本当に驚愕と恐怖を感じたとき、人は大声で悲鳴を上げることもできないのだと律は身をもって知った。
蚊の鳴くような微かな悲鳴は風に掻き消され、ヒューヒューと呼気が喉を通り抜ける音だけがやけに大きく聞こえた。
スーツの男が、木々の間を吹き抜ける冷たい風に小さく揺られていた。
太い枝にしっかりと結ばれたロープが深々と食い込み、全体重が掛かった首は常人のそれより遥かに長く伸び切っている。
青白い顔からはだらりと舌が飛び出し、足元にはスーツの隙間から漏れ出た糞尿が水溜りを作っていた。
光のない両の目だけが、何かを訴えかけるかのように真っ直ぐ律を映し出していた。
「最も完成された自殺の方法、ね」
皐月が呟く。
「〝最も美しい自殺遺体〟はエンパイアステートビルから飛び降りたイブリン・マクヘイルだったかしら。……ねえ、律くんは定型的
微笑みかける皐月に返事もできない律は、
「ロープ等によって頸動脈や気管が強く圧迫され、呼吸が止まり、脳に血液や酸素が供給されなくなったことで意識を失い、やがて心停止し死に至る。これが基本的な首吊りの原理よ。単純だけど確実な方法だわ。定型的縊死というのは縊死――首を吊って死ぬことの中でも、体重が完全に首にかかり、縄は後上方に向かって左右対称に……要はとびきり
言って、皐月は立ち上がり、男の横に並んだ。そしてその場で身振り手振りを交えながら解説を続ける。まるで男をホワイトボードか人体模型に見立てているようだ。
「ロープの周りに掻き毟った痕があまり無いでしょう? あまり苦しまずに意識を失ったようね。それから顔の
律は死体に耐性があるわけではない。本物の皐月の死体も相当ショッキングな光景だったが、あのときはすぐに律の精神が、今の皐月がフォローに回った。しかし今回はあろうことかその皐月が、嬉々として首吊りの
反応がないことに不満を覚えたのか、腰に手を当てて頬をわざとらしく膨らませた皐月が律の目の前に立ちはだかった。
「授業態度はあまり良いとは言えないわね」
視界から男が消えたことでようやく少し落ち着いた律が、青い顔をしたままうわ言のように呟いた。
「き、救急車……いや、警察か……」
「必要ないわ。あの人は律くん、きみに助けてほしいのよ」
呟きを遮るように告げる皐月に、律はほとんど
「僕に、どうしろって言うんだ……」
「うーん。想定よりもショックが大きいみたいだから、名残惜しいけどそろそろネタバラシしちゃおっかな。そのうち慣れてよね。これからいっぱいこういうの見るんだから」
不穏な言葉に思わず問い返そうとした律だが、それも次の一言で霧散した。
「この人もきみだけにしか見えないわ。きみの妄想よ」
「…………は?」
それは、律の感情を端的に表した一言だった。
*
律と皐月は、少し離れたベンチに並んで腰掛けていた。あの場所に留まっていてはまともな会話は難しいだろうという皐月の判断だった。
「気になってたんだけど」
幾分か血色の戻った律が切り出す。
「皐月さん、あなたは僕なんだろう? さっきの縊死? もそうだし、どうして僕とあなたで知っていることに差があるんだ?」
「良い質問ね」
皐月は律の問いに、家庭教師をしていた頃の顔を浮かべる。
「人間は、本当はとんでもない量の情報を取り込んで保管しているのよ。たとえば、きみが一冊の本を読み終えたとするわ。即座に全文を
少し考え込んで素直に首肯する律に、満足気に肯き返すと皐月は続けた。
「脳の記憶領域を大きな倉庫だとすると、入口近くに置いてあるものか、保管場所を強く覚えているものならば律くんでも簡単に見つけられるでしょう。でもその数やスペースには限りがある。だから、倉庫の奥の方へ適当に放り込んだものの中から、あとになってお目当てのものを見つけ出すのは大変よ。これが常人の脳が持つ処理能力の限界ってことね。でも」
言葉を切って不敵に微笑む皐月。
「今の律くんになら、取り込んだ膨大な情報を自由に出し入れができる。人間の脳は一割程度しか使われていないなんて言われることもある中、きみは今、脳の処理能力をフルパワーに近い状態で引き出せるわ。私という精緻な存在を自分の世界で動かしてなお余裕があるくらいにね。誰にでもできることではないし、ある種の才能があったのかもしれないわね。それが精神が崩壊する瀬戸際で目覚めた、と。普通は一生活かさず終わりそうな才能だから、活かす機会が与えられたことが良いのか悪いのかは判断に迷うところだけれど」
思わず苦笑いを浮かべる律に皐月も苦笑を返す。
「とはいえ、それだけ膨大な情報を一個の自我の中で取り扱うのはさすがにまともな精神状態ではいられないわ。いえ、やってできないことはないのかもしれないけれど、それを許可してしまえば『律くん』という自我はもはや別物に変わってしまうとあなたの
どこか得意げに自身を指差す皐月。
「元々きみの防衛機能として生み出された私だけど、きみの人格が直接情報の海にアクセスして溺れてしまうのを防ぐための防波堤として都合が良かったのでしょうね。私は、容量無限の外付けハードディスクに唯一アクセスできる専用のソフトウェアってとこね」
律は皐月の言葉をゆっくりと
「わかったような、わからないような……」
「まあ、なんとなくでも分かってくれればいいわ」
どこか不安げな律に、皐月は苦笑交じりの微笑みを返す。
「要は、私という凄い存在のお陰で、きみは物凄い知識量を手に入れたってこと。私という凄い存在のお陰でね」
「わかったよ。皐月さんはすごい。それだけはわかった」
毒気を抜かれたように笑った律だが、再び眉根に
「でも僕は、あの人にあったことないぞ……たぶん」
先細るように小さくなった言葉とともに向けられた視線の先には、首吊り遺体が風に揺れていた。