「ヨアヒムさまとの契約期間も、残り数か月ね」
ファビオラが寝たきりから復活し、さらに数日が経った。
監禁されていた精神的苦痛で弱っていた胃腸も元通りになり、おかげで毎日の食事が美味しく、すっかりファビオラは元気を取り戻している。
そうしたら、脳裏に思い浮かぶのは、ヨアヒムのことばかりだった。
「あれからずっと、王城に滞在していると聞いたけど……」
ヨアヒムはヘルグレーン帝国の使者として、忙しくしているようだった。
お礼の手紙を父のトマスに届けてもらおうとしたが、なぜか固く断られてしまう。
こうしたことは直接、言った方がいいということだろうか。
「ヨアヒムさまを、訪ねてみようかしら」
アダンから聞いた話では、レオナルドはファビオラを攫って監禁した罪で、北の塔に幽閉されたらしい。
だから王城へ赴いたとしても、顔を合わせる心配はない。
そしてエバは監視の目が厳しくなり、自宅からは絶対に抜け出せない状況だという。
ファビオラが巻き込まれた火事について、いぶかしんだヨアヒムが頼んでくれたそうだ。
「相変わらず、ヨアヒムさまの推察はすごいわ。私が何も言わなくても、アラーニャ公爵令嬢を疑わしく思うなんて」
本当に名探偵オーズみたいだ。
「そうよ、あの屋敷に助けに来てくれたときに――」
ヨアヒムがこう言った。
『悪役に捕まってしまったシャミを救うのは、オーズの役目だろう?』
あのときは混乱していたから、そのまま受け止めてしまったけれど。
「よく考えれば、不自然だわ。どうしていきなり、『朱金の少年少女探偵団』の話になったの?」
こてん、と首をかしげる。
「あの台詞だと、私がシャミで、ヨアヒムさまがオーズだって、言ってるみたい」
そこまで口にして、ようやくファビオラは気づいた。
「もしかして……ヨアヒムさまは思い出したの? 私があの日の少女だって……」
ハッと左胸に手をやる。
服の下には、星型の矢傷がある。
「どうしよう……ヨアヒムさまは責任感が強い人だわ。もし、私に傷が残っていると知ったら……」
ファビオラと結婚すると言いかねない。
「駄目よ! それでは、ソフィさまが悲しむわ……!」
確かめなくてはならない。
ヨアヒムが思い出したのかどうか。
ファビオラは急いで出かける準備をする。
「こんな古傷、私は気にしてないって、伝えなくちゃ! そして……愛する人と、幸せになってくださいって、笑顔で言うのよ!」
◇◆◇◆
「グラナド侯爵、ファビオラ嬢はまだ……?」
「完全に回復するには、もう少しと言ったところです」
「……お見舞いに行かせてもらえませんか?」
「ファビオラが無理をしてはいけませんので――」
ヨアヒムとトマスが、立ち話で問答をしているところに、ファビオラは出くわしてしまう。
先に財務大臣の執務室を訪ねたら、そこで働いていた書記官たちから、トマスは宰相の執務室にいると教えてもらったので、複雑に入り組んだ王城内の回廊を歩いてるときだった。
「お父さま? ヨアヒムさま?」
「っ……!?」
トマスが、しまったという顔をして、ヨアヒムが、ひどく驚いた顔をしている。
「ファビオラ嬢、体調は大丈夫なのか!?」
ヨアヒムが駆け寄ってきた。
どうしてそんなに心配そうなのか。
「すっかり元気になりました。今日は、ヨアヒムさまにお礼を言いたくて、登城したんです」
ヨアヒムはどこにいるのかトマスに教えてもらおうと思ったのに、それより先に二人を見つけてしまったのだと説明する。
トマスは額に手をやり、首を横に振る。
「はあ、仕方がない。もう少し、ファビオラと一緒にいたかったが、誤魔化せるのもここまでか。ヨアヒム殿下、よろしくお願いしますよ」
ファビオラが回復次第、すぐにヘルグレーン帝国へ連れ帰るとヨアヒムが言っていたので、それを遅らせようと大人げない行為をしていたトマスだった。
だが、元気な姿で当人が現れてしまったため、ヨアヒムにファビオラを託すと、仕事へと戻って行った。
その場に残されたのは、訳が分かっていないファビオラと、よろしくお願いしますの意味を拡大解釈したヨアヒムだ。
「ファビオラ嬢、まだ病み上がりなのでは? どこか座れるところに――」
そう言ってヨアヒムが抱き上げようとするので、ファビオラは慌てふためく。
「大丈夫です! 自分で歩けます!」
しょんぼりするヨアヒムと、それを温かく見守るバート。
そんな二人の姿に、ファビオラはやっと戻ってきた日常を感じる。
「改めまして、助けていただき、ありがとうございました。おかげで、こうして回復しました」
ファビオラがキレイなお辞儀をすると、ヨアヒムも微笑んだ。
「本当に良かった。長らく臥せっていると思っていたから、気が気ではなかった。まんまとグラナド侯爵に、はめられてしまったな」
「父が失礼をして、申し訳ありません。もっと早くに、私がお伺いすれば――」
謝るファビオラを、ヨアヒムは手で制する。
「少しでも長く、ファビオラ嬢と一緒にいたい気持ちは、私も同じだからよく分かる。だからグラナド侯爵は、何も悪くない」
さらりと告げられたが、その内容にファビオラは赤面する。
破壊力のある言葉だったと自覚がないのか、ヨアヒムは平常通りだ。
「実はファビオラ嬢のために、お見舞いの品を用意したんだ。受け取ってもらえるだろうか?」
こくりと頷くファビオラを、ヨアヒムがエスコートする。
品物を取りに部屋へ行くのかと思ったら、王城の庭園へと連れて行かれた。
(この先には噴水があって、ベンチがあって――)
予知夢の中で見たのと、変わらない風景がひろがっている。
しかし今ここに、レオナルドはいない。
華やかなお茶会も開かれておらず、咲き誇る花たちの柔らかい香りだけが漂っていた。
「カーサス王国の人に、何度も案内してもらったから、すっかり詳しくなったよ。ファビオラ嬢は、この噴水がなんて呼ばれているのか知ってる?」
「噴水に名前があるんですか?」
それは初耳だった。
ファビオラは目の前の噴水を眺める。
きらきらと光を反射して、小さな虹をつくっていた。
これだけ大きな噴水だから、確かに名前があってもおかしくない。
「この噴水はね、『運命の分かれ道』というんだって」
「それは……変わった名前ですね」
ファビオラは宙を舞う飛沫を目で追う。
四方八方へ水が飛び散る様子を、分かれ道に例えたのだろうか。
それにしても運命とは、少し大げさに感じた。
「どうぞ、ベンチに腰かけて」
ファビオラが座る場所へ、ヨアヒムがハンカチを広げる。
狼狽えながらも、その上に座らせてもらう。
するとヨアヒムが、ファビオラの前に跪いた。
「え……!?」
てっきり、隣に座るものだと思ってたファビオラは、驚いて声を上げてしまう。
ヨアヒムはしきりに苦労しながら、懐から何かを出そうとしていた。
もしかして、それがお見舞いの品なのだろうか。
「ヨアヒムさま、そこはスマートに取り出さないと」
「待て、角が引っかかって……折れたら大変だ」
「だから俺が持ちますって言ったのに」
「それは駄目だ。特別で、大切な物だから――」
やっと上着の中から、茶色の紙袋が出てきた。
ファビオラはそれに見覚えがある。
寒い日に、侍女のモニカがこっそり買ってきてくれたものと、同じだった。
「それは、王都の本屋さんの……」
「受け取って欲しい」
両手で差し出された包みを、ファビオラも両手で受け取る。
封がされていた口を開いて、そこから中を覗くと――。
「っ……! 朱金色の表紙!? もしかして……」
「つい先日、五巻が発売されたんだ」
ヨアヒムが歓びを隠せないという顔をする。
ファビオラも期待に目をきらきら輝かせた。
「見てもいいですか?」
「もちろん。……出来れば、表紙もめくって欲しい」
少し顔が赤いヨアヒムの前で、ファビオラは慎重に本を取り出す。
団旗を模した表紙を愛おしげに撫でて、サブタイトルを読み上げた。
「『誘拐されたシャミの行方を追え! 消えた手がかりとリーダーの謎』……シャミは誘拐されてしまうの!?」
「偶然だけど、ファビオラ嬢の状況に似ているよね」
巻を追うごとに、オーズやシャミは年齢を重ねていき、四巻ではオーズは17歳、シャミは15歳だった。
「五巻では、二人は何歳になったのかしら? ヨアヒムさまは、もう読みましたか?」
「まだだよ。ファビオラ嬢が元気になってから、と思っていたから」
最新刊を入手していながら、読むのを我慢していたのか。
それはなんという耐えがたい苦痛だろう。
ファビオラは頭を下げて詫びた。
「すみません、本当にもっと早く会いに来ていれば――」
「大丈夫。それより……その、表紙を……」
ヨアヒムのしゃべり方が、ぎこちなくなった。
いつまでも本を撫でてばかりのファビオラに、どうか表紙をめくって欲しいと促す。
もしかしたら、そこに何かのメッセージが書かれているのだろうか。
何の気なしにぺらりと開き、ファビオラはその衝撃に息を飲んで固まった。