のこと、なんて言ってたんですか?」

 哲平の眼差しからは敵意が感じ取れた。鎮目に向けたものなのか、冴子に向けたものなのかはまだ分からない。

「真面目ないい子だから、第一志望の大学に受かってほしいって」

「……僕に関心があるとは思えませんけどね」

 哲平は冴子に対して良い感情を持っていない口ぶりだった。

「冴子さんの病気のことは知ってるんだろ?」

「知らないはずないじゃないですか」

「じつは、冴子さんに助かる可能性がある新しい治療法を提案したんだ。だけど、彼女は受けるのを躊躇っている。君の学費のために貯めたお金を治療費として使いたくないことがその理由らしいんだよ」

 それを聞いて哲平の顔色が曇った。

「それで、よかったら君からも冴子さんを説得してもらえないかと思って」

「あの人が治療を受けたくないなら、別にそれでいいんじゃないですか?」

 予想外に冷酷な答えが返ってきた。母親のことをあの人呼ばわりか。

「……治療を受けなければどうなるか、分かって言ってるんだよね?」

「もちろんですよ」

「母親が死ぬかもしれないのに、その言い草はないだろ」

「母親だなんて、もう思ってませんから」

「……そんなに大学に行きたいのか?」

「当たり前じゃないですか。人間なんていつか必ず死ぬんです。それが早いか遅いかが違うだけじゃないですか。ガンが治る保証もないのに無駄な治療に金をつぎ込んで、そのせいで俺が大学に行けなくなるなんてどうかしてますよ」

「大学のランクを落として特待生で学費免除を狙うとか、何年間か浪人してバイトで学費を貯めるとか、大学に行く方法は他にあるだろ」

 哲平が溜め息を吐いた。

「医者って頭が良くないとなれないと思ってましたけど、なにも分かってないんですね。Fランの大学ならそもそも行く価値がありません。二年浪人したら大学を出ても新卒扱いになりません。どっちにしてもまともな会社には就職できなくなるんですよ」

 分かっていないのはどちらだ。自分一人の力で人生を切り開こうとは考えないのか。

「とにかく、母親のわずかな延命のために僕の人生あと七十年を犠牲にしろって話は勘弁してください」

「犠牲にしろとまでは言ってないよ」

「同じことです。このご時世に最終学歴が高卒なんてことになったら、どんな人生を過ごすことになると思ってるんですか?」

 まぁ、人より裕福な暮らしを手に入れられる可能性は低いだろうと鎮目は思った。だが、

「高卒で成功してる人間だって大勢いるだろう」

「ガンが治らなくて死ぬ人のほうがはるかに大勢いますよ。勝率が低いギャンブルをわざわざしろなんて、とても医者の言うことだとは思えません。あなたは本当に母の担当医なんですか?」

 鎮目は冴子の担当医ではあったが、冴子のガンは必ず治る、だからギャンブルしろ、と哲平に言う権利はなかった。

 そんな約束をして冴子をもし助けられなかったら、鎮目が訴訟地獄に苦しむ羽目になってしまう。

 鎮目が答えに窮していると、公園の前がザワついてきた。

 駅に向かう生徒たちが、哲平と鎮目が大声で口論しているのに気付いて立ち止まっていたからだ。

 服装の乱れた不良らしき男子生徒が「お、哲平じゃん。どうしたの、カツアゲされた? 俺にも金貸して」と面白おかしく騒ぎ立てていた。このままだとすぐ人だかりになるだろう。

「もうこれで失礼しますね」

 学校で目立つことは避けたいのか、哲平は水道で洗っていた底の深い密閉容器をフキンで包んでカバンにしまった。

 哲平は弁当箱を洗っていたようだ。

「気をつけて」

 鎮目の言葉を無視して、哲平は人だかりとは反対の公園出入り口から去って行った。

 鎮目は哲平がわざわざ公園で弁当箱を洗っていた理由が気になった。

 冴子の家事の負担を軽くするために洗って持ち帰るのは分かる。だが、なぜ近くの公園で洗う必要があるのか? 学校内で洗えば済むことだろう。

 鎮目が周囲を見回すと、燃えるゴミ箱の中にちょうど密閉容器の形に押し固められたごはんやおかずが散乱していた。

 どうやら哲平が捨てた弁当の中身のようだ。

 哲平はなぜ冴子が作った弁当の中身を捨てたのだろうか?

 冴子のことが嫌いで嫌いな人間が作った料理を食べたくないなら本人に直接そう言えばいい。わざわざここに捨てて弁当を洗っていたのは、冴子にはちゃんと食べたふりをしているということなのか?

「おじさん、哲平のなんなの?」

 先ほどの不良生徒が馴れ馴れしく鎮目に話しかけてきた。

「そういう君は哲平くんの同級生かい?」

「そうそう。超仲良し。テストはいつも哲平に見せてもらってるぐらい」

 テストのときだけ仲良しで、それ以外は哲平をいじめているであろうことは容易に想像がついた。

 そして、この不良生徒には哲平をいじめている自覚もないであろうことも分かった。

「あいつ、まだ捨ててるのか」

 燃えるゴミ箱の中身に気付いた不良生徒がそうつぶやいた。

 どうやら不良生徒は哲平が弁当の中身を捨てる理由を知っているらしい。

「彼はなんでここに弁当箱の中身を捨てるのかな?」

「そんなの、クソ不味いからでしょ」

「どうして分かるんだ?」

「哲平が見た目グチャグチャの弁当を持ってくるようになったから、冗談で勝手に一口食べたんだよ。そしたら見た目以上にクソ不味いの。もうクラス全員で大爆笑」

 男子生徒は笑いが欲しくてイジっただけのつもりだろうが、その出来事がきっかけで哲平の心は深く傷ついたのだろう。

 それから誰かに見られて笑われることが怖くて、学校で弁当を食べることができなくなった。

 ガンと闘病しながら息子に毎日ちゃんと弁当を作るだけでも冴子は立派だし、哲平に対する愛情もあるはずなのだが、哲平は肝心なことが分かっていないようだ。

 母親が弁当作りで手を抜くようになった。そのせいでいじめられるようになった。毎日公園で弁当箱を洗わなきゃいけない自分が惨めで悔しい。

 そんな憤りを哲平が不良生徒ではなく冴子に向けるようになった結果、冴子も忠信も哲平に遠慮するようになった。

 だから、冴子も忠信も哲平に大学進学を諦めろとは言えないし、哲平も冴子のために大学進学を諦めようとはしなくなったのだろう。

 鎮目の疑問が解消された。

「分かった。教えてくれてありがとう」

「え? それだけ?」

「それだけって?」

「情報料ぐらいもらわないと」

 不良生徒は鎮目に手のひらを差し出してきた。

 調子に乗っているこの男子生徒をきつく懲らしめる必要があると鎮目は感じた。

「あんまり調子に乗ってると、病院に行く羽目になるぞ」

 鎮目の怒気を帯びた握りこぶしに気付いた不良生徒は「なんだよ、おっさん。やってみろ、この不審者! 警察に通報するからな!」と捨て台詞を吐いて逃げ出した。

 不良生徒が逃げ出してくれてよかったと鎮目は思った。ケンカになれば運動不足の鎮目が負けることだってあったはずだ。

 本当に通報はしていないと思うが、鎮目も立ち去ることにした。

 思春期に自分を抑圧しすぎた子どもは反抗期が遅れてくることがあるという。

 哲平も勉強ばかりしていたせいで今になってようやく反抗期が始まったのだろう。

 だから、弁当のことがきっかけとなってなんでも冴子に反抗するようになってしまった。

 哲平が反抗期で冴子の治療に反対しているなら、反抗期が終わるまで待たないときっと説得は不可能だ。だが、それを待っている間に冴子の命が尽きてしまうだろう。

 冴子を説得しようにも、自分が死んで残される息子にせめて大卒という学歴は残してあげたいという思いが強固すぎて改めるのは不可能に思われた。

 自分は死んでもいいから息子を大学に行かせたい。

 母親は死んでも構わないから自分は大学に行きたい。

 親子だけあって二人の考えはとてもよく似ていた。だが、鎮目には悲劇にしか感じられなかった。


 九月二十一日


 鎮目の研究室には大きなクマのぬいぐるみがあった。

 今日は鎮目が待ちに待った真悠の誕生日で、十八時に京王プラザホテルのロビーで真悠と待ち合わせてイタリアンレストランでディナーをすることになっていた。

 今日の勤務時間が終わってから四ッ谷の月決め賃貸マンションに取りに戻っていると約束の時間までに間に合わない可能性があったので、鎮目はぬいぐるみをこっそり病院に持ってきたのだった。

 しかし、この研究室には鎮目以外に妃織も出入りする。もし妃織に見られでもしたら恥ずかしい。

 鎮目はどこか机の下にでもぬいぐるみを押し込めておくことにした。

 するとちょうど、研究室のドアをノックする音がした。

「は、はい!」

 ノックをするということはIDカードを持った妃織以外の人物だった。

 研究室に来る可能性があるのは誰だろうと考えながら鎮目はドアを開けた。

 するとそこには冴子の姿があった。

「橋本さん……」

「すみません、突然に」

「今日はどうされたんですか?」

「この前のお返事をさせて頂こうと思って」

 鎮目は冴子を室内に招き入れることにした。

「どうぞ中に」

「失礼します」

 鎮目は自分の席の横にイスを一つ持ってきて、冴子に座るよう促した。

「お気持ちは固まりましたか?」

「はい。やっぱり新しい治療は受けないことにしました」

「そうですか……」

 分かりきっていたことだが、鎮目は残念そうな表情と声色を作ってみせた。

「せっかくお話を頂いたのにすみません。どなたか別の患者さんに声を掛けてあげてください」

 冴子は足下に置いた口の大きく開いたショルダーバッグから、ゴソゴソとクリアファイルに入った同意書を取り出した。

「これもお返しします」

 別に破って捨ててくれても構わなかったが、鎮目は黙って同意書を受け取ることにした。

「残念ですが、ご家族で話し合って決めたことでしょうから医者としても尊重しないわけにはいきませんね」

 冴子の表情が曇った。

 鎮目は一週間後に返事をくれればいいと言ったのにまだ三日しか経っていなかった。そのことから、哲平どころか夫の忠信とも話さずに冴子一人で断りを入れに来たことが推測できた。

「これから、どうされるんですか?」

「今までどおり抗ガン剤治療を続けることにします」

 鎮目は冴子に「家族と今後どうするのか?」という意味で質問したのだが、冴子は受ける治療法を答えた。

「呼吸器内科の先生にはこれまでとは違う抗ガン剤を提案してもらったので、これから受けてこようと思います」

 余命三ヶ月の体では、抗ガン剤の副作用に苦しめられて余計に寿命が縮まるだけだと鎮目は思った。

 クオリティオブライフ、日本語で言うところの生活の質の向上を考えるならば、もうなにも治療を受けずに穏やかに残り時間を楽しんだほうがいいに決まっていた。

 しかし、そんな考え方ができずに最後まで治療を受け続けて副作用にもがき苦しんだまま死んでいく患者が日本では圧倒的に多いのも事実だった。

 もし助かる可能性があるなら、ここまで治療を受けてきたのだからこのまま治療を受け続けたい。途中で止めるなんてとんでもない。

 患者の立場になってみれば、その考え方も理解はできた。

 冴子が愛する息子の大学進学だけではなく自分の命もまだ諦めていないのだとすれば、なおのこと天羽のナチュラルキラー細胞UCANを投与する治療を受けてほしかったと鎮目は思った。

「新しい薬が効くといいですね」

「はい。じゃあそろそろ失礼します」

 冴子がヨロヨロと立ち上がって一礼する。

「お気をつけて」

 脇に置いていたバッグを重そうに掲げて、冴子は研究室から出て行った。

 残された鎮目は気が重かった。

 冴子の行く末が心配なだけではない。別の患者を選別し直すと嘉山に報告しなければいけなくなったからだ。

 嘉山はきっと不快感を表に出すだろう。叱責されるかもしれないが、仕方ない。

 病院長室に向かおうとしてイスから立ち上がった鎮目は、床に一冊の手帳が落ちていることに気付いた。

 鎮目のものではない。

 きっと冴子が同意書を出したときにバッグから落としたのだろう。

 手帳を拾い上げた鎮目は、興味本位から中身を覗いてしまった。

 内容はガン闘病記だった。冴子の体に肺ガンが見つかった日から記述が始まり、医者とどんな会話をしたとか、どんな治療をしたとか、日々どんなことを感じていたのかが延々と綴られていた。

 流し読みしていると、きれいで力強い文字がある日を境にミミズが這ったような文字に変わったことに気付いた。

 きっと冴子が抗ガン剤治療を開始した時期だと鎮目は思った。

 抗ガン剤の副作用で手足にしびれが出ていたのだろう。文字を書くのもつらかったはずだ。

 鎮目は大事なこの手帳を冴子に返そうと思い、呼吸器内科まで追い掛けることにした。


 新病棟の二階にある呼吸器内科の待合室には冴子の姿がなかった。

 受付にいた看護師に冴子の所在を尋ねると、すでに処置室で抗ガン剤治療が始まっているらしい。

 鎮目は手帳を看護師に預けようとしたが、こんな大切なものを手違いでうっかり無くされでもしたら冴子が可哀相だと翻意した。

 鎮目はやはりナースステーションの片隅でしばらく待たせてもらうことにした。

 処置室のカーテンの隙間から冴子の姿が見えた。

 ベッドに横たわり、点滴から抗ガン剤を注入しているようだ。

 再発患者で長期に亘って抗ガン剤投与が必要な場合、腕などの血管が徐々に痛んで使用できなくなるため、CVポートという器具を体の中に挿入することがある。

 まず、鎖骨下静脈などの太い静脈からカテーテルを心臓近くの上大静脈まで挿入する。次に前胸部を切開し、ポートと呼ばれるシリコンゴム製の薬剤投与用の器具を皮下に留置し、カテーテルと接続し固定するのだ。

 冴子もCVポートを前胸部に留置しているようで、点滴のカテーテルがポート専用の針で胸に刺さっていた。

 点滴の残量からしてあと一時間以上は時間がかかりそうだった。

 嘉山への報告が遅くなると別の患者の選別も遅くなる。治療の開始はさらに遅くなってしまう。

 やはり、看護師に手帳を預けるべきだったかと鎮目が迷っていると、処置室の中からビシャビシャッという水が零れたような音が聞こえてきた。

 鎮目がのぞき込むと床が赤く染まっていた。

 冴子が吐血したのだ。

 鎮目と同時に担当医や看護師たちも異変に気付いたようで、すばやく冴子に駆け寄って対処する。

「バイタル下がってます!」

 冴子のバイタルチェックをした看護師が叫んだ。

 担当医の指示で別の看護師が点滴に昇圧剤を投与する。

 担当医が朦朧としている冴子のまぶたを押し下げる。まぶたの裏が白くなって貧血を起こしていることが遠巻きに見ている鎮目にも分かった。

 肺ガンに効果がある抗ガン剤には副作用で消化管の粘膜を障害するものがある。

 症状から、冴子は消化管のどこかで出血を起こしている可能性が高かった。

 担当医と看護師は冴子を処置室のベッドからストレッチャーに移し替えて手術室へと運んでいく。

 下血ではなく吐血だから、出血部位は食道か胃か十二指腸のどこかだ。出血箇所を突き止めて止血縫合する緊急開腹手術になるだろう。

 手術に耐えられるような体力が冴子にどれくらい残っているだろうか。すぐに出血箇所を突き止めることができればいいが、もし手間取って時間がかかれば……。

 外科医ではない鎮目が手術に立ち会っても戦力にはならない。では他に、自分が冴子にしてあげられることがなにかあるだろうか?

 忠信には看護師の誰かがすぐ連絡をとるはずだ。であれば、哲平には誰が冴子の緊急事態を伝えるのか?

 鎮目は手帳を抱えてひとりでに走り出していた。


 向陽高校の校舎の、二年生のクラスが並んだフロアに鎮目がやってきた。

 哲平のいるクラスが何組か分からないので、鎮目は二年一組から順番に教室のドアを開閉していくことにした。

 鎮目が一組の教室の前からドアを開けて侵入する。

 知らない人間が授業中の教室にいきなり乗り込んできたせいで、生徒たちはすぐに騒ぎだした。

 校庭に犬が紛れ込んだような微笑ましい騒ぎ方ではなく、身の危険を感じた悲鳴交じりの騒ぎ声が方々から上がっていた。

 騒ぎを気にしている場合ではない鎮目は、すばやく男子生徒たちの顔を確認していく。

「なんですか、あなたは!?」

 女性教師は牽制してきたがなにがあっても生徒を守るという覚悟はないようで、威勢のよい声を出せば出すほど鎮目から遠ざかっていった。

「怪しいものではありません。事情があってとある男子生徒を探しているんです」

 哲平の母親が肺ガンの治療中に消化管から出血してしまい命が危ない。自分は医者で哲平を探している。

 そんな風に具体的に説明できれば誤解も生じずに楽だったが、橋本家のプライバシーを勝手にペラペラとしゃべってしまったせいで哲平がさらにいじめられることだって考えられた。

 情報を伏せれば伏せるほど鎮目は怪しい人間になっていくが、他に方法はなかった。

「このクラスにはいないようです。お騒がせしました」

 鎮目が一組の教室から出ると、好奇心旺盛な他のクラスの生徒たちが大勢廊下に集まっていた。

 その中に、哲平が弁当を捨てるきっかけを作ったあの不良生徒がいた。

「あいつ……」

 鎮目は嫌な予感がしていた。

 不良生徒は鎮目に向かって勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「不審者だ! 俺、この前あのおっさんに刃物で刺されそうになったんだよ!」

 やってくれた。

 対応に苦慮していた教師たちは不審者侵入時の危機管理マニュアルを思い出し、刺股や防御盾を持ちだしてきて鎮目を取り囲んだ。

 ここで抵抗すれば怪我をさせられてしまうかもしれない。怪我するぐらいならまだいい。もし警察にでも連行されて冴子の手術に哲平を連れて戻れなくなったらすべてが無駄骨だ。もっと言えば、十八時の京王プラザホテルに間に合わなくなったら最悪だった。

 鎮目は観念して手を上げた。あとで責任者に事情を説明して分かってもらおうと考えたのだ。

 だが、教師たちは鎮目を遠慮なく地面に押し倒した。鎮目の降伏は関係なかったのだ。

「その人、僕の知り合いです!」

 鎮目を取り囲む人垣の後方から声がした。

 教師や生徒たちを掻き分けて前に出てきたのは哲平だった。


 生徒玄関の前で鎮目は哲平と二人きりになることができた。

「助けてくれてありがとう」

「別にあなたを助けたかったわけじゃないですよ」

「じゃあ、なんなんだ?」

「あいつの思い通りになるのが嫌だっただけです」

「だったら、あいつの鼻を明かしてくれてありがとう。おかげでスッとした」

「……学校まで乗り込んできて、今度はなんの用だったんですか?」

 鎮目は一呼吸置いて、努めて冷静に話し始めた。

「じつは、冴子さんが抗ガン剤の治療中に消化管から出血して緊急手術をすることになったんだ」

 哲平の片眉がピクッと痙攣した。

 母親の命が危険だということは理解できただろうが、哲平の表情にはそれぐらいの変化しかなかった。

「今すぐ、一緒に病院に行こう」

「嫌です」

 反抗期というものは、どうしてこうも頑ななのだろうか。

「もう会えなくなるかもしれないんだぞ?」

「僕が病院に駆けつけたところで手術の成功率が上がるわけじゃないです。失敗すれば病院にいてもどうせ会えないじゃないですか。だったら、僕は学校で勉強してますよ」

 理屈は哲平の言うとおりだ。鎮目だって分かっていた。だが、無駄になると分かっていても無駄なことをせずにはいられないのが人間というものだろう。

 母親に対してそこまで薄情になれる人間が、良い大学を出たところで一体なにになれるというのだ。

 呆れてしまった鎮目には、もう哲平に掛けるべき言葉が見つからなかった。

「……僕を説得しようなんて無駄ですよ。テレビドラマみたいに、他人に説得されて簡単に心変わりする人間はこの世に存在しませんからね」

 確かにそうだと思った。鎮目は哲平の説得を諦めることにした。

 ただ、最後に見せておきたいものが一つあった。冴子の手帳だ。

「なんですか?」

「お母さんの闘病記だ。冴子さんに返しそびれてしまった」

 鎮目が手帳を差し出すが、哲平は受け取ろうとしなかった。

「なんで僕に渡すんですか?」

「本人には返せなくなるかもしれないからだよ!」

 鎮目が急に声を荒らげたせいか、哲平は黙り込んだ。

 鎮目のことが怖くなったからなのか、哲平は手帳を受け取った。

「抗ガン剤の副作用で冴子さんには手足のしびれがあった。文字が上手く書けなくなったページから読んでみろ」

 鎮目のことが怖いから従うわけではなく、哲平も内容に興味があるようだ。

 哲平はページをパラパラとめくっていき、途中で手を止めた。

 ミミズが這ったような文字に変わってから数日後の日記にこんな記述があった。

「手足のしびれは一向に治まらない。フライパンをうまく扱えないせいで卵焼きをすぐ焦がしてしまうようになった。せめて味が美味しければいいのだが、抗ガン剤の副作用で味覚に異常が出ることもあると医者からは言われている。私の味覚はまだ大丈夫なんだろうか?」

 その翌日の日記だ。

「哲平が残さず弁当を食べてくれたようで嬉しい。私の味覚はまだ正常だったようだ。でも、いつ味覚がおかしくなっても平気なように料理のレシピを残しておこう。大さじ小さじなんて初めて使った気がするな」

 哲平は目頭が熱くなるのを感じていた。

「冴子さんは弁当作りで手を抜いていたわけじゃない。抗ガン剤の副作用で味覚がおかしくなっていたんだ。だけど、君が気を使って無理して食べたから、中身を捨てて食べたふりをしたから、自分の味覚がまだ正常だと冴子さんは思い込んでしまった」

 哲平はもう涙を我慢できなくなっていた。

 ちゃんと聞いてくれているか分からないが、鎮目は言葉を続けた。

「だから、間違った量の調味料を入れたままで毎日弁当を作り続けてしまったんだ。そんな弁当を、君は本当に恥ずかしいと思うのか?」

 哲平は嗚咽混じりの声を絞り出した。

「……僕を……病院に連れて行ってください」


 十二時ごろからに始まった冴子の手術が無事に終わったのは十七時を過ぎたころだった。

 その後、執刀医から忠信と哲平に冴子の容態について説明があった。

 鎮目は十八時の京王プラザホテルに間に合わなくなっていた。

 遅れて行ってもきっと真悠の姿はないだろうし、冴子の容態が気になるので鎮目も説明に同席させてもらうことにした。

 執刀医によれば、冴子は十二指腸から出血していたという。

 出血した原因はやはり抗ガン剤の副作用が考えられた。手術時間は長かったが上部消化管から出血した場合の平均的なものらしい。何も問題はなく手術は成功だったことが執刀医の口から何度も強調されたていた。

 ただし、出血源不明の緊急手術はとても難易度が高く、過剰手術となりやすいと執刀医は付け加えた。過剰手術とは患者の体やメンタルに与える負担が多いという意味だ。

 よって、再出血率、術後合併症発生率、死亡率がいずれも高いので今後も予断は許さないと執刀医は言った。

 簡単に言うと、冴子はもういつ死んでもおかしくない状態ということだ。


 忠信は入院することになった冴子をつきっきりで看病するために、必要な着替えなどを一度自宅に取りに帰った。

 集中治療室では麻酔がまだ醒めずに冴子が眠り続けていた。

 その枕元に座って、哲平は冴子の手をずっと摩っていた。

 それで冴子の手足のしびれがなくなるわけではないのだが、そんなことでもしていないと哲平は後悔の念に押しつぶされてしまうのだろうと鎮目は感じていた。

 ふと、哲平が冴子から手を離して鎮目のほうに向き直った。

「先生」

 改まって先生と呼ばれたせいで、鎮目は少し緊張した。

「母の治療をしてくれませんか?」

 鎮目は哲平がそう言ってくれると信じていた。

 野暮な質問かもしれないが、あとでトラブルにならないように意思確認をしなければいけない。

「大学進学はどうするんだ?」

「諦めます。諦めきれなかったら、それは自分の金でなんとかします」

「お母さんが君に望んでいたのは、大学に進学して立派な大人になってもらうことだったと思うんだが」

「かもしれません。だけど、まず母に生きていてもらわないと立派になった僕の姿を見せられないじゃないですか」

 鎮目は哲平のことを頼もしく感じていた。

「……悪いけど俺は約束を平気で破るような人間だから、冴子さんを必ず救うとは誓えないんだ」

 鎮目が急に後ろ向きな発言をしたために、哲平は不安な表情を見せた。

「だけど、冴子さんを救いたい気持ちは君と一緒だよ」

 哲平は鎮目の真意を読み取ってくれたようだ。

「……先生。母をどうかよろしくお願いします」

 哲平が頭を下げた。

 鎮目は哲平の気持ちを思いやり、その肩に優しく手を置いた。


 十月五日


 冴子が退院することになった。

 二週間前、術後に意識を取り戻した冴子は哲平や忠信と話し合いの場をもった。哲平の心変わりを知った結果、冴子はようやく治療を受けることに同意したのだった。

 培養していた天羽のナチュラルキラー細胞UCANをすぐに投与した結果、数日後には冴子の肺ガンは劇的に縮小していた。遠隔転移した肝臓のガンも同様に縮小した。

 そして、免疫寛容が功を奏したのか目立った副作用も現れていなかった。

 ただし、本来は一週間はかけたかった免疫寛容を三日で終えて冴子の治療をしなければならなかったので、本当は拒絶反応があったのかもしれない。

 鎮目は万が一にも拒絶反応が起こらないように免疫抑制剤も併用していたのだった。

 免疫抑制剤によってUCANの働きまで阻害される可能性に備えて、最初に想定していた量の二倍のUCANを鎮目は冴子に投与していた。

 まだガンが完全に治ったわけではないが、あと何度か通院してUCANを投与すれば寛解も夢ではないだろう。

 寛解とは、完治とは言えないまでもガンが生きていくうえで支障がない状態まで落ち着いたことを指す言葉だ。

 まだ自分の足で歩けるほど体力が回復しきっていない冴子を車イスに乗せて、哲平が後ろから押していた。忠信は荷物の入ったカバンを抱えて歩いていた。

 見送りにロビーまでやってきた鎮目はこの光景がまだ信じがたかった。

 失敗がないように入念な準備をしていたとはいえ、本当にガンが縮小するなんて。

 天羽がいれば人類の悲願であるガンの特効薬が本当に開発できるという思いが、鎮目の中で大きくなっていった。。

「じゃあ先生、どうもありがとうございました」

 反抗的だった哲平も、率先して挨拶ができる素直な子どもに変わった。

 というより、もとからこんな子どもだったのだろう。

「また一ヶ月後の検診でお待ちしています」

 冴子も哲平も忠信も笑顔で病院から出て行った。

 病院のすぐ外で車イスがなんでもないような段差に引っかかっていた。哲平は車イスを押すのが初めてだったようだ。

「もうなにしてんの」

「うるさいな」

 冴子と哲平は冗談を言い合えるような仲に戻っていた。

「……あんた、最近背が伸びた?」

「見上げてるからそう見えるだけだろ。ほらちゃんと前を向いてないと危ないよ」

「分かった分かった。じゃあ、しっかり押しなさいよ」

 哲平が力強く押すと車イスが段差を乗り越えた。

 これでもう大丈夫だ。鎮目はそんな風に思いながら、自動ドアの向こう側で小さくなる三人の姿を見つめていた。

「鎮目先生」

 振り返ると、鎮目の名前を呼んだのは天羽だった。

 手にはコンビニ袋を提げていた。院内のコンビニで買ったようだ。

「間食はほどほどにな」

 天羽が袋からトマトジュースのパックを取り出して見せた。

「血液をもっと補給しないとね」

「ドラキュラか」

 末期の肺ガンである冴子にどれほどのUCANを投与すればいいのか、当たり前だが鎮目にとって初めての経験だったので目安になるものがなにもなかった。

 培養して増やすにしても、最初の量は多いほうが増やす手間や時間も掛からない。そこで、鎮目は血液検査と偽って天羽から何度も何度も血を抜き取っていたのだ。

 心なしか天羽の顔は青白い。体が血液を欲しているのは当然なのかもしれない。

「今のは先生の患者さん?」

「ああ。今日退院だったんだ」

「病気が治ってよかったね」

 鎮目はなにも話していないので、自分のおかげで冴子が退院できたことを天羽は知らなかった。

 三人の姿を見つめるうちに、天羽が悲しそうな顔をした。

 孤児の天羽は哲平の姿に自分を重ねて、親孝行したくても会えない母親のことを考えてしまったのかもしれない。

「……君のお母さんは今どこでなにをしてるんだ?」

 鎮目はずっと聞きたかった質問をした。

「全然分からない。顔も名前も、なにも知らないから」

「忘れてしまったのか?」

「というか、最初から憶えてないんだ。僕はへその緒がついたまま赤ちゃんポストに入れられていたらしいから」

「赤ちゃんポストって、熊本の病院の?」

「いえ。群馬県前橋市に慈聖園って児童養護施設があるんです。冬に凍死した赤ちゃんがいて廃止されちゃったけど、ずっと昔に赤ちゃんポストと同じようなことをしてたんですよ」

「なるほど。母親の手掛かりになるようなものは持ってなかったのか?」

「おくるみに包まれていたぐらいで他にはなにも。だから、天羽大輝という名前は園長やスタッフが適当に決めたものなんです。誕生日も捨てられた日付だから本当は数日ずれてるのかもしれない」

「そうか。それは……大変だったな」

 鎮目は危うく「手掛かりがなくて残念だったな」と言いそうになった。

「おかげで仕事にありついても続かないし、福島ではぶっ倒れるしで散々な人生ですよ」

 天羽は自嘲気味に笑った。そして、ポツリとつぶやいた。

「俺はまるでペットみたいに、親に捨てられた子どもなんです」

 冗談だと受け止めて笑ってやるのは簡単だが、鎮目は天羽の気持ちに寄り添うことを優先した。

「……奇遇だな。俺も妻と子どもに捨てられたことがあるんだ」

 天羽は遠慮なく鎮目のことを笑った。

 同じような境遇の二人だ。この二人ならきっと人類の悲願は達成できる。

 鎮目はそう感じていた。


 研究室に戻った鎮目は、嘉山に現状報告するために冴子のPET­CT画像や検査データなどをまとめていた。

 すると、妃織が勢いよくドアを開けて駆け込んできた。

「先生」

 妃織は乱れた呼吸を整えようと深呼吸している。手には血液検査票が握られていた。

「……あんまり乱暴に扱ったら、建物ごと倒壊するぞ」

 鎮目は開きっぱなしになったドアを妃織の代わりに閉めた。

「そんなこと言ってる場合じゃないです。これ、見てください」

 妃織が鎮目に見せたのは腫瘍マーカー血液検査の結果票だった。

 がん発生に伴い血液中に増える特殊なタンパクや酵素のことを腫瘍マーカーと呼び、医師はガンの発見や診断の手掛かりにする。

 肺ガンだった冴子であればCYFRAという値が標準より高くなるといった具合だ。

 妃織が鎮目に手渡した結果票は、上から順番に目を通していくと消化器系ガンのCEA、 肝細胞ガン・肝疾患のAFP、肺・消化器系・乳房・卵巣ガンなどの腺ガンであればSLXなど、そのあらゆる項目すべての値が標準値より高くなっていた。

 鎮目は冴子のデータだと思って見ていたが、どうやら違うようだ。

「はじめはなにかの間違いだと思って検査部に再検査してもらったんです。でも何度検査しても結果は同じで……」

 そこで初めて、鎮目は検査結果票が誰のものなのか気付いた。

 氏名欄にあった名前は、天羽大輝だった。

 CYFRA、CEA、AFP……あらゆる腫瘍マーカー値が桁違いに高い。異常な数値を示していた。

「先生……」

 妃織はきっと鎮目に否定してほしかったはずだ。

 だが、再検査をしてもこの結果ならば鎮目も否定のしようがなかった。

「……これじゃ、天羽大輝の全身がガンに冒されているとしか考えられない」



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