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3.水槽の脳


「勉強中だったかしら? 邪魔してごめんなさいね」


 律にお茶とお菓子を差し出しながら母親が言った。律が受け取ったそれらを学習机の隅に置くと母親は続ける。


「予定だと今日は村瀬むらせさんが来てくれる日じゃない? けどもういつもの時間をだいぶ過ぎているし、連絡もつかないのよ。日付を間違えているのかしら」


 村瀬というのは皐月の苗字だ。困惑と心配が混在した表情を浮かべる母親だが、彼女が我が家の呼び鈴を鳴らす日はもう二度と来ないなどとは夢にも思っていないだろう。


「ど、どうしたんだろうね」


 すぐ隣でニコニコと母を見つめる存在を極力視界に入れないよう、律は硬い声で応えた。それが皐月を心配していると受け取ったのか、母はさらに顔を険しくして言った。


「何もないとは思うけれど、ちょっと心配ね。さっきなんだか大きな事故もあったみたいだし。下に戻ったらもう一度連絡をしてみるわ」


 言って、きびすを返しかけた母親は、何かに気付いて高い声をあげた。


「えっ、あれっ、皐月さん? いらしてたのね」


 母親の持ってきたお茶を啜っていた律は、思わず吹き出しそうになり必死でこらえた。そんな律を尻目に、皐月は申し訳なさそうな口調を作りながら平然と会話を繋ぐ。


「すみません。お声を掛けたのですが、お電話中だったようでしたので」


「あら、そうだったの。こっちこそごめんなさいね、今お飲み物をお持ちしますね」


「恐れ入ります、どうぞお構いなく」


 再び母親が踵を返し、部屋を出ていく。トントンと階段を下っていく音が完全に聞こえなくなるまで、律は湯呑を手に持ったまま唖然と固まっていた。


「ど、ど、え、あ、何?」


「落ち着きなさい、今説明するわ」


 ようやく声を発したものの、あまりの動揺にまともに会話ができなくなっている律に、皐月が苦笑する。


「水槽の脳、というものを知っているわね?」


 記憶を辿り、律は首を傾げる。


「私が知っているのだからきみも知っているはずなのだけれど……いいわ、簡単に説明するわね」


 苦笑を浮かべたまま、皐月は人差し指を立てる。


「『水槽の脳』は一種の思考実験よ。ある科学者が生きた人間の脳を培養液で満ちた水槽へ入れる。そしてその脳の神経細胞とスーパーコンピュータを繋ぐ。コンピュータを操作して脳へ電気信号を送り、人間の脳の活動を再現すれば、人の意識が生じるはず……、さて、今私たちが『現実』だと思っているこの世界が、実は『水槽の脳』が見せられている幻覚ではないことをきみは証明できるかしら?」


 皐月の説明を聞いて、律は合点がいったように頷いた。


「何かで読んだな。うん、思い出した。要はマトリックスだよね」


 皐月が微笑みながら頷く。


「そうね。今のきみが、本当は点滴のチューブと人工呼吸器に繋がれた誰かさんの夢の主人公である可能性は否定できないのよ。そして私、というかきみの精神こころが行っているのはこれに近いことよ」


「どういうことだ?」


「つまり、きみの精神が見たいもの、見せたいものだけをきみの意識に見せているのよ。さっきまではお母様に私の姿が見えなかったでしょう? それが『正常』な状態よ。そして急に私の姿を知覚して、会話を交わしたように見えた場面、あれはきみの精神が、脳が造り出した妄想なの。その証拠にお母様が私の分のお茶を持って上がってくることはないわ。きみがそれを強く意識しない限り、ね」


 律が再び首をひねる。


「私が物理的に影響を及ぼしている、律くんがそう認識していることはすべて、実際はきみ自身が行っているのよ。たとえば……」


 言いながら立ち上がった皐月は、部屋の扉を大きく開けてから、静かに閉めた。


「律くんは今、私がドアを開け閉めしたように見える。でも実際はきみ自身が行ったの」


「なるほど……?」


「たとえスマホで動画を撮影しても無駄よ。きみがその動画を見れば、私がドアを開閉する様子が映っているでしょうね。動画を目にしたきみの脳が情報を都合よく書き換えてしまうからよ。けれど他の人から見たら、ドアを開閉しているのは律くんだし、動画にもきみだけが映っているわ」


 律は皐月の説明を黙って聞き、咀嚼そしゃくし、理解した途端全身に怖気が走った。


「そ、それって、僕の頭がおかしくなっているってことじゃ」


「そう、紛れもなく異常ね。だから狂っていると言ったのよ」


 皐月はなんでもないことのように、涼しい顔で返事をする。


「だからこそ、『更生プログラム』なのよ。きみは一刻も早く『更生』を成し遂げる必要があるわ」


 ごくりと喉を鳴らした律は、視界に映る皐月へすがるような視線を向ける。


「で、でも僕が『更生』したら、皐月さんは消えてしまうんでしょ? なんとかずっといてくれる方法はないの?」


「そう言って貰えるのは嬉しいのだけれど、きみの脳がいつまで耐えられるかしら。五感から入力された情報を無理やり加工して意識に出力しているのよ、相応の負荷が掛かっているわ。現実を歪めるために膨大な処理をしている脳が焼き切れてもいいのなら、十年でも二十年でも試してみましょうか? まあそうなったら妄想すらできなくなってしまうでしょうけど」


 にこやかに微笑む皐月。律は二の句が継げず固まっている。


「残念ながら私ときみの関係は、私がミンチになった瞬間にバッドエンドが確定しているの。諦めなさい」


 律は何か言おうとして視線を彷徨さまよわせ、結局何も言い返せず、小さくため息を吐いた。


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