ステージⅠ
東京都新宿区にある、周辺の土地を何度も買い足して増改築を繰り返した計画性のない建物。それが慶葉大学中央病院だった。
厚生労働省から国際水準臨床研究の中心的役割を担う「臨床研究中核病院」に指定されているためか、芸能人や政治家が高確率で利用することでも有名だった。
その噂を聞きつけた一般人の多くは、ただの風邪でもこの病院を受診しようとする。
おかげで毎日混雑するロビーも休診日の今日はただ一人、鎮目の姿があるだけだった。
鎮目は嘉山に呼び出されたが、報告する内容が内容だけに人目につかない日曜日に来るように命じられていたのだ。
系列の慶葉大学仙台病院に異動していた七年の間にも増改築が繰り返されていたため、鎮目は中央病院の内部構造を把握しきれていなかった。
だから、新病棟の最上階に移った病院長室への行き方を案内板で調べていたが、結局よく分からない。
迷ったらまたそこで調べればいいと考えて、鎮目は近くにあったガラス張りのエレベーターにとりあえず乗り込むことにした。
エレベーター内の案内板には、最上階に病院長室の文字があった。どうやらこれで正しかったらしい。
上昇するエレベーターからは、道路を挟んで向かいの敷地に立つ旧病棟の外壁汚れが隅々まで見えた。
こんな景色しか見えないのならガラス張りにする必要はないはずだが、権威を誇示したい人間にとってガラス張りは重要なことなのだろう。
「バカと煙はなんとやらか。相変わらずのバカだったらどうするかな」
鎮目がつぶやいたとき、ちょうど最上階の九階についたようでドアが開いた。
「やぁ。久しぶりだね」
鎮目が振り返ると、ドアの外には嘉山貞正が突っ立っていた。
「……嘉山病院長」
不意打ちを食らって驚いた鎮目だったが、すぐに平静を装った。
「ご無沙汰しております」
鎮目はバカと言った声が嘉山に聞こえていたかどうかを心配した。
「迷ってるといけないから迎えに行こうと思ったんだが、ちょうどよかったよ」
「わざわざありがとうございます」
「仙台から来てお疲れのところ申し訳ないが、さっそく例のものを見せてもらおうかな」
「はい」
嘉山が踵を返して病院長室へと戻っていく。
鎮目が言った悪口は嘉山に聞こえていなかったようだ。
鎮目は安堵して、嘉山のあとについていった。
鎮目がタブレットを操作すると、病院長室のプロジェクターからスクリーンに動画が投影された。
シャーレの中にある人間のガン細胞を電子顕微鏡で撮影した映像だ。
鎮目が解説をする。
「シャーレにあるのは被験者から提供をうけたガン細胞です」
そこに、スポイトで別の細胞が注入される。
「これがその?」
「はい。ガンに特効があるナチュラルキラー細胞、UCANです」
嘉山はUCANの挙動をじっと見つめている。
UCANは少しずつガン細胞に近づき、その内部に侵入していく。
嘉山が思わずソファから身を乗り出した。
「映像を早回します」
UCANが徐々にしわくちゃになって萎んでいく。死滅しているのだ。
「三時間経過しました」
映像の再生速度が通常に戻ると、今度はガン細胞もしわくちゃになって死滅し始めた。
「……なるほどな」
嘉山は感心しているのか、顎をさすっている。
「死滅したUCANからガン細胞の構造を壊す物質が漏れていると思われます」
「敵陣に侵入して相手を倒すのはまるで『トロイの木馬』のようだね」
トロイの木馬とは、ギリシャ神話のトロイ戦争においてトロイ軍を陥落させる決め手になった木製の巨大な装置のことだ。
ギリシャ軍がトロイ軍を攻略するために巨大な木馬の中に兵をひそませて侵入したという故事から転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指してトロイの木馬と呼ぶようになった。
鎮目は一瞬、天羽のナチュラルキラー細胞を「トロイ」と呼ぶことにしようかと思った。UCANよりも呼びやすいと感じたからだ。
だが、すぐにその考えを捨てた。
「トロイ」は卑怯な手段の代名詞だったり、コンピューターウィルスの名前になっていたりと、とにかくネガティブなイメージがつきまとっているからだ。
人類の悲願であるガンの特効薬に、ネガティブな名前はふさわしくない。
「細胞構造を壊す物質がなにか特定できてるの?」
「いえ。まだこれからです」
「ガン細胞と正常な細胞をどうやって見分けているんだろうか?」
「UCANには病原体と結合するレセプターが数多く存在しています。おそらくはあらゆるガン細胞に対するレセプターを備えているのだと思います」
そこで嘉山は押し黙ってしまった。
鎮目には永遠に感じられるような重い時間が流れる。
「……すばらしいよ、鎮目くん。治療法として確立すれば、この世からガンで死ぬ人がいなくなるぞ!」
ようやく口を開いた嘉山は鎮目を手放しで賞賛した。
ここまで褒められることを想定していなかった鎮目は少し戸惑った。
研究医に、東京の本院に戻してもらうためにはUCANの存在を嘉山に知らせるしかなかった。だが、嘉山は七年前に地方の系列病院に自分を飛ばした張本人でもあった。ここで油断すればきっとまた足をすくわれるだろう。
嘉山が友好的な態度を示しても、絶対に警戒を解かないと鎮目は決めていた。
「……問題は拒絶反応です。生きたガン患者にUCANを注入したら、ガン細胞は死滅したとしても血栓形成からの臓器虚血で死んでしまうリスクがあります」
「ブタから人への異種生物間ならそうかもしれない。だが、同じ人間だろ?」
「はい」
「だったら、臓器移植と一緒で免疫抑制剤を使えばリスクをほぼゼロにできるはずだ」
「かもしれません」
「ガン細胞に対してもっとも無力なはずの人間。その体内からこんなナチュラルキラー細胞を発見したのが、この研究の画期的なところだな。……よくやってくれた、鎮目くん」
「運がよかっただけです」
殊勝なことを言って、鎮目は嘉山のご機嫌をとることにした。
「その若者を東京に転院させて、一日も早く研究を開始しないとね」
「はい」
「その子、名前はなんて言うの?」
「……その前に病院長」
鎮目には期待していた言葉があった。
嘉山からその確約がとれるまでは、天羽大輝の名前は絶対に明かさないつもりだ。
「分かってるよ。君も本院に異動させる。研究するのは君以外に考えられないだろう」
嘉山は思っていた以上に物分かりがよかった。年をとって丸くなったのかもしれないと鎮目は感じていた。
「ありがとうございます」
鎮目は頭を下げた。
「君も、分かってるんだろうね?」
鎮目の顔がこわばった。
嘉山が交換条件を提示することは想定していたが、問題はその内容だ。場合によっては、嘉山を敵に回すことになるかもしれない。
鎮目は努めて自然な表情を作ってから顔をあげた。
「なんのことしょうか?」
「もしも研究が失敗した場合だよ。責任は君一人でとってくれよ」
まるで、成功したときの手柄は自分一人のものだと言わんばかりの口調だった。
「……もちろんです」
トラブルが起これば下の人間がトカゲの尻尾切りされる。それはどこの組織に属そうが
当たり前に行われていることだ。
条件がそれだけなら、わざわざ嘉山を敵に回す必要はない。
鎮目はこのまま本院に異動して研究医に復帰するのを最優先にすると決めた。
研究が成功した場合の手柄を諦めたわけではない。どうやって手柄を守るかは追い追い考えることにしただけだ。
「七年経って君もだいぶ物分かりがよくなったね。相変わらずのバカだったらどうしようかと思ったよ」
嘉山が含み笑いをしていた。
鎮目は肝を冷やした。あのとき、鎮目がエレベーターで言った嘉山の悪口は本人に聞こえていたのだ。
言い訳をしたり狼狽えたりしたら嘉山の思うつぼになると思ったので、鎮目はただ黙っていることにした。
「今日はもう下がっていい。引っ越しが終わったらすぐ研究を始めてくれ」
「分かりました。失礼します」
病院長室から出た鎮目は、ガラス張りのエレベーターに再び乗り込んだ。
鎮目は丸裸にされたような居心地の悪さを感じていた。
感情を表に出さなくなった分、嘉山は昔より老獪な人物になっているのかもしれない。もう油断はしないと鎮目は気を引き締めた。
病院から出てきた鎮目は、通行人の往来の邪魔にならないように歩道の端に移動してスマートホンを取り出した。
番号が変わっているかもしれない。変わっていなくても自分からの電話には出ないかもしれない。不安はよぎるが鎮目は勇気を出してある番号に電話をした。
一回、二回、三回とコールが鳴っても相手は出ない。留守電にも繋がらないようなので鎮目は諦めて電話を切ろうとした。すると、相手が出た。
しかし、相手は一切言葉を発しなかった。
仕方なく鎮目から言葉を発することにした。
「久しぶり。美沙か?」
「……なんか用?」
「ああ」
「じゃあ、さっさと話して」
関根美紗は鎮目の元妻だった。離婚して七年が経つ。
仕方ないことかもしれないが、鎮目は美沙の冷たい口調が頭に来ていた。
だが、ぐっと堪えて話を続けることにした。
「じつは、本院に異動して研究医に復帰することになったんだ」
「……で?」
「でって……」
「だから、なんなの? 早く用件を話してよ。こっちは忙しいんだから」
美沙はわざわざ連絡をよこした鎮目の気持ちに寄り添おうとはしなかった。ただ急かすだけだった。
鎮目は湧き上がる怒りを必死に抑えた。ここで怒ってはすべてが台無しになるからだ。
「だから……また一緒に暮らせないかな?」
しばらく沈黙していた美沙が笑いだした。
「今さら何かと思ったら」
「なにがおかしいんだ?」
「あなたにユーモアのセンスがあるって分かってたら、結果も変わってたかもしれないね」
鎮目はなんと答えればいいか分からなかった。
「まぁでも、ありえないから。離婚したのはあなたが仙台に異動したことだけが問題だったわけじゃないの。あれはただのきっかけだから」
美沙は二歳年下で、鎮目が医者になってから同僚に連れて行かれたお見合いパーティーで知り合った。
鎮目の職業が医者だと分かると、三十歳までに結婚して子どもが欲しかった美沙は積極的にアプローチしてきた。
その結果、入籍するより先に子どもができてしまう手違いはあったが、鎮目と美沙は結婚することになった。
ところが、美沙は結婚に憧れていただけで結婚のデメリットには考えが及んでいなかったのだろう。娘の真悠を出産してすぐに産後うつになってしまったのだ。
そのころ、鎮目は毎日忙しくガン研究に勤しんでいたので、家で美沙の話し相手になる時間を無駄だと考えるようになっていた。
オチのない話を延々聞かされるぐらいなら、真悠と遊ぶか早く休んで疲れをとりたい。
鎮目は真悠の遊び相手になることも子育てだと思っていた。
だが、美紗の考える子育てとはオムツの交換や寝かしつけることだった。
その意味で鎮目が子育てに協力したことは一度もなかった。
鎮目が子育てにも非協力的で愚痴を聞いてやる度量もなかったせいで、美沙の気持ちは修復不可能なほど離れてしまった。
ずっと離婚を切り出すきっかけを探していた美沙は、鎮目の異動が決まったタイミングで「離婚してほしい」と打ち明けたのだった。
真悠の小学校お受験も終わっていたし、友人と始めた子供服を輸入販売する仕事も軌道に乗って経済的にも自立していた。
鎮目と一緒に暮らさなければならない理由が、美沙にはもうなかったのだ。
鎮目は今さら美沙の気持ちを翻せるとは思っていなかった。
いきなり本題から話して嫉妬でもされたら希望が通らないと思ったので、まず復縁の話をしただけだった。
断られたら断られたで構わない。これでようやく本題に入れる。
「……分かった。だったら、せめて真悠に会わせてくれないか?」
「最初からそれが言いたかったんでしょ?」
図星だった。鎮目は言い訳のしようがなかった。
「今度、真悠の誕生日だろ。その日がダメなら近い日でもいい。よかったら真悠に会わせてくれ。頼む、このとおりだ」
美沙から見えないのは知っているが、鎮目はきちんと頭を下げた。
「本人に聞くだけ聞いておく」
「……本当か?」
「でも、期待しないでね。あの子も中学生で多感な時期だからさ」
「ありがとう。頼んだ」
「じゃあ」
「ああ」
電話が切れた。
美沙が真悠に聞いたていで断ってくることもあるだろう。本当に聞いてくれたとしても真悠が断る可能性だって大いにあった。
だが、鎮目は誕生日プレゼントを買いに行こうと決めた。
引き寄せの法則というものが世の中には存在する。プレゼントが無駄になることを気にして、本当に真悠に会えなくなったら後悔してもしきれない。無駄になったらなったで構わなかった。
鎮目は歩いて都営地下鉄の若松河田駅に向かった。
新宿駅に出て誕生日プレゼントを買おうと思っていたのだが、鎮目は途中で大事なことに気付いた。まず東京の引っ越し先を見つけなければいけなかったからだ。
鎮目は予定を変更して不動産屋を巡ることにした。
真悠の誕生日まで二週間近くあった。引っ越しを終えて落ち着いてから真悠にふさわしいプレゼントを買えばいい。鎮目はそう考え直した。
鎮目は慶葉大学中央病院の新病棟八階にいた。
芸能人か政治家がよく利用する特別病室の一室に、天羽も入院することになったのだ。
入院が日曜日になったのは、できるだけ人目につかないようにしろと嘉山の指示があったからだ。
天羽が病室に来てすぐに、看護師の涌田妃織が採血を始めた。
鎮目はその様子をただ黙って見つめていた。
天羽は二十五歳の青年だが色白で痩せ細っているため、まだ十代の少年のようにも見えた。顔は美形できっと男性アイドルでも通用しただろう。
一般病棟に入院したのであれば若い看護師たちが色めき立っただろうが、妃織は天羽の外見にまったく興味がない様子で、淡々と検査に必要な分量の血を抜いていた。
妃織は黒目がちで子どものようなつぶらな瞳をしている。まだ二十八歳で若手だが非常に落ち着いている。採血の手際のよさだけを見ても優秀な看護師であることは分かった。
天羽の存在は、鎮目と嘉山しか知らないトップシークレットだ。
外部はもちろん内部の人間にも極力その存在を漏らしてはいけない。もし漏れればガンの特効薬の開発を誰かに先を越されてしまう恐れがあった。
とはいえ、鎮目一人で長期入院する天羽の世話をするわけにはいかない。最低一人は看護師の助けが必要だった。
そこで、嘉山が人選したのが脳神経外科に勤務していた妃織だった。
なぜ嘉山が妃織を信用しているのか、鎮目には分からなかった。
意地悪で短絡的な見方をすれば嘉山と妃織は愛人関係ということになるだろう。実際にそういう噂が鎮目の耳にも入ってきた。
だが、面倒に巻き込まれたくない鎮目が妃織に嘉山との関係を問いただすことはない。
ただ、勝手に嘉山に色々と報告されても研究がしづらくってしまうので、鎮目は妃織にも極力情報を伏せたまま研究を進めていこうと考えていた。
採血が終わったようで、妃織が採血管を抱えて立ち上がった。
「一部は検査部に回して、残りは研究室の冷凍庫に保管しておきますね」
「よろしく」
妃織が病室から出て行った。
二人きりになると天羽が鎮目に話しかけてきた。
「こんな広い部屋、一人で使ってて大丈夫なの?」
「ああ。前にも言ったけど、君は特別だからね」
「特別って言われても、自覚がないから困っちゃうんだよな……」
「天羽くんの特別な体質を研究することで新しい治療法が確立されたり、新薬ができたりするかもしれない。でも、誰かと同じ病室にされたストレスで研究が進まなくなることだってありえるんだよ。だから全然気にすることはない」
「分かった。じゃあ、お言葉に甘えて」
天羽は勢いよくベッドに倒れ込んだ。
鎮目は天羽の持つ特異なナチュラルキラー細胞UCANがガンの特効薬になるかもしれないという話は一切していない。
ガンの特効薬が実現したらノーベル賞どころの騒ぎではない。天文学的な金が動くことは誰にだって想像がつく。
今は従順な天羽だが、自分の存在価値に気付いてからも鎮目の思い通りになるとは限らなかった。
だから、鎮目はあえて肝心なことをぼかしたまま、天羽に研究協力の同意書にサインをさせたのだった。
ベッドから起きてあがって、サイドテーブルやテレビ台の引き出しを漁っていた天羽が鎮目を見つめた。
「質問していい?」
「もちろん」
「マンガとかゲームは置いてないの?」
「みたいだな」
鎮目も特別病室のことには詳しくなかった。
「前に治験のバイトをしたときは、暇な時間にゲームしたりマンガ読んでてよかったんだけど」
「いいよ。家族か友だちに頼んで、欲しいものは持ってきてもらうといい」
芸能人や政治家はもっと色々なものを持ち込んでいるはずだ。鎮目は勝手に許可した。
ところが、天羽は悩んだ表情を見せた。
「……外出して、自分で買いに行ってもいい?」
「ああ。事前に言ってくれれば外出も許可するよ」
「ありがとう。じゃあそのうち」
鎮目は気になっていた質問をすることにした。
「私からも質問いいかな?」
「答えたくないことは答えないけど」
「……そういえば、君の家族って」
「いないよ。僕は孤児なんだ」
やはりそうか。
天羽は成人だったので入院や転院に親の同意はいらなかったが、仙台で倒れた直後も今回東京に転院した際も、両親が姿を見せないことが鎮目は気になっていた。
孤児であれば被災地で除染作業員をしていた理由もなんとなく想像がつく。
鎮目は生い立ちやこれまでの半生のことは天羽から追い追い聞くことにした。
「暇つぶしの方法以外でも、困ったことがあればなんでも言ってくれ」
「うん。ありがとう」
鎮目は特別病室をあとにした。
慶葉大学中央病院の旧病棟の地下に、嘉山が鎮目に与えた研究室があった。
診療科目のすべてや検査設備がほとんど新病棟に移っている。そのうえ、近いうちに取り壊しして新たな病棟を建設することが決まっているので、現在では旧病棟に出入りする病院関係者は極端に少なかった。
だから、ガン特効薬の研究を鎮目が秘密裏に行うにはうってつけの場所だった。デメリットは一日中暗くて気が滅入りそうなことぐらいだった。
鎮目は冷凍庫から天羽の血液を取り出し、試薬を入れて遠心分離機にかけた。
血液からUCANだけを抽出し、培養して何十万倍、何百万倍と増やしてからあらゆる実験をするための下処理作業だ。
遠心分離機を作動させてから分離が終わるまでしばらく待たなければならない。その間、鎮目は天羽のことについて考えた。
天羽に家族がいなければガン特効薬を研究するうえで煩わしい気遣いや手間は大幅に減る。だが、家族がいれば天羽以外にもUCANを持った人間が見つかったかもしれない。
実験にアクシデントはつきものだ。天羽の体に異変が起きてUCANが失われてしまう事態も充分に考えられる。
UCANを持った可能性があるなら、天羽を捨てた母親を探してみようかと鎮目は思った。
勝手なことをしたら天羽は怒るだろうか。
いや、親に会いたくない子どもなんていないはずだ。
――真悠だってきっと。
天羽もきっと喜んでくれるはずだから、研究の空いた時間は天羽の母親を探そう。
鎮目はそう心に決めた。
嘉山から突然の呼び出しがあったので、鎮目は病院長室にやってきた。
部屋に入ると、嘉山はいきなり何人かの患者プロフィールを鎮目に見せた。
プロフィールは三枚あって、顔写真からしてどの患者も女性のようだった。
「……これは?」
「僕のほうでセレクトしたガン患者さん。選んで」
「は?」
「君が選んでよ」
「すみません、おっしゃっている意味が」
「早く臨床実験をやろうよ」
臨床実験だと?
鎮目は聞き間違えたかと思ったが、嘉山がニヤニヤ笑っていたので聞き間違えたわけではないと思い直した。
嘉山は七年前に鎮目に異動を命じたときもこんな顔で笑っていた。誰かの困った顔が大好きな人間なのだ。
「……天羽大輝から採取したUCANは、今のところ肺・胃・大腸・肝臓などのガン細胞に対しての効果が確認できています。他のガン細胞やサンプル数を増やしても有意差がなければ、ラットでの実験に移行して安全性と有効性を――」
「そんな当たり前の段取り踏んで、いつ臨床実験に入れるんだ?」
嘉山が鎮目の説明をさえぎった。
「……三年後には」
「待てない」
なにが待てないというのだ、この男は。俺は七年も待たされたんだぞ。
「非臨床なんか、したことにして適当にデータをまとめればいいだろ」
非臨床データの捏造を簡単に言ってくれるが、世界中の研究者や厚生労働省の役人の目を欺くには、それ相応の労力がかかるだろう。
下手をすれば素直に非臨床実験をしたほうが早いことが嘉山には分からないのか。
だが、一番の問題はそこではなかった。
「そんなことして、もし患者を死なせたら……」
鎮目を尻尾切りするだけで済む問題ではないのが分からないのか。
「だから死にかけの、手の施しようがないガン患者をセレクトしたあげたんじゃないか」
恩着せがましいことを言ってくれるが、いつ誰がそんなことを頼んだというのだ?
「どうせ死ぬのを待ってるだけなんだ。この臨床実験で奇跡的に助かる可能性があるなら、たとえ死期が少し早まっても文句を言う患者はいないだろ」
少しぐらいならガン患者は死んでもいい。とにかく一日でも早くガンの特効薬、新しい治療法を確立しろと嘉山は鎮目に指示しているのだ。
いや、これは命令だ。
「……分かりました」
鎮目に断る権利はない。今さら他の研究機関に天羽を連れて行くことはできないし、仮にできたとしても今度は嘉山が研究を妨害するに決まっていた。
無茶苦茶な命令だが素直に従っておけば嘉山も協力してくれるだろう。鎮目はここで臨床実験をやるしかないのだ。
鎮目の理解が早かったおかげか、嘉山も嬉しそうだ。
「じゃあ、記念すべき最初の被験者は誰にしようか?」
「……この患者さんを」
鎮目は患者プロフィールを見比べて、その中からすぐに一枚を選び取った。
早く決めないと、嘉山が自分で選ぶと言い出して面倒になることが考えられたからだった。
患者の氏名欄には「橋本冴子」とあった。
「患者には『新しい治療方法の治験をしないか』としか話してないから。君から連絡をとって実験を進めてくれ」
「はい」
鎮目は病院長室から出て重く感じるドアを閉めた。
廊下で一人、鎮目は深い溜め息をついていた。
嘉山の言うことを素直に聞いていたら、日本医師会から医師免許剥奪も充分にありえるだろう。それで済むならまだ増しだ。最悪は業務上過失致死罪で警察に逮捕されかねない。
刑務所に入れば、娘の真悠にはきっと一生会えなくなってしまう。
だが、嘉山の命令に背けば次は離島の診療所に飛ばされかねない。
それが嫌なら慶葉大学中央病院を辞めるしかないが、今さらガンの特効薬を諦めきれないし、諦めきれたとしても東京で雇ってもらえる病院を見つけるのはきっと想像以上に難しいだろう。
一体どうすれば東京で研究医を続けられて、真悠にも会えるのか?
――臨床実験を成功させるしかない。でなければ、
「なにか嘉山の弱味を握るしかない」
独り言ちた鎮目は、踵を返してエレベーターに向かおうとした。
すると、すぐ近くに細身の中年女性が立っていたことに気付いた。
鎮目は一瞬、この患者プロフィールの顔写真の女性が来ているのかと思ったがよく見れば顔が違った。
そして、鎮目にはこの女性を昔どこかで見た記憶があった。
女性が鎮目に話しかけてくる。
「あの、主人は在室でしょうか?」
思い出した。嘉山の後妻の嘉山百合子だ。
「ええ。いらっしゃいます」
百合子はこの病院に勤めてきた看護師だったが、そのときに鎮目との接点はなかった。
鎮目が初めて百合子と会ったのは製薬会社が主催した嘉山の講演会打ち上げの席だった。それから嘉山の病院長就任パーティーでも他愛もない話をしたことがあった。
鎮目は百合子には良い印象を持っていた。昔話でもしようかと思っていたら、
「ありがとうございました」
百合子は愛想笑いを浮かべて会釈したあと、ドアの向こう側に消えていった。
特に挨拶されることも名前を呼ばれることもなく、七年ぶりの再会は一瞬で終わってしまった。
鎮目は百合子を呼び止めようかと思ったが、やはり止めた。
鎮目が百合子の顔を忘れていたのと同じで、百合子も鎮目の顔を忘れてしまったのだろう。
忘れられているならそれでいい。こっちだって余計な気を遣わずに済む。
つまらないことでイライラする時間があったら、どうすれば臨床実験が成功するかを考えよう。
鎮目は研究室に戻ろうとエレベーターのボタンを押したが、こんなときに限ってなかなかエレベーターがやって来ない。
百合子や嘉山が部屋から出てきたら気まずいので、鎮目は仕方なく非常階段を下りることにした。
研究室で鎮目は、非臨床実験のために購入していた大勢のラットに餌を与えていた。
「……命拾いしたな。感謝しろよ」
ラットは餌を頬張っているだけで鎮目に感謝している様子は特にない。
虚しくなってきたので、鎮目はパソコンの電子カルテシステムで冴子の個人情報を閲覧することにした。
橋本冴子は四十四歳の専業主婦だった。
肺ガンでステージはⅣ期。肝臓に遠隔転移もあった。現在は外科治療を諦めて、通院治療で抗ガン剤を投与していた。
家族構成は夫と息子が一人いた。
鎮目は判断を誤ったと思った。
嘉山は鎮目に「たとえ死期が少し早まっても文句言う患者はいないだろ」と言ったが、患者の家族が文句を言わないとは限らないからだ。
大切な妻や母親を亡くしたら、夫や息子が訴訟を起こす可能性があるのは容易に想像がつく。他にそんな患者がいたのか分からないが、親兄弟がいない独身の若い患者を選ぶべきだったと鎮目は後悔から舌打ちをした。
とはいえ、日本のガン患者の死亡数で長年トップなのは肺ガンだった。
なにかトラブルが起こっても、経験値が高い症例のほうが対処もしやすい。鎮目が冴子を選んだ理由もそこにあった。
天羽のUCANがあれば必ず冴子を救えるとは限らない。だが、救わなければ鎮目の未来も切り開けないだろう。
どうやれば未来が切り開けるのか。
しばらく考えても鎮目はその具体的な方法が浮かばずに悩んでいた。
まず、天羽のUCANを培養して増やす。そして、UCANを患者の体内に投与する。
投与する場所は当然ガンがある患部に近いほうがいいだろう。カテーテルで血管から到達した患部に直接UCANを投与すれば高い効果も期待できる。
大きく開腹するような外科手術とは違って侵襲も少ないので患者の回復も早いはずだ。
だが、ここで一つ問題があった。それは拒絶反応だ。
元々自分の体の中にあった免疫細胞とは違うUCANを投与されれば、患者の体のどこかで間違いなく拒絶反応が起きるだろう。
UCANが患者のガン細胞以外の正常な組織を攻撃するかもしれないし、患者の持っている免疫細胞がUCANを攻撃することだって考えられた。
今は医療技術も向上しているので、免疫抑制剤を使用すれば拒絶反応を抑制できるだろう。
だが、免疫抑制剤がUCANの活動まで阻害しないとは限らなかった。UCANがガン細胞を攻撃しなくなっては治療の意味がまったくないのだ。
また、免疫抑制剤を使用した患者のガン発生率が高くなるという報告書はいくつもあった。免疫細胞が抑制されるのだから、本来攻撃すべきガン細胞を見逃すようになってしまうのは当然のことだろう。
だから、いきなり臨床実験をしても患者を殺さずにガンを治療するためには、拒絶反応を起こさせないなにかが必要だった。
免疫抑制剤に代わるなにか別の方法。それが思い付かなければ、きっと自分は患者を殺すだろう――。
鎮目が考えても、なにも妙案が浮かばないまま時間だけが過ぎていった。
夜、鎮目は四ッ谷の月決め賃貸マンションにいた。
東京に戻って真悠と会うのは最低限度の目標で、鎮目はできれば気兼ねなく会える関係になりたいと思っていた。
美沙と真悠がどこに住んでいるのか分からないが、いずれは一緒に暮らせる関係に戻れるかもしれない。
焦って物件を選んでまた引っ越しすることになったら敷金や礼金や引っ越し費用が余計にかさむことになる。そこで、鎮目は賃貸ではなく月決め賃貸マンションにとりあえず住むことを選んだのだった。
家具は備え付けだし、ほとんどの荷物はトランクルームに預けたので、最低限の着替えしか荷物はなかった。
そんな殺風景な部屋に、大きなクマのぬいぐるみが鎮座していた。
真悠の誕生日に渡すつもりのプレゼントだった。引っ越しを終えてすぐに新宿伊勢丹の玩具売り場で鎮目が買ったものだ。
真悠はぬいぐるみが大好きな子どもだったのできっと喜んでくれるだろう。
そう思って鎮目が選んだのだが、美沙からの連絡は未だになかった。
電話をしてから八日が経つが、いくらなんでも返事が遅すぎた。
やはり、美沙がうやむやにしようとしているのか。いや、もしかすると真悠が会うことを断ったのかもしれない。美沙は気を使って返事をしにくいだけなのだ。
いい加減、諦めるべきだろうか。
だとしたら、嘉山の命令を断ってもいい。
たとえ嘉山に睨まれることになっても、医師免許さえあれば日本のどこかで医者は続けられる。刑務所で暮らすよりはずっと増しだろう。
そうなったら、このぬいぐるみは返品できるのだろうか?
そんなことを考えていると、スマートホンが鳴った。ショートメールが届いたようだ。
画面を見ると送り主は美沙だった。
鎮目が興奮気味にメールを開いた。
「真悠が会ってもいいって」
鎮目は思わず「やった!」と大きな声を張り上げてしまった。
すぐに壁からドンという打撃音がした。
となりの住人からまた壁を殴られないように、鎮目は声を押し殺して喜びを噛み締めていた。