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10.幕切れと苦悩

 能力を使って男の足取りを辿ることで、住まいを特定することは難しくなかった。


 男が家族とともに暮らしていたのは、古びたアパートの一階だった。男の妻と子供は、現在も居住しているようだ。


 男の家族へ男が遺したノートの存在を伝える方法に悩んだ結果、律はポストへ手紙を投函することにした。

 手紙の文面には、偶然道に落ちていた男の遺書を発見したが、誤って紛失してしまったこと。書かれていた内容。そして〝記録〟の在り処を綴った。


 説明としては少々苦しいが、やむを得ないだろう。律の手にあるのは律にしか見えない妄想の遺書だ。本物の遺書は恐らく既に処分されてしまっている。男がつけていた記録そのものの所在は誤っていないはずだ。

 パソコンで文面を作成し、プリントアウトしたそれを、指紋や痕跡を残さぬよう慎重に持参した。投函する際には、アパートの周囲はもちろん律が近所にいるところさえも、皐月の力を借りながら誰にも気づかれぬよう身を隠しながら移動した。投函された手紙が、律へ結びつく可能性を徹底的に排除したのだ。


 律は皐月の言葉を思い出す。


「揉み消した相手がどれほど力のある者なのかはわからないし、わかる必要がないわ。おじさんの願いはあくまでノートの存在を家族へ伝えることだったから、そこまで踏み込まなくてもいいのよ」


 男の遺書を暴露したところで律に具体的な危害が及ぶかどうかはわからないが、用心するに越したことはないだろう。それに、家族への説明だけでも大仕事だ。面倒事に巻き込まれるのは明白だった。だから律たちは、匿名で情報だけを伝えるという消極的方法をとった。


 翌週。律と皐月は再び首吊り男の元を訪れていた。

 一週間が経っても、男は同じ場所で風に揺れていた。


 男の姿を目にしても初見ほどの衝撃は覚えず、妙な慣れを覚えてしまったことに律は複雑な感情を抱いた。


「……というわけで、あなたの遺志は、確かにご家族へお伝えしました」


 律は慎重に言葉を選びながら、枝からぶら下がる男へ事の顛末を説明した。

 やるべきことはやった。あとは残された家族次第だろう。

 律の説明を受けても、首吊り遺体は何も言わない。反応もない。

 一秒、二秒と沈黙が過ぎる。律は思わずごくりと喉を鳴らす。ふと、ひときわ強い風が男の身体を揺らした。


 次の瞬間、テレビのコンセントを引き抜いたかのように男の姿が霧散した。


「……っ」


 咄嗟に周囲を見回すが、律の目が男を捉えることはなかった。

 痕跡も、気配も、首吊り男がそこにいたという一切の情報が削除されたように消失していた。あまりに唐突で、呆気ない幕引きだった。


「お疲れ様。さあ、今日はもう帰りましょう」


 皐月が声を掛けるまで、律は呆然と立ち竦んでいた。


 *


 帰路。人通りのほとんどない路地を選んで律と皐月は言葉を交わす。


「今回のことは、僕の『更生』となにか関係があるのか?」


「もちろん関係があるわ。こうした〝依頼〟を繰り返すことで、きみの能力はより精緻に、コントロールができるようになっていくの。本来ならこんな脳に負荷を掛ける能力は使うべきじゃないのだけれど、きみの場合は『更生』に必要なことだから……必要経費と割り切って、無駄使いは避け、できるだけ効率よく使っていきましょう」


 頷き、一定の納得を示しながら、律はさらに疑問を投げかけた。


「でも最初、皐月さんは、いきなりに行くつもりだったんじゃ」


 律の言葉に皐月は頷き返す。


「今回の目的は、きみの能力の確認も兼ねていたの」


 皐月は大事なことだと強調するように、ゆっくりと説明を続ける。


「律くんの言うように私――きみの脳は方針を変えたわ。律くんの能力は、きみが思っている以上に強力なものなのよ。あの場所に行って、大きなトラウマによって制御できないほどに感情の起伏が高まったとき、何が出てきてしまうかわからない。それによってきみの精神は今度こそ修復不能なダメージを受ける可能性にきみの脳は気づいたの。は強制的に制御し、なんとか落ち着かせることができたけれど、次もうまくいくとは限らない、と判断した。だからより慎重に、きみ自身が能力をコントロールできるような方向へと方針転換したというわけ」


「なるほど……」


 皐月の言葉には説得力があった。確かに今の自分があの廃工場へ足を踏み入れて、平静でいられる自身はない。そこで能力が暴走し、対処不能なを呼び出してしまったら……と想像しただけで嫌な汗が背中を伝った。


「前にも言ったようにきみにはある種の才能があるわ。半年や一年で脳が焼ききれて廃人になってしまうことはないはずよ。たぶん」


「そこは嘘でも絶対って言ってほしかったな……」


 思わず苦笑いをする律に皐月は苦笑を返す。


「急がば廻れってことよ。それで、あの場所へ向かうタイミングは任せてほしいの。なんたってきみの脳味噌直通の私が判断するのだから、その辺は信用してほしいわ」


「大丈夫、そこは任せるよ」


 そこで会話が途切れた。向かいから人影が現れたからだ。

 その犬を連れた中年の女性が後方に消えて暫くしてから、律は独り言のように口を開いた。


「あの人、最後までお金の心配ばっかりだったな」


 律は遺書の中身を思い出す。自分がいなくなった後のことは、例のノートをはじめそのほとんどが金銭的な内容だった。


 最期の場所を自宅ではなく、公園を選んだのも、家族に金銭的な負担を掛けないためだったのかもしれない。賃貸で首吊り自殺をして、清掃費用や損害賠償が生じる可能性を極力排除したのだろうか。

 そこまで死後のことに気を回しながら、他に方法はなかったのか。他人事ながら、律はどうしても考えてしまう。


 きっと、当然悩んだのだろう。心身ともにぼろぼろになりながらも、光明を探しながら藻掻もがき、悩みに悩み抜いた末の結論だったのかもしれない。


 しかし半ば怨霊と化しながら死後も気にかけるほど、家族への想いが男の中にあったのだ。そのことが律の心を乱した。

 考えてみれば、あの男のことも、残された家族のことも、律は何も知らない。能力によって容姿や大まかな年齢などの断片的な情報は得ていたが、何を思い、どう生きているのかまではわからない。わからないし、知りたくなかった。


 怒りとも、悲しみとも違う、どうしようもないやりきれなさが、律の中をじわりじわりと満たしていた。何歩か踏み出したとき、それが少しだけ溢れて零れた。


「……くるしいな」


 律の呟きは誰の耳にも届くことなく、風に乗って消えた。



第一話 「頭の中の幽霊」 終

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