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1.頭の中の幽霊

 今日は皐月さつきが来る。その予定は少年の胸を高鳴らせた。


 ***


 先日十五歳の誕生日を迎えた少年――りつは、所謂いわゆる引きこもりだった。


 しかし彼の一日は、一般的な「引きこもり」のイメージとは大きく異なっている。


 朝は七時に起床し、両親とともに朝食を食べる。その後自室に戻り、昼食を挟んで夕方まで自主的に勉強を行う。夕食後は本を読んだりネットを巡回したりして、日付が変わる前に床に就く。


 学校へは行かず、それどころか自宅から決して出ようとしない点に目を瞑れば、律は非常に規則正しい生活を送っていた。


 彼が現在の生活を送るようになったのは一年ほど前のことだった。


 その日、律は夕食の時間になっても帰ってこなかった。律は部活に入っておらず、習い事もしていない。緊急時の連絡用を兼ねてスマートフォンも持たせている。無断で帰宅が遅れることなど今まで一度も無かった。


 年頃の男子であることに目を瞑っても、母親の不安は少しずつ膨らんでいった。そして、膨らんだ不安が行動を起こす前に、息子は帰宅した。


 帰宅が遅れる場合は必ず連絡すること、母親がそんな小言を発するために開きかけた口を、酷く憔悴しょうすいした様子の我が子の姿に思わずつぐんだ。


「遅くなってごめんなさい」


 目を合わさずにかすれた声で呟くと、息子はふらふらとした足取りで二階の自室へと向かっていった。


 父親の帰宅後、様子のおかしい息子に何があったのか問い質したが、律は黙って首を振るだけだった。


 そして翌朝、両親とともに朝食を摂った彼が、以降学校へ行くことはなかった。


 クラスの中心人物になるようなタイプではないが、かと言っていじめを受けていた形跡もない。本人が巧妙に隠していた可能性は否めないが、両親の直感が否定していた。


 帰宅直後は酷く憔悴していた様子だったが、その後は精神状態も比較的落ち着いているようで、暴力を振るったり物を破壊したりといったこともない。


 しかし学校へ行くこと、家の外に出ることはかたくなに拒否した。サボりや非行に走ることもなく、同年代の子どもたちと比べても真面目で大人しい子だと認識していた我が子が突然登校を拒否し始めたことに、両親は怒りや悲しみよりも困惑を強く感じた。


 一度父親が背後から抱えるようにして、律を無理やり連れ出そうとしたことがあった。必死の抵抗虚しく引き摺られ玄関を抜けようかという時、律は隠し持っていたはさみを腕に突き立てた。


 父親ではなく、自分の腕に。


 両親が息子の抱える問題の根深さに気付いた、気付かされた日だった。


 その後も宥め、詰問し、問い質し、不登校の原因を探ろうとした彼らは、決して口を割ろうとしない律の強固な態度に遂には折れた。


 そこで妥協案として、「学校に行かなくとも勉強はしっかりやること」を息子と約束した。彼はすんなりとそれを受け入れた。


 見かけ上、律は落ち着いた規則正しい生活を送っていた。しかしそれが非常に危ういバランスの上でかろうじて成り立っていることを、両親も、そして律自身も自覚していた。


 そこで両親の手配により、心理状態のチェックと学習状況の確認のため、カウンセラー兼家庭教師が定期的に律のもとを訪れることになった。それが皐月さつきだった。


 律は現在の状況を諦め半分とはいえ受け入れてくれている両親に感謝もしていた。自室へと知らない大人が訪れることにあまり気は進まなかったが、自身を心配してくれているが故の手配であることも理解していたため、彼は抵抗することなく受け入れた。


 カウンセラー兼家庭教師の皐月は、二十代中盤くらいの女性だった。やや癖のある長い髪に、優しげな微笑みを浮かべる彼女を、律は当初かなり警戒していた。


 耳障りの良い言葉を並べ立てて味方を装い、言葉巧みに自分を学校へ連れて行こうとしているのではないか、と。


 しかし随分とくだけたカウンセリングを受け、勉強を教わり、雑談を交わしているうちに、その疑いは少しずつ氷解していった。律からすれば十分大人の女性であったが、どこかあどけなさを感じさせる表情が共存しており、彼女の性格にもそれが現れていた。妙に負けず嫌いで子供っぽい側面がある一方で、大人として律をたしなめることもある。


 律も大人しい性格だが、決して社交性が低いわけではない。時に対立し、時に冗談や皮肉を言い合いながら、彼らは次第に打ち解けていった。


 それから一年ほど経った今。律は皐月のことを歳の離れた姉のように感じていた。そして姉といいながらも、その感情には思春期の淡い想いも多分に含まれていた。


 そして律は、自分が本当に困っている人を差し置いて皐月の手を煩わせていることに罪悪感も抱き始めていた。律が引きこもっている理由は明確だった。


 皐月にならば、このような生活の――引きこもりに至った原因を伝え、相談してもいいかもしれない。


 誰にも話していなかった秘密を、を打ち明けよう、そう律が決心し、少しの期待と大きな不安を抱えながら皐月の訪問を待っている矢先のことだった。


 ***


 酷く損壊し、変わり果てた皐月の姿を目にした律は、呆然ぼうぜんと立ちすくんでいた。立ち竦みながら、声の無い慟哭どうこくを上げていた。


 律の精神こころが音を立ててひび割れていく。ぼろぼろになった精神はやがて剥がれ落ち、もう元には戻らないのだろう。それを律はどこか他人事のように感じていた。


 ひたすら黙し、罪を隠し続けた彼がようやく見出した心の支え。それをうしなった彼には、もはや何もかもがどうでもよく思えていた。


 壊れていく彼を止めたのは、聞き覚えのある、どこかからかうような声色だった。

「へえ……私が死んだら、そんなにショックを受けてくれるんだね」

 律は勢いよく背後を振り返った。そこにいたのは、後方で内臓を撒き散らして死んでいるはずの彼女――皐月だった。


 *


「や、律くん。遅れてごめんね」

「皐月……さん?」

 驚愕きょうがく、狂喜、不安、疑問、そして恐怖。律の中で様々な感情が渦巻き、ようやくそれだけ絞り出した。


 生きていたの、とは聞けなかった。眼前で微笑む皐月は傷や出血どころか服の乱れすらない。あれだけの事故でそれはありえない。何より、振り向けばまだそこに酷く損壊した彼女があったのだ。つまり、目の前の皐月は彼女とは別の誰か・・だ。混乱した頭でもそれに思い至った律は、いぶかしむように言った。


「あなたは誰、なんですか」


 よく似た他人? しかし赤の他人が記憶の中の皐月とここまで声色や仕草まで似るものだろうか。まさか双子? いや、皐月は雑談の中で一人っ子だと言っていた。仮に双子だとしても、こんなにも似ているものなのか? 双子だとしたら、そもそも彼女はなぜそんな嘘を……?

 再び乱れていく律の思考を遮るように、皐月……によく似た女性は言った。


「残念ながらどれも不正解よ。母親でも親戚でもないし、整形手術を受けた他人でもない。ドッペルゲンガー……は当たらずも遠からずといったところね」


 泡沫のように脳裏へ浮かんだ選択肢を次々と言い当てられた上にことごとく否定されて、律は愕然とする。


「私は律くんの精神こころが造り出した存在よ」

「……は?」

「わからない? 要は幻影、妄想のたぐいね。あの事件とそれに伴う長期間の引きこもり生活でただでさえ弱っていたきみの精神は、私の死によって崩壊寸前だったの。そこで咄嗟とっさに一種の防衛機能が働いて、私という存在を造り上げたのよ。頭の中の友達イマジナリーフレンドならぬ頭の中の幽霊イマジナリーゴーストってとこ。……がっかりした?」


 言葉の意味は分かるが、何を言われているのかわからない。早口でまくし立てられた内容は、律の中でほとんど意味を成さなかった。


「な、なにを」


 そんな律の態度に、皐月の幽霊を名乗る存在は不満げに頬を膨らませる。


「ねえ、本当はわかっているはずよ、私はきみなんだから・・・・・・・・・。そうねえ」


 悪戯を思いついた少女のようににやりと笑った彼女は、律の耳にそっと口を寄せた。


「律くんが引きこもりになった原因は……」


 耳元で囁かれた内容に、律の目が限界まで見開かれる。皐月の顔をした女が、得体の知れぬ不気味な存在に変わった。


 けたたましいサイレンを響かせながらようやく到着した救急車が、彼女だったものを載せて走り去っていった。

 去っていく救急車のサイレンが小さくなっていき、やがて聞こえなくなった頃、律はようやく口を開いた。


「な……んで?」

「言ったでしょう? 私はきみなんだって。きみが知っていることは、私も全部知っているわ。いい加減信じてくれたかしら? 小学生の頃に好きだった女の子とか、今のお家に引っ越す前に友達と作った秘密基地の場所まで言ったほうがいい?」


 楽しげに口を開き、自分の秘密を暴き立てる女の声に、じわりと染み出した汗が律の背中を伝う。あの出来事・・・・・はもちろん、あとに語られた内容も自分しか知らないはずだ。それを皐月の顔をした女は、まるで見てきたように語る。


 かといって女の言う荒唐無稽な内容――眼の前の女が自分の妄想であることなど、信じられなかった。幽霊を名乗る女は確かに質量を持って存在しているように見える。ちゃんと影もあるし、先程もくすぐったいような吐息を耳元に感じたのだ、信じられないし、信じたくなかった。


 しかし信じるしかない、そんな気持ちも確かにあった。女は律が黙っている間にも、律自身でも忘れていたような、自分しか知らないはずの内容を次々開示していくのだ。それに、事故現場にはあれだけの人が集まっていたのだ、事故に遭った女性と同じ顔をした女がすぐ傍にいたら、もっと騒ぎになっていてもおかしくはない。


 律は長い黙考の後、じっと眼の前の女を見つめ、そして呟くように言った。


「……でいい」


 言いながら、乱れていた心が不思議と落ち着いていることに律は気付いた。


「それで、いい。皐月さんが目に映って、僕と話して、そこにいるなら……それでいい」


 ひとつひとつ確かめるように紡がれた律の言葉を聞いた女――皐月は、満足気に微笑んだ。


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