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62話 二度目の火事

「急いで消さないと、このままじゃ……」


 備え付けられていた水差しをひっくり返し、シトリンが炎へ水をかける。

 しかし、それはカーテンの一部を濡らしたに過ぎず、火はめらめらと天井を目指した。


「火から離れて! もう私たちの背丈を越したわ。こうなると炎は、簡単には消せないの」


 ファビオラはシトリンの腕を引き、火元から遠ざける。

 そして部屋の構造を確かめた。


「窓を開けてみましょう。そこから外へ、出られるかもしれないわ」


 ここは二階だが、運が良ければ、下へ降りられる。

 ファビオラはまだ燃えていないカーテンを力任せに引き剥ぎ、それを持って掃き出し窓からバルコニーへと向かった。

 少し手すりは高いが、乗り越えられなくもない。


「『朱金の少年少女探偵団』なら、ここでオーズが七つ道具のうちの一つ、縄梯子を取り出すシーンだけど……ああ、思っていたより地面が遠いわね」


 ファビオラの手の中にあるのは、長いカーテンのみ。

 これをロープのようにして、脱出できるだろうか。


「でも、やるしかないわ! シトリンさん、カーテンに結び目をつくりましょう。降りるときの足掛かりになるわ」

「こ、ここから、降りるんですか? わ、私、あまり運動は、得意ではなくて……」


 想像しただけで、シトリンが震えだしてしまった。

 ファビオラは自分たちが少年少女ではなく、令嬢であるのを思い出す。


「そうね、冷静に考えたら無理ね。日頃から、そんなことをし慣れている訳でもないのだから」


 ファビオラはカーテンをロープにするのを諦めた。

 閉めた窓ガラス越しに部屋の中を確認すると、すでに炎はソファや壁紙を焼いている。

 窓枠の隙間からは、黒々とした煙がもれ始めた。


「私たち以外、誰も異常に気づいていないのかしら。このままだと延焼して、大勢が逃げ遅れてしまうわ」


 ファビオラは、どうして自分が火事に気がついたのか思い出す。

 最初は匂いがきっかけだった。


「この焦げ臭い匂いを、どうにかして届けられないかしら」

「それは、パーティ会場に、ですか?」

「火が爆ぜる音は、楽団の奏でる曲にかき消されてしまうし、黒煙は天に昇って、夜闇へ混ざってしまうでしょう? でも匂いなら……」

「だったらこのカーテンを、扇のように使ってみるのはどうでしょうか?」


 シトリンが提案する。


「端っこを持ってバサバサと動かせば、風が起きると思うんです」

「名案だわ! やってみましょう!」


 ファビオラたちはバルコニーの端に寄り、煙を吸わないように気をつけながら、カーテンを大きくはためかせた。

 ばふっばふっ、という音と共に、煤けた煙が横に流れていく。

 窓の近くまで火が迫ってきて、肌でその熱を感じ始めた頃、ようやく誰かが「火事だ!」と叫んだ。


 それからは、屋敷中が大騒ぎになった。

 最初にバルコニー下へ駆け付けたのは、シトリンの婚約者だ。

 火元である休憩室に、シトリンがいると知っていたからこそ、真っ先にここを目指して走ったのだろう。


「シトリン! 無事か!?」

「セブリアン、ここよ! ファビオラさんと、バルコニーに取り残されているの!」


 シトリンが手すりから身を乗り出し、声を上げる。

 セブリアンと呼ばれた男性は、砂色の髪に茶色の瞳で、全体的に柔らかい色合いをしていた。

 釣書に添えられたセブリアンの肖像画を見て、シトリンが優しそうだったと評したのも頷ける。


「すぐに助ける! なるべく窓から離れて、煙を吸わないようにしゃがんで!」


 シトリンとファビオラは言われた通りにした。

 セブリアンは一階のテラスの手すりの上に立ち、そこから飛び上がると、腕の力だけで二階のバルコニーへと登ってきた。


「一人ずつ、背負って下ろす」

「ファビオラが先だ!」


 そのとき、レオナルドがバルコニーの下に駆け付けた。

 散々あちこちを探し回ったのだろう。

 珍しく汗をかいて、喉も枯れている。

 しかし、それでも声を張って、セブリアンへと命じた。


「ファビオラを下ろせ!」

「いいえ、先に下りるのは、シトリンさんです!」


 セブリアンは平民で、シトリンは男爵令嬢だ。

 ファビオラとて侯爵令嬢でしかないが、この中では最もレオナルドに対して物を言える。

 危険を冒してセブリアンがここまで登ってきたのは、婚約者であるシトリンを救うためだ。

 ファビオラも助けてくれようとしているのは、あくまでも厚意である。


「今のうちに、早く下りて!」


 言い返されたレオナルドが、茫然としている間に、ファビオラは二人を促す。

 セブリアンはシトリンを背負うと、その体をしっかりと上着で結び付けた。


「すぐに戻る」


 そう言って、セブリアンが身軽に手すりを乗り越えた。

 下り始めてしまえば、レオナルドにもどうしようもない。

 そしてファビオラを助けるまでは、セブリアンに手出しができない。


「急げ! 早くファビオラを助けろ!」


 シトリンを背から下ろしたセブリアンは、また二階を目指す。

 そのとき、パリンとガラス窓が割れ、バルコニーにまで炎の手が伸びた。


「ファビオラ!」


 悲痛なレオナルドの声が響く。

 ファビオラは口と鼻をハンカチで押さえ、目をぎゅっと閉じて身を護る。


「しがみついてくれ。すぐに下りるぞ」


 近くでセブリアンの声がして、ファビオラは縋りついた。

 体を上着で括りつけられる間に、お礼を言われる。


「ありがとう、おかげでシトリンは助かった」

「まだよ! あなたと私が無事じゃないと、シトリンさんは気が気じゃないはず」

「確かに、それはそうだ」


 ふっと笑うと、セブリアンはひょいと手すりを跨ぐ。


「こんなところに長居は無用。あの恐ろしい顔をした王太子さんのとこへ、戻るとするか」


 それはファビオラにとって、笑えない冗談だった。

 何往復もしているが、セブリアンはまるで疲れをみせない。

 あっという間に地上に下ろされ、ファビオラはホッと気が抜けた。


「ありがとうございました」


 抱き合っているシトリンとセブリアンへ、ファビオラは頭を下げる。


「セブリアン卿のおかげで――」

「これはファビオラを助けた褒美だ」


 ファビオラが謝辞を述べている最中に、レオナルドが横入りしてきた。

 そしてセブリアンへ、つけていた銀色のタイピンを放り投げる。

 これで終わりだとばかりに背を向けると、レオナルドはファビオラの手を掴んで歩き出した。

 よろけながらもファビオラは抗議する。


「待ってください。まだ、ちゃんとお礼も言ってないのに――」

「見え透いた芝居に付き合うのも、ここまでだ。僕はもう、ファビオラの死に目に会うのは、懲り懲りなんだよ!」

「……誰かと、勘違いされてませんか?」


 ファビオラは死んでいない。

 こうして今も、生きている。

 19歳で死んでしまうのは、予知夢の中のファビオラだ。


「きっとこれも、神様の仕業だ。ファビオラの銀髪が美しいから、ラモナのように連れて行くつもりなんだ」


 レオナルドの顔色は悪く、言葉には険がある。


(ラモナ殿下と私を重ねているんだわ。どうしたら分かってもらえるかしら)


 ファビオラは必死にレオナルドを留める。


「王太子殿下、私を見てください。生きて、ここにいます。だから――」

「そうだ、生きている。だから今のうちに、神様から護らなくてはならないんだ。分かってくれるね、ファビオラ。これは決して、僕の我がままや暴挙ではないって」


 レオナルドの瞳には、暗い意志が宿っていた。

 ファビオラは直感する。


(監禁される! あの屋敷で!)


 ファビオラは、パッと後ろを振り返った。

 そこには、心配そうにこちらを見ているシトリンと、その肩を抱いて隣に寄り添うセブリアンがいる。

 助けて、と思わず叫びそうになって、ファビオラは唇を噛んだ。


(あの二人を、巻き込んではいけない。これは私が、抗わないといけない運命なんだから)


 ファビオラは、大丈夫と言うように、微笑んで見せた。

 そして王家の紋章がついた馬車へと乗せられ、騒動の渦中である外務大臣の屋敷を後にしたのだった。


 ◇◆◇◆


「王太子さんってのは、キレイな顔して、おっかねえんだな」


 肝が冷えた、とセブリアンが言う。

 シトリンはまだ、ファビオラが去った方角を見ていた。


「このタイピン、王家の紋章が入ってる。……これじゃ、売るに売れないな」


 転がったタイピンを拾い上げて、矯めつ眇めつしているセブリアンへ、シトリンの体がどっと倒れかかる。


「おっと、大丈夫か? 今頃になって、腰が抜けたか?」

「セブリアン……馬には乗れたよね?」


 シトリンの言葉は、震えていた。


「ああ、乗れる。だが、どうしたんだ、一体……?」

「分からない。でも……大変なことが起きているの。私、6年間も一緒にいて、ファビオラさんのあんな笑顔を見たのは、初めてなのよ……」


 ぎゅっと、セブリアンの服を握りしめ、シトリンは頼んだ。


「お願い! グラナド侯爵家へ、急いで行きたいの! ファビオラさんが王太子さまに連れて行かれたのを、ご家族に知らせないといけない気がする!」

「お安い御用だ。このタイピンを渡せば、厩舎で一番いい馬を貸してくれるだろうよ」


 セブリアンにとって、レオナルドのタイピンは、その程度の価値しかない。

 むしろシトリンの願いがそれで叶うなら、なによりだ。


 ――このシトリンの機転によって、ファビオラに訪れた危機は、いち早くグラナド侯爵家へと伝えられたのだった。


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