「その、私の案なのだが……ファビオラ嬢が王太子と婚約しなくていいように……先んじて婚約をしてしまうのはどうだろうか」
「それも考えたのですが、王太子殿下ほどの身分の方に横やりを入れられたら、結局はどんな婚約も解消せざるを得なくなるのです」
「婚約する相手が、王太子と同等以上の地位にあれば、邪魔はされない。私は……まだ第二皇子だが、なるべく早く皇太子になるつもりがある」
「っ……!」
その台詞に息を飲んだファビオラに、慌ててヨアヒムが付け加える。
「ずっとじゃなくていい。ファビオラ嬢も、20歳になるまでと言っていただろう? それまでの間、私との婚約を口実にしたらどうかと――」
「いいところでヘタれたわ!」
見守っていたウルスラが、両手で顔を覆い、がっかりした声を出す。
「押しが弱いところは……ロルフ似ね」
脳内でファンファーレが鳴り響いていたファビオラだったが、得心する。
ヨアヒムの発言を引き出そうとして、ウルスラはわざと粗の残る案を提示したのだ。
(恐ろしい策士だわ)
ヨアヒムから婚約の話が持ち出され、舞い上がっていたファビオラだったが、ウルスラのおかげで少し冷静さを取り戻した。
この案には難点があるのだ。
ファビオラはそれをヨアヒムへ説く。
「ありがたい申し出ですが……ヨアヒムさまには、意中の方はいらっしゃらないのでしょうか? または今後、婚約者に据えたいと思う方は? もしいらっしゃるのなら、私が一時でもその座に収まるのはよくありません。きっと先方は、気を悪くされるでしょうから」
ファビオラが辞退の構えを見せたので、ウルスラの口角が持ち上がる。
それは美味しい餌にすぐには飛びつかない、賢い者を褒める笑みだった。
さて、そんな堅牢なファビオラをヨアヒムがどう説得するのか、ウルスラは高みの見物を決める。
だがお互いの本音と建て前の間で、逼迫している二人はそれに気づかない。
「……意中の人は、いるにはいるのだが……」
ボソリと呟かれたヨアヒムの小さな声に、ファビオラの胸がぎゅっと絞られる。
ヨアヒムは19歳だ。
その齢までに、誰との出会いもなかったとは思えない。
耳の奥がキーンとして、視界には靄がかかる。
だがそのショックを、ファビオラは隠し通した。
「ファビオラ嬢が婚約者になったとしても、彼女は何も言わないと思う」
ヨアヒムの言葉がすんなりと飲み込めない。
それはどういう意味だろう。
あり得ないとは思うが、ヨアヒムがその女性から相手にされていないのか。
「なんにせよ、これは仮初の婚約で、ファビオラ嬢が20歳になれば解消する。私が正式に婚約を申し込むのはそれ以降になるから、安心して欲しい」
ヨアヒムが心から想う相手には、ファビオラとの婚約が本物ではなかったと、説明するつもりなのだろう。
それで許してくれるような、寛容な令嬢なのだと想像する。
ちりちりと焦げる心を無視して、ファビオラの冷静な部分が思考を始めた。
(私が真っ先に思いついた案を、ヨアヒムさまも検討してくれた)
これが最も、ファビオラを強固に護れる策ではあるのだ。
カーサス王国の王太子に対抗できる人物は、どうしても限られてしまう。
しかし、ヨアヒムになんのメリットもなくて、ファビオラは早々に諦めていた。
(それなのに、ヨアヒムさま側から提案してくれた。本当に……優しい人なんだわ)
一切の感情を排するのは難しい。
ときめいたり萎れたり忙しい心へ、ファビオラは檄を飛ばした。
与えられてばかりではいけない。
「私からは、どのような対価を支払えばよろしいでしょうか?」
ヨアヒムの婚約者の座を借りて、ファビオラの身の安全を確保するのだ。
何かしらの代償を求められて当然だ。
毅然としたファビオラの発言に、ヨアヒムは目を瞬かせ、ウルスラはこらえきれず笑い出した。
「これはヨアヒムがいけないわ。ファビオラさんがすっかり、算盤をはじく商人の顔になっているじゃないの」
今度はファビオラがきょとんとした顔になる。
「契約ごとを締結するにあたっては、公平な条件になるよう、両方の利を擦り合わせるのが――」
商科で学んだ原則を口にするファビオラへ、ウルスラが何度も頷いて理解を示す。
「ファビオラさんはきっと、商科での学業成績もいいのね。……ヨアヒムはもっと勉強しなさい」
声には出ていなかったが、「女心を」と付け加えられた気がして、ヨアヒムは意気消沈する。
その埋め合わせをするように、ウルスラが口を挟んだ。
「ヨアヒムの婚約者になれば、皇子妃教育の名のもと堂々と皇城へと通えるし、侍女とは別の角度からヘルグレーン帝国の中枢を窺い知れるわ。そうね……ファビオラさんはそこで掴んだ情報を、私たちにも共有してもらえる?」
ウルスラやヨアヒムが探れない第一皇子派の状況を、ファビオラが提供する。
それならば両方に利がある。
「対価に値するだけの情報を集められるよう、善処します」
「危険なことはしなくていい」
真剣な顔で頷くファビオラを、ヨアヒムが止める。
「ファビオラ嬢が思っているよりも、両家の対立は激しい。あまり深く首を突っ込むのは――」
「エルゲラ辺境伯領を護るためです。国境に接するあの町の平和が、私の願いなのです」
あの町、とファビオラが強調したことで、ヨアヒムも気づく。
もし、ヘルグレーン帝国がカーサス王国に攻め込むならば、あの町ほど適した土地はない。
ヨアヒムとファビオラとアダンが、『朱金の少年少女探偵団』になりきって遊んだ、穏やかな時間が流れる自然豊かな町。
兵士の数は少なく、のんびりとした領民と牛ばかりで、さらには大きな街道が両国を繋ぐ。
しかし、そんな町だからこそヨアヒムは襲撃され、ファビオラとアダンは巻き込まれた。
ヨアヒムの麗しい眉間に、皺が寄る。
(国境に接するあの町と言っただけで、ヨアヒムさまに通じた。やはり、オーズ役の男の子の正体は――)
ウルスラの髪色を見たときから、そうではないかと疑っていた。
ファビオラはいよいよ確信する。
そこへ熟考していたヨアヒムが口を開いた。
「ファビオラ嬢、私が今まで婚約者を決めなかったのは、その立場が危険だからだ」
「分かっています」
「だから……この鍵を貴女へ渡す」
「ヨアヒム、それは……!」
ウルスラが止めようとしたが、ヨアヒムの決意は固い。
ファビオラの手に、鈍く光る鍵を握らせた。
「この鍵で、皇城内にある全ての隠し通路の扉が開く。その身に危険が迫ったときは、これを使って逃げて欲しい」
「隠し通路……」
「あいにく地図がないから、ひとつひとつ場所を教える」
「それって、私が知っては駄目なのでは……?」
ファビオラはウルスラを見る。
だが、そこには諦念した顔しかない。
ため息をつきながらウルスラが説明する。
「……その鍵は、王族一人につき一本しか製造されていない、特殊な鍵なの。つまり、ファビオラさんにそれを渡したヨアヒムは、何かあっても隠し通路には逃げられない」
「っ……!」
ファビオラは慌てて鍵を返そうとする。
だが、ヨアヒムは首を横に振った。
「その鍵を持つことが、私からの条件だ。母上の専属の侍女になるにしろ、私の婚約者になるにしろ、皇城を歩くだけで危険がつきまとう。ファビオラ嬢の身を護るには、これくらいではまだ足りないが――」
「待ってください!」
シャミみたいだと、ワクワクしていた自分をファビオラは叱る。
そのせいでヨアヒムに、とんでもない決断をさせてしまった。
「これは私の意思でしていること、つまり責任の所在も私です。ヨアヒムさまが負うべきことでは……」
「それを言うならば、この行動も私の意思だ」
ヨアヒムに強く言い切られて、ファビオラは二の句が継げない。
「ファビオラ嬢に何かあっては、我が身以上につらい」
襲い来る矢からファビオラとアダンを護ろうと、覆いかぶさってきた男の子の姿が脳裏を過る。
(ヨアヒムさまが自分の身を盾にするのは、昔からだったわ)
どちらの立場が上だとか、関係ないのだ。
ヨアヒムは誰かが傷つくのが、心底嫌なのだろう。
(誰にでも優しい。それがヨアヒムさまなのね)
そんな人が愛する女性をどれだけ大切にするか、考えなくても分かってしまう。
うらやましい、と思ってしまったファビオラは、自分の卑しさを恥じた。
「ファビオラさん、ここはヨアヒムの想いを、受け取ってもらえないかしら。隠し通路が使えるならば、より偵察は楽になるわ。ヨアヒムの婚約者として皇城へ上がり、侍女に扮して情報の収集をする。一人二役の活躍だって出来るでしょう」
ウルスラの意見はもっともだ。
ファビオラは鍵を握りしめると、頭を下げた。
「私が20歳を迎えるまで、どうぞよろしくお願いします」
「決まりね。詳細はあとで詰めるとして、まずは祝いましょう」
ウルスラの合図で配られた酒杯を掲げ、有志の結成を慶んだ。
しかし、あまり酒に慣れていないファビオラが、度数の高いヘルグレーン帝国の酒を一口飲んで目を回してしまったために、晩餐はすぐにお開きとなる。
ファビオラを横抱きにしたヨアヒムが、真っ青な顔をして医務室へ駆け込む姿が、次の日の皇城内で噂になったのは言うまでもなかった。