「よし、今日はいよいよあの脂身の多い方の肉を食べよう」
朝食のあと、私はおもむろにそう告げた。
「…え?あ、はい…」
ドーラさんは私の唐突な宣言に少し驚いたようだ。
おそらく、今朝食を食べたばかりなのに、もうお夕食のお話ですか?というのと、あの部分を食べるんですか?というどちらの驚きがあったに違いない。
なにせ、この世界では脂身の多い部分は食えたものじゃないというのが常識だ。
まず、第一に肉の中に脂、いわゆるサシが入っている肉がほとんどない。
たまに似たような見た目の肉があってもそれはゲテモノとして扱われている。
なにせ、そいつらは脂ではなく筋が入っているようなもので、硬く食感がとにかく悪いし脂自体もくどくて美味いのもじゃない。
だが、リーファ先生だけは好奇心をむき出しにして、
「お!いよいよか!いよいよあの脂身肉がスキ焼きになる日が来たのだな!」
と言った。
「えっと、スキ焼きというのは…?」
ドーラさんはややポカンとしていたが、耳慣れない料理名に調理担当らしく反応を示した。
こほん、と私は一つ咳ばらいをして、
「薄く切った肉を砂糖と醤油なんかで焼いて、そのあと野菜と一緒に煮込んで食べる…まぁ、簡単に言うとそんな感じだ」
「はぁ…」
ドーラさんはいまひとつピンときていないようだ。
「そうだな…とりあえず、ドーラさん。白根とホソジロダケ、あとはエクサと、白菜…は時期的に無いだろうから、エリ菜を用意してくれないか?」
エリ菜というのは小松菜と白菜を足して2で割ったような野菜で、白菜ほどではないが、水気がおおくそれなりにうま味もでてくる野菜だ。
「あと、生でいける卵があればそれを用意してほしい」
「え、ええ…。卵は聞いてみないとわかりませんが、それ以外は揃えておきましょう」
そう言って、材料の調達を引き受けてくれた。
この世界にしらたきや豆腐が無いのが残念で仕方ない。
私は皆の驚く顔を想像しつつ、仕事へと向かった。
夕方前、少し早めに仕事を切り上げると私は急いで屋敷に帰ってきた。
さて、いよいよだ。
そんな気持ちで台所にドーラさんを訪ねる。
「待たせたかい?」
私がそう聞くと、
「いえ…。おかえりなさいまし。お出迎えもせずに…」
とやや恐縮してドーラさんは頭を下げた。
私が息せき切って台所に押し掛けたんだ、謝られることではない。
「いや、こっちこそすまん。気持ちが焦っていたのかな?ずいぶんと急いで帰ってきてしまった。気にしないでくれ」
私はそう言うと、さっそく材料を確認した。
野菜は今朝お願いしたものが、全てそろっている。
あと、ガーの卵が手に入ったそうだ。
ドーラさん曰く、ちょうど生みたてで新鮮だし、丁寧に洗ったからこれなら生でもいけるだろうとのこと。
最高だ。
私はそれらの材料を確認し、さっそく準備にとりかかった。
「まずは、肉だな。こいつをできるだけ薄くきってくれ。そうだな…1,2ミリってところかな?」
「はい、かしこまりました」
ドーラさんは最初こそ脂ぎった肉に少し苦戦していたようだが、手早くかつ丁寧に肉を捌いてくれた。
「うん、完璧だ。野菜はいつもの鍋の感じでかまわないから適当に切っておいてくれ」
「はい」
こちらは慣れたもので、手早く切ってくれる。
「うん。じゃぁ、次は調味料と手順の確認だな」
私はそう言って、砂糖、しょうゆ、蕎麦酒を取ってきた。
砂糖は貴重品だが、少し前、実家に呼び出されたとき、多めに買い付けてきたから、まだ余裕がある。
蕎麦酒は煮切ってみりんの代わりするつもりだ。
ほんの少しハチミツを入れて甘みを足せばそれっぽくなるだろう。
コクだしにとアップルブランデーをほんの少量入れたらどうかと思ったが、初手で冒険はできない。
悪くはないと思うが、とりあえず今回は王道を行くことにした。
ちなみに、今回は私の記憶にある関西風に近い感じで作る。
肉に砂糖をまぶして焼き、割り下を少し絡めてまずは肉を食う。
そしてそのあとネギこと白根を焼きつけて、その他の野菜も投入し一緒に煮ていくというスタイルだ。
「よし、あとは米が炊けたら準備完了だな。さっそく食堂にスキレットとコンロを用意しよう」
「えっと、スキレットですか?」
「ああ、そうだ。スキレットで焼いて作る鍋だからスキ焼きって名前にしたんだ」
「はぁ、そうでしたか…。わかりました。コンロは今の時期納屋にしまってあるはずですから、ちょっと出してきます」
「いや、私が行こう。ついでにリーファ先生とズン爺さんを呼んでくるから先に準備を整えておいてくれ」
「はい、かしこまりました」
そういって、私たちがそれぞれの仕事に取り掛かると、ちょうど夕飯時になっていた。
食堂に全員が揃い、食材が並べられる。
リーファ先生は興味津々。
ドーラさんは材料にまだ一抹の不安があるようだ。
ズン爺さんはなんだか物珍しそうに肉と生卵を交互にのぞき込んでいる。
私はそんなみんなの様子を見て、おもむろに説明を開始した。
「まずは、この肉本来の味を楽しもう。スキレットが温まったら肉を入れて、砂糖を少し振りかける。そのあと、このタレをさっとかけて焼いていくから、順番に味わってくれ」
そう言って、私は牛脂ならぬゴルの脂を温まったスキレットに引くと、一気にジュッといい音がして、食堂には甘い脂の香りが広がった。
リーファ先生が驚いている。
これまでに経験してきた獣の脂とは一線を画す上質な香りだ。
もう、これだけで確信したのだろう。
私に向かって、最初は私だろうな?という視線を送ってきている。
私は苦笑しつつ頷くと、肉を一枚入れ、砂糖を少しかけて焼きすかさず割り下を絡めて、焼き上げた。
「よし、じゃぁ最初はリーファ先生だ」
そう言って、リーファ先生の皿に肉を取り分けた。
「うん…。いただこう」
そういって、リーファ先生は肉を口に入れる。
その瞬間だった。
「んふーっ!」
と目を丸くして私と肉とを交互に見やり、
「なんだ!なんだこれは!美味い!美味いが、もうなくなった。一瞬で口の中から消えたぞ?なんでだ?伝説の空間転移魔法か?」
と若干訳の分からないことを叫んでいる。
「はっはっは。どうだ?私の勘に間違いはなかったろう?」
きっと、この時私は渾身のドヤ顔をしていたはずだ。
しかし、リーファ先生はそんなことは全く気にならないほどの衝撃を受けたらしく、
「ああ、君の勘は正しかった。これは美味い。肉本来の味もさることながら脂の甘みがたまらない。それにタレだ。…ドーラさん米を、米をくれ!」
そう言って飯をもらうと、慌てて掻きみ、
「うん、やはりこれは米だ。米と最高によく合う。おい、バン君、君はいったい何度私を殺せば気がすむんだ?」
と真顔で聞いてきた。
「はっはっは。しかし、残念ながら、まだまだ終わりじゃないぞ?そこにといた卵があるだろ?次はそいつをつけて食ってみてくれ。また、別の味わいになる」
私はそう言って、リーファ先生を煽る。
「なっ!…生卵か…うん。なかなか挑戦的だな。いや、よし。君がそういうんだ、試してみよう。早く次をよこしたまえ!」
「おいおい。まだ、ズン爺さんとドーラさんの分が行き渡ってないだろ?ちょっと待ってくれ」
「うっ…。そうだったな。いや、すまん。少し焦ってしまったよ」
「いや、その気持ちはわかるさ。私も待ちきれないからな。まぁ、後半は野菜を煮てそこに肉を入れながら食べていくから、皆一緒に楽しめるようになる。しばらくの辛抱だ」
そう言って、私は次の肉を焼き始めた。
案の定、ドーラさんもズン爺さんも驚いてそれぞれに「とにかく美味い」という感想を言ってくれた。
おそらく、語彙を失うほど美味かったのだろう。
そして、2巡目、いよいよリーファ先生は生卵に挑戦した。
「…っ!おい、バン君。これはいったいどういう魔法だ?一気に違う料理になったぞ?いや、これが本来のスキ焼きなのか?生の卵を調味料として使うなんて…。いったいどこからそんな発想が…。恐ろしい。やっぱり恐ろしいよ、君と言う男は…」
ドーラさんもズン爺さんも先ほどよりも目を大きく見開いて、言葉もなく、ただ、コクコウと私に向かって何度も首を立てに振っている。
よし、成功だ。
そう思ってやっと私も一口肉を食う。
…想像以上だった。
この肉は前世の記憶にあるどの肉よりも美味い。
脂はこの上なく甘く、しかし上品でまったくくどくない。
口の中で生まれる肉のうま味との相乗効果も素晴らしい。
そして、卵のまろやかさが、割り下と絡んで肉のポテンシャルを最大限にまで引き上げている。
リーファ先生が言うように一瞬で無くなってしまうが、その余韻はいつまでも口の中に残る。
私は、とんでもない前世の記憶をよみがえらせてしまったのかもしれない。
リーファ先生ではないが、私も自分自身が恐ろしい。
そして、肉と野菜の饗宴が始まった。
野菜のうま味をたっぷりと含んだタレで食う肉。
肉のうま味を吸った野菜。
肉と野菜、両方のうま味が溶け合って育っていく生卵。
そして、米との相性。
そのどれもが我々を魅了し、みんながこの上ない幸せの絶頂を味わっている最中、私は皆にこう言った。
「みんな、米は食い過ぎるな。最後にこのタレで育った卵を飯にかけて締めにするからな」
と。
この時の皆の顔は終生忘れることがないだろう。
こうして、ゴル肉がもたらした驚きと幸せに満ちた最高の食卓は我々全員の記憶に永久に刻まれることとなった。