いつまでも事故現場付近に立っているわけにもいかず、律たちは彼の部屋へと移動していた。
幸いなことに、皐月の来訪に合わせてお茶やお菓子の準備をしていた母親に律が家を出たことは気付かれておらず、そのまま忍び込むように二階の自室へと戻ったのだった。
「ふう、ようやく落ち着いて話せるわね。いくら
皐月は苦笑を浮かべながら、ぼすん、と音を立てて律のベッドに腰を下ろす。
勝手に自分のベッドに座る相手へやや非難の目を向けた律だったが、今は些細なことで揉めている場合ではないと思い直し、自分は学習机の椅子を引いて腰掛けた。
「さて、きみもかなり落ち着いたようだし、私たちの今後を左右する『更生プログラム』について話しましょうか」
「更生、プログラム?」
オウム返しをする律に皐月は首肯する。
「そ。更生プログラム。さっきも言ったけど、きみは本物の私の死を目撃して精神が壊れかけたの。いや、実際もう壊れていると言っても差し支えないのかもしれないわね。私なんかを生み出してしまっているんですもの。まあそれはいいとして」
律は今何か重大なことを言われた気がしたが、続く内容にすべて意識を持っていかれた。
「私が生み出された目的は二つよ」
そう言って左右の手でVサインを閉じたり開いたりする皐月。憧れの女性が、真面目な表情でカニのようなポーズをとっている様はなかなかにシュールな光景だった。
「まずひとつ目。最終的に、律くんには私の死を乗り越えてもらいます。この私は、きみが『皐月』の死のショックを和らげるためのリハビリのようなものね。私が――正確にはきみの深層心理が判断したら、私は消えるわ」
さらりと語られた内容は律にとってかなり衝撃的だった。
「な……え、消える?」
明らかに動揺を見せた律に、皐月は僅かに眉を
「ねえ、忘れてはいないでしょう。本当の私は死んでいるのよ? 本来ならきみがこうして私と話していること自体がおかしいし、狂っているの。きみは自分で生み出した私の姿を通して、自分自身と会話しているんだから。お人形遊びは、いつかやめないとね」
そうだった。目まぐるしい出来事に意識せずに済んでいた皐月の損壊した姿が、じわりと脳裏に浮かんだ。それを振り払うように、律は顔を上げた。
「ふ、ふたつ目は?」
皐月は意味ありげに口の端を歪めた。
「ふたつ目は、きみが引きこもりになった原因、例のトラウマを払拭して、また学校に通うことよ」
先ほどにも増して呆気にとられた様子だった律の表情が、次第に険しいものへと変わっていく。
「僕だって好きで引きこもっているわけじゃない! 本当に僕自身だって言うなら、それもわかってるはずだろう!?」
「きみの精神は、このふたつをクリアしたとき真の『更生』が達成されると判断しているわ」
強い感情をぶつけられた皐月は、しかし涼しい顔で微笑んでいる。
さらに感情を昂ぶらせた律は、何かに気付いたように視線を止めた。
「……だいたい、皐月さん。あなたは本当に僕の頭の中の存在なんですか?」
努めて冷静に問う律。
律の視線は、皐月の腰掛けたベッドへと向かっていた。彼女の体重を受け止めるようにマットレスが沈み込んでおり、とても妄想や、まして幽霊には思えなかった。
「なるほど、自分の頭の中だけの存在が、どうして物理的な影響を及ぼしているのか、という疑問ね。よろしい、説明してあげるわ」
どこか得意気な様子の皐月が勉強を教えてくれていた記憶の中の姿に重なり、瞳の奥が熱を持った。あんな事故がなければ、今頃こうして本当に勉強を教わっていたのだろう。本物の皐月に。
色々なものを堪えながら返事をしようとした律を、母親の声が遮った。
「律? 開けてもいい?」
控えめに、伺うように告げられた律は、判断を委ねるように皐月を見る。
「ちょうどいいわ。律くん、お母様を部屋に入れて」
皐月が言うなら問題はないのだろう、律は
「今、私の存在は律くんにしか見えない……見えないということになっているわ」
背後に立った皐月が、耳元で意味ありげに囁く。
「大丈夫。あ、僕が開けるよ」
思い切って部屋の扉を開けると、お盆にお茶とお菓子を載せた母親が立っていた。
母親がありありと浮かべていたのは、困惑の表情だった。