翌朝。
遠くで獣の気配を感じたが、危険なほど近づいてくるものはなかった。
馬たちもぐっすり眠れたようで、今はゆっくりと水を飲んでいる。
昨日のスープの残りを使って簡単にリゾットを作っていると、リーファ先生が起きてきた。
「お、今朝も豪華だね」
と言うリーファ先生に、
「余裕があるうちに食っておかないとな」
と言う。
リーファ先生が顔を洗って身支度を整えるとちょうどリゾットが出来上がった。
季節は夏の終わり。
森の渓流沿いは冷えるというほどではないが、やや冷涼に感じる。
王国北部にあるトーミ村ではもうすぐ暖かいものが欲しくなる季節だ。
そう思いながら手早く飯を済ませた。
身支度を整えてさっそく出発する。
渓流の渡りやすいところを見つけて対岸の森へ入りしばらく進むと違和感を持った。
「果物が少ないな」
私がそう言うと、
「ああ。猿だろうね」
とリーファ先生が言う。
「落ちたのは鹿かイノシシも食ったんだろうが、それにしてはそいつらの気配が少ない」
私がそう言うと、リーファ先生はまた、
「ああ」
と言って、
「熊か豹辺りかな?ゴブリンも巣くっているかもしれない」
と言った。
さすがにそこを避けて通ることはできない。
特にゴブリンは。
(やれやれ)
私は心の中でそう思いながらも、エリスに、
「頼んだぞ」
と言って、自分でも慎重に気配を読みながら進んだ。
やがて水場に出る。
水場と言っても石清水がたまった小さな泉だ。
風呂桶よりも大きく、金盥よりも小さい程度。
ちなみに、この世界に金盥は無いし、ましてやそれを頭上から落とす文化もない。
ともかく馬に水をやり小休止を取る。
辺りを観察してみるといくつかの痕跡が残っていた。
水場近くの足跡はおそらくヌスリーのもので、近くに通っている獣道はエイクのものだろう。
おそらくこの辺りはヌスリーの縄張りの端の方で、熊の移動ルートと重なっているといったところだろうと推測した。
と言うことは、この先、その両方と出会う可能性がある。
そしてゴブリンもいるとなると厄介だ。
(今日は仕事が多くなる)
そう思って、ため息をつきたくなったが、ふと、
(長年しみついた感覚というのはすぐには抜けないものだな)
と思って苦笑し、
(リーファ先生がいることを忘れるな)
と自分に言い聞かせた。
「全部だったな」
と私が言うと、
「ああ」
と言ってリーファ先生がうなずき、
「ゴブリンの集団がどの程度か気になるね。でもまぁとりあえず目の前の課題をこなさないといけない」
と言った。
「おそらく最初はヌスリーだろうな。頼んだぞ」
と言って、私がエリスを撫でると、
「ひひん!」
と鳴いて、コハクが(わたしもいる!)
と抗議する。
「はっはっは。もちろんさ。コハクも頼りにしてるよ」
と言って、今度はコハクを撫でてやると、
「ぶるる」
と鳴いて、どうやら機嫌を直してくれたようだ。
そんなほほえましいやり取りを経て、私たちはまた慎重に歩を進め始めた。
湿度が少し上がっただろうか?
この辺りの木は所々苔むしている。
足下は岩がむき出しになったところもあるが、森馬は苦にしないようだ。
まるで山羊かカモシカのように器用に進んでいく。
今のところ、私も馬たちも気配は感じていない。
しかし、そろそろ木が薄くなって下草が多くなってきたというところでコハクが止まった。
エリスも「ぶるる」と鳴いて警戒している。
私がリーファ先生に目で合図を送ると、リーファ先生もうなずき返して馬を降りた。
私は慎重に気配を読みながら、魔力を練り始める。
どうやらリーファ先生も同様らしい。
たぶんヌスリーだ。
独特のヌメっとした動きの気配が私たちの周りをうろついている。
(間合いを図られている…。そろそろヤツの射程に入る…)
そう思った私はコハクとエリスの前に出ると刀を抜き放ち、腰を落として下段に構えた。
ふと、気配が消える。
(来る!)
ヤツが攻撃に移る合図だ。
私は目を閉じて空気の流れに集中した。
「ぶるる!」
とコハクが鳴いた瞬間、後ろで空気が動く。
「ノック」
という言葉が聞こえた瞬間私は後ろへ走った。
リーファ先生のすぐ横を通り抜けると目の前に、ふいうちを食らって面食らうヌスリーがいる。
すぐに体勢を立て直そうとしているが、その暇を与えずサッとヤツの首をはね上げた。
返り血を浴びないように一瞬で飛び退って残身を取る。
ヤツが動かないのを見て簡単に刀を振って血を落とし、軽く拭いをかけてから鞘に納めた。
リーファ先生の方を見ると、ニコニコと笑っている。
(ああ、こういうことか…)
私は、やっと共に戦うということの意味が分かったような気がした。
私が右手を挙げると、リーファ先生がその手のひらを叩く。
(そういえば、生まれてこの方ハイタッチなんてしたことがなかったな)
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
倒したヌスリーに近寄ってみる。
体調は2メートル前後だろうか。
体は艶消しの黒。
毛皮はそれなりに高価らしいが、肉は食えない。
とりあえず剣鉈をヤツの胸に当て、魔石を取り出す。
「ほう。めずらしいな…」
私は思わずそうつぶやいた。
魔石は普通、不規則な形をしていることがほとんどだが、このヌスリーの魔石は、珍しくきれいな楕円形をしている。
拭いをかけてみると、きれいな琥珀色。
「…ふっ」
私は思わず笑ってしまった。
いくらなんでも出来過ぎだ。
私は笑顔で、馬を撫でてやっているリーファ先生に振り返ると、
「帰ったらコハクの鞍に着けてやろう」
と言って、魔石を軽く放り投げた。
「はっはっは」
それをみたリーファ先生も笑う。
「これは出来過ぎだね」
と私と同じことを思ったらしい。
そして、
「そのうち、緑色の魔石も取れたらいいね」
と言ってまた笑った。
コハクは、
「ひひん!」(やった!)
と言って喜んでいる。
エリスは少し羨ましそうだ。
(これは何がなんでも緑色の魔石を取らなければな…)
と思い、
(たしか、ディーラがそうだったな)
と考えて、私も笑った。
ひとしきり笑いあったところで、
「毛皮は持って行かんが、ほかに何かいるか?」
と一応リーファ先生に聞いてみた。
すると、リーファ先生は、珍しく少し考えたあと、
「…いや、いいよ」
と言った。
私がいかにも珍しいなという顔で見ていたからだろうか、リーファ先生は、
「一応薬になる部分もあるんだよ。まぁたいした薬じゃないがね」
と吐き捨てるように言って、一瞬考えた理由を教えてくれた。
私は何となく想像がついたが、
(どうせあほな貴族が高値で買うような薬なんだろうな…)
と思ってあえて何も聞かず、
「そうか。じゃぁ放っておこう」
と言ってすぐにその場を後にした。
ほんの少し移動する。
適当に腰掛けられそうな倒木を見つけると、私は、
「よし、昼にしよう」
と言った。
私一人だったら、あのヌスリーの死骸の隣でも飯は食える。
しかし、みんなで食う飯だ。
せっかくなら、少しでもちゃんとしたところで食いたい。
限られた条件の中でも工夫する。
そうして得られる満足感は、カロリーとはまた違った栄養になる。
結局、飯というのはそういうものなのかもしれない。
極めて陳腐な言い方をすれば心の栄養補給というやつだ。
さて、そんなことを思いつつも昼食は簡単に済ませなければならない。
普通ならヌスリーの縄張りの中にほかの魔獣は寄ってこないが、おそらくここはその境目だ。
エイクが出てきてもおかしくない。
残念で仕方ない。
それでも少しはマシにしたいと思って、いつものドライトマトにドライソーセージと乾燥野菜を入れてスープを作った。
普段食べるにはしょっぱいくらいの味付けが、一瞬とはいえ緊張を強いられた体に染み渡る。
乾燥させたものとはいえ、野菜が入っているのもいい。
肉とは違う食感があるだけで満足感が違う。
横でリーファ先生がふーふー言いながらスープを飲んでパンをかじり、コハクとエリスも仲良く草を食んでいる。
いつの日か、この輪の中にマリーも加わるのだろうか。
そう考えてついつい微笑んでしまった。
「なんだい、どうかしたのかい?」
私の顔をみて、不思議そうにそう聞くリーファ先生に、
「いや、美味いなと思ってな」
と答えてまたスープをすする。
この魔獣がはびこる森の中に開けた小さな陽だまりが、今だけはこの上なく幸せな食卓に思えた。