死刑判決が下された。五人も殺したのだから当然だ。
私はため息ひとつで全てを飲み込む。
明日の朝刊は、センセーショナルな見出しが一面を飾るのだろう。
「連続殺人犯の男、日本で六人目の沈没刑に」――
「おう、待たせたな」
処刑場へ向かう船の中、ぼんやりと海風に吹かれていた私の隣に、執行人がドッカと腰を下ろした。
「お前の要望、ちゃんと通ったぞ。良かったな」
日焼けした顔にくしゃっと皺を寄せて笑うその人は、いかにも気のいいおっちゃんという感じで、私はなぜ彼がこの仕事を選んだのか不思議に思った。
「ありがとうございます」
「一応、確認しておいてくれ」
仮に間違っていたとしても、もう引き返せないだろうに。心の中で苦笑しながら、私は受け取った紙袋から中身を取り出した。
「ああ、大丈夫です。ちゃんと合ってます」
「なんだ、本を頼んだのか?」
「ええ」
姿を現したのは文庫本だった。表紙には夕暮れをバックに、男女のシルエットが寄り添っている。
最期に一つだけ欲しいものをと聞かれた時、これしか思いつかなかった。
「そんなにいい本なのか」
「いえ、まだ読んだ事がないんです」
私は作者名をひとつ撫でると、大切に紙袋に入れ直した。
「これ、私の初恋の人が書いたものなんです。最期にどうしても読みたくて」
「へえ、青春時代の思い出ってやつか。若いねえ。……その人との別れは済ませて来たのか?」
「いえ、もう亡くなっているので。これは彼女が最初で最後に出した一冊なんですよ」
そう静かに微笑む私に、彼はどういう顔をすればいいのかわからなかったのだろう、そうかと唸って黙り込んでしまった。
ここ数日、残暑を洗い流すかのように雨が続いていたが、今日は抜けるような青空が広がっている。日差しにきらめく海は、内陸で育った私なのに、何故か心象風景に重なった。
沈黙に耐えられない質なのだろう、彼は気を取り直したように明るい声を出した。
「そういやァ、前に煙草を申請した奴がいてな。だが当日になってライターがないことに気がついた。持ち込めるのは一つだけだからな」
彼の笑顔がなんだか哀れで、私は話に乗ることにした。
「へえ。それで結局吸えないまま?」
「いや、可哀想だから俺のをやったさ」
ニコチン中毒もそこまで行ったらおしまいだ。
「しかしまあ、こういう時何を選ぶかで人柄が出るもんだな。俺だったら……そうだな、もう枯れたおっさんだからな。無難に家族写真とでも言うかな」
その時、大きな振動と共に船が停止した。辺りを見渡せば、陸の影ひとつ見えない。私の死に場所はまさに海の真ん中なのであった。
デッキを行き交うカンカンカン、という足音とモーター音が響く。
隣を見遣れば、ついさっきまで饒舌だった彼は途端に萎れてしまっていた。私は慰めるようにそっと声をかける。
「ありがとうございました。最期に話したのがあなたで良かった」
彼は項垂れたままゆるゆると首を振って、目頭を押さえた。
優しい人間は可哀想だ。ただでさえ他人の感情を背負い込む傾向にあるのに。何のきっかけか知らないが、こちらの世界に入ってしまったせいで、私のような極悪人のためにまで涙を流す羽目になっている。
「おおい、用意が出来たぞ。下に降りてこい」
野太い声が飛んできて、私達は立ち上がった。
階段を降りると、目の前には小さなシェルターのようなものが置かれてある。
「何か言い残すことは無いか」
「特にありません」
無宗教なので教誨師も断った。旅立ちは静かでありたい。
「いいか、人間は宇宙には行ったが、海の底にはまだ到達していないんだぞ」
乗り込む直前、泣きながらよく分からない慰め方をしてきた彼に、私は曖昧に笑って頷くしかなかった。
シェルター……私専用の潜水艦と呼ぶ方が正確かもしれない。残念ながら、再び浮かび上がる機能は持ち合わせていないのだが。
潜水艦の中は至ってシンプルな作りで、天井と壁にひとつずつ、丸い窓が付いているだけだった。
身を屈めて一人分の空間をぐるぐると歩き回っていたその時、突然、身体全体を揺さぶられるような衝撃が起きた。私はたちまちバランスを崩し、したたかに肩を打ち付けてしまう。
鈍い痛みに顔をしかめていると、耳元にザンッと水面の波立つ音が響いてきた。どうやら潜水艦が船から海に落とされたらしい。
それにしても乱暴な……とぼやく声は、よどんだ空気に跡形もなく消えていった。
なんとか体勢を立て直して外を見てみると、幾重にも折り重なった碧を縫って、白い光が一筋、天使の梯子のように差し込んでいる。
それは明け方の空を浮かんでいるようで、私はその光景の美しさを、ただただ目に焼き付けることしか出来なかった。
潜水艦はどんどん沈んでいく。それにつれて、届く光も少なくなってきた。
深藍に染まり始めた艦内に、私は頭上へと手を伸ばして電池式のライトをつける。ぼんやりとした橙の灯りにほっと息をつくと、傍らの袋から先程の本を取り出した。
「あなたへ」と題されたそれは、とある少女の恋物語だった。引っ込み思案なヒロインが一人の同級生に出会い、だんだんと惹かれ合っていく。
そんなありふれた青春の中にいる高校生二人は、多少脚色されてはいるが、明らかに在りし日の私と彼女そのものであった。
薄明かりの中、私は目を凝らすようにして綴られた文字を追っていく。
ストーリーは五章構成になっていた。
第一章「あこがれの人」――虐められていた過去を持つ少女は、ある時クラスメイトである少年の優しさに触れ、心を開き始める。
高校二年生、始業式の日。隣の席にいたのは、うつむいて座っている女の子だった。「わたしは大人しい人間です」オーラを放つ彼女は、一目見ただけで私と同類だと分かって、憂鬱な集団生活に少しばかりの安息を得たことを覚えている。
言葉を交わすことはほとんどなかったけれど、視界の端で彼女はいつも真剣にノートをとっていて、私はあくびを噛み殺しながら、真面目だなあと思っているばかりだった。
そんな出会いだったから、まさかこの時から私を気にかけてくれていたなんて思いもしなかった。彼女の落とした消しゴムを拾ったり、話しかける言葉の中に嘲笑の含みがなかったりと、そんな普通のことが彼女にはよほど特別に映ったらしい。
中学時代、男子生徒から心無い暴言を浴びせられていたのだから当然の反応かもしれないが、それにしても作中の少女は少年のことを買い被りすぎではなかろうか。少年に惹かれていく描写は瑞々しく、私は照れるやら驚くやらで口元が緩んで仕方がなかった。
第二章「いつかまた」――図書委員を通じて距離が縮まる二人。互いに意識し合うものの、告白できないまま卒業の日を迎える。
クラス替えから数週間後、私は彼女と同じ図書委員になった。なったというより、これくらいしかなれそうなものがなかったのだ。
図書委員の仕事は、主に図書室の掃除と放課後の当番で、私は週に一度、彼女と並んで貸出カウンターに座っていた。
彼女と打ち解け始めたのはその頃からだ。
彼女は思っていたよりも話しやすい人だった。
おとなしい見た目によく似合う、囁くような声音は、私のどんな言葉もまろく包んで微笑みに変えてしまう。それは心穏やかなひとときだった。
席替えで隣同士でなくなっても、私の目は自然と彼女の姿を追いかけるようになってしまった。
とある当番の日、少し遅れて図書室の扉を開けると、カウンターで何か書いている彼女を見つけた。よっぽど夢中になっていたのだろう、すぐ側に立つ私に気がついた彼女は驚きに声を上げ、慌ててノートを閉じた。
「何してるの?」
彼女は私の顔を見上げてうーん、とひとつ唸った後、再び元のページを開きながらぽつりと呟いた。
「小説をね、書いているの」
「へえ、凄い」
私は心からの賛辞を贈った。他と比べて楽だからなどという理由でこの委員会を選んだ私とは大違いである。
「どんな話?」
「うーん、普通の恋愛ものだよ」
彼女は頬を染めて、内緒ねとはにかんだ。その瞬間、突然目の前で蕾が大きく花開いたような錯覚を覚えて、私は慌てて目線を逸らした。
「私みたいなのが恋愛ものを書いてるとさ、こいつモテないから妄想で満足してるんだろって思われちゃうじゃない。それが嫌なの。だから誰にも言わないでね」
内容に反して、彼女の黒い瞳は凛と澄んでいた。
「小説を書いてるとね、普段の自分がスーッと後ろに流れていって、無になるの。その瞬間がすごく好きなの」
変なこと言っちゃってごめんね、と謝る彼女を、私は羨ましいと思った。私にはそれ程の情熱を傾けるものがない。
「それ、読んでみたいな」
「いいよ。最後まで書き終えたらね」
結局その物語は読まずじまいになってしまった。未完のままだったのか、何か他に理由があったのか……今となってはもう、知る由もない。
第三章「知らない日々」――東京の大学に進学した少女は、卒業後、某企業の一般事務として働いていた。付き合っている男性はいるが、最近すれ違いが続いている。
……くらりと目の前の文字列が歪んで、私は強く目をつぶる。酸欠のせいかガンガンと痛む頭が、眩暈に拍車をかけている。あまり猶予はないようだ。これ以上悪化する前に、急いで読み上げなくては。
長く息を吐いて、私は手元に視線を戻した。ページをめくる度に、私の知らない彼女の人生が目の前で流れていく。この少女は――いや、この章では社会人になっているのだ、少女と呼ぶ歳でもないのだろう。しかし、私の中にいる彼女はいつまでもあの頃のまま、夕日が差し込むカウンターで静かに微笑んでいる。
第四章「手紙」――恋人と別れ、薄ぼんやりとした日々を送っていたある日、思い出の彼にとうとう見せることのなかった、例の小説が出てくる。改稿し、とある新人賞に送ってみる少女。
結果は選外だったが、それをきっかけに、ペンネームを本名のまま投稿を続ける。やがて小さな賞を受賞し、文芸雑誌に掲載されるようにまでなった。
そんな折、出版社に一通のファンレターが届く。それは忘れもしない、彼からの手紙だった。
本当に驚いたのだ。仕事帰りに立ち寄った本屋で、ふと目をやった雑誌の表紙に彼女の名前を見つけた時は。
単なる同姓同名かもしれないと思いつつ、私は巻末の住所に手紙を書いていた。筆不精のペンを懐かしさが動かしたのだ。
掲載されていた短編の感想にそっと、もしかして高校の頃の同級生ではないでしょうか、人違いでしたらどうぞ無視してくださいと添えてポストに投函した。
案の定、作者は思い出の彼女だった。返事と共に書かれていたアドレスにメールを送り、そこからやり取りを交わし始めた。
初恋の少女との久々の会話。といっても内容は他愛ないもので、最近仕事が忙しいだの、猫を飼おうと思うんだけどだの、ちょっとした日常を何コマにも分けて送り合っていた。
電話も連絡手段の一つだった。最初に番号を打った時は流石に手が震えた。
けれど耳元に聞こえてきた彼女の声は、昔と変わらず囁きのような優しさを持っていて、私は毎晩照明を落とした部屋で、その安心に耳を傾けていた。
そうやって暫く交流を続けていたのに、私達は何故か会うことをしなかった。
彼女の声を聞くたび、彼女の綴る文字を見るたび、初恋の上に新しいペンキが塗り重ねられて、もうひとつの新しい恋になっていくのを、確かに感じていたのに。
愚かな私はそれを壊さない事しか考えていなかった。言葉を交わすたびに、それが硬い鉄となって関係がしっかりしたものになるだろうと。そうして充分と土台が出来てから、満を持して会いに行こうと。
馬鹿だった。海の底で後悔したところで、もう何もかもが遅い。臆病さなど放り出して、新幹線に飛び乗っていれば何かが変わったかもしれないのに。
最初にメールを送ったあの時、電話をしたあの時、初の単行本が出版されるのだと喜びの連絡が来たあの時、あの時、あの時……
彼女と『再会』した時と同じく、偶然目に飛び込んできた――ニュース画面に映された写真で、私は初恋の少女が美しく成長していたのを知ったのだった。
第五章「瑠璃色の海へ」――すぐに返事を送った少女は、十年の時を経て思い出の彼と再会する。二人はあの時をやり直すように、ふたたび恋に落ちて……
……最終章は、私の知らない時間だ。切望して切望して、それでも叶わなかった、彼女との幻の時間。
私は一文字一文字を噛み締めるようにして、もう辿ることが出来ない道の続きを追う。
――空白のノートを埋めるかのように、同じ時間を重ねていく二人。とある夕暮れ、かつての少年と少女は、瑠璃色に染まり始めた砂浜を言葉少なに歩いていた。
ふと、目の前の足が止まる。つられて顔を上げると、振り向いた彼の瞳は打ち寄せる波のきらめきを湛えて、どこまでも澄みわたっていた。
一瞬の沈黙。鼓動が高鳴る。彼の薄い唇が開いて、そして――
ブツッという音とともに、艦内が暗転した。今まさに開こうとしていた、最後の一ページをそのままに、私は呆然と瞬きを繰り返す。
恐らく電池が切れたのだろう。身体の輪郭すら溶け出てしまうような完全な闇に、私は息をつくと、ゆっくり本を閉じた。
物語のラスト、彼らはどうなったのだろう。虚無を見つめながら想いを馳せる。
もう一人の私は、ちゃんと彼女に伝えることが出来ただろうか。それともまた何も言えないまま、生涯唯一の幸福を、この手から零してしまったのだろうか。
どうか幸せであれと願いながら、私はぐったりと目を閉じる。
瞼の裏に広がる幻の海辺は、夜の訪れを受けて、向かい合う男女の影を深藍の底に沈めていた。