「っ……! ファビオラ、いきなり何を……!」
ヨアヒムが両手で、自分の目を覆う。
「ヨアヒムさまにも、ありますよね? 私たちの矢傷は、お揃いだから」
ファビオラが、ガウンをはだけたのではないと分かり、ヨアヒムはそろりと顔を出す。
襟が下げられているが、見えているのは鎖骨の下まで。
そして白い肌の上には、星型に盛り上がった古傷があった。
「それは……もしかして、あの日の?」
「見せてください。ヨアヒムさまも、右肩を」
ヨアヒムはファビオラの意図を察して、ばさり、とガウンを肩から落とす。
そこには、ファビオラの傷よりも大きな、いびつな引き攣れがあった。
おそるおそる、ファビオラは手を伸ばし、少しだけ色の違う皮膚をなでる。
「痛かったですよね。それなのに、ヨアヒムさまは歯を食いしばって、声を上げるのを耐えていた。あんなに小さいときから、ヨアヒムさまは強かったんですね」
「格好悪いところを、見せたくなかっただけだよ。好きな女の子の前では、どんな男の子だって、やせ我慢をするものだ」
ヨアヒムも手を伸ばすと、ファビオラが見せている矢傷に、優しく指を這わせる。
凸凹とした表面が、その傷の深さを表していた。
「ファビオラこそ、怖かっただろう。なんの関係もないのに、いきなり襲撃されたんだ。あの日、ここから真っ赤な血が流れて、今なお、こうして傷跡が残っている。……本当に、ごめん」
すり、と傷を擦られ、くすぐったさにファビオラが身動きをした。
するとヨアヒムは顔を近づけて、星形の古傷にそっと口づけを落とす。
その神聖さは、騎士の誓いのようだった。
「もう二度と、こんな目には合わせない」
「ヨアヒムさまも、傷つかないでください」
ファビオラも真似をして、ヨアヒムの右肩へ唇を寄せた。
お互いの言葉が、お互いの守護となればいい。
嬉しそうに微笑むヨアヒムの耳が赤いが、ファビオラだって同じだ。
「ヨアヒムさまとお揃いだと思うと、この傷を嫌いにはなれないんです。私たちを繋ぐ、絆みたいだから」
ファビオラはヨアヒムへ伝えたかった。
あるのは負の感情ばかりではない。
こつり、とヨアヒムが額を突き合わせてきた。
「ファビオラは優しい。傷がついたのは私のせいだ、と罵ってもいいのに」
「傷がついたから責任を取ってください、とヨアヒムさまに迫ればいいんですか?」
ヨアヒムが重く感じないよう、ファビオラはわざと取り澄まして答える。
すると、演技がかったファビオラの言い回しに、ヨアヒムが噴き出した。
「降参するよ。今のは、誰を真似したの? 私の可愛いシャミに戻って」
抱き締めるなり、ちょん、と鼻の頭に口づける。
パッと頬を染めたファビオラは、そういう可能性もあったと反論する。
「ヨアヒムさまは、皇太子なんですからね。その隣に立ちたいと願う令嬢に、強請られるかもしれないでしょう? そうしたら、責任感とか義務感とかで、ヨアヒムさまは……」
「そういう令嬢には、謝罪をして、賠償金を払って――それで終わりだ」
あまりにも割り切った答えだったので、ファビオラは意外に感じた。
そして、ハッと気がつく。
「もしかして、すでにそういう場面があったんですか?」
苦笑しているのは肯定したも同然だ。
しかもどうやら、一件や二件ではなさそうだ。
「怪我をさせた訳ではないけれど、私と一緒にいたせいで、怖い思いをした令嬢はたくさんいる。ディンケラ公爵令嬢も、その一人だよ。だが、彼女たちを特別扱いはしない」
さらり、とファビオラの銀髪に指を通し、その感触をヨアヒムは堪能する。
「私が隣に立って欲しいと希う相手は、ファビオラしかいないから」
「な、なんだか、ずるいです」
ファビオラは、ためらわずに愛を囁くヨアヒムに、圧されてばかりだ。
二人の恋愛偏差値は、ほぼ同じだったはずだが、どうやらバートがヘルグレーン帝国を去る前に、ヨアヒムへ教育的指導をしていったらしい。
知識欲の塊みたいなヨアヒムは、バートの教えを瞬く間に吸収したようだ。
最後の最後まで、バートはヨアヒムの救世主だった。
(バートさん、今頃はガレール先生のもとで、頑張っているのでしょうね)
ヨアヒムが皇太子になると、その日のうちに、バートはガレールに弟子入りした。
それ以来、ヨアヒムはよく後ろを振り返っては、眉尻を下げている。
これまでバートに預けていた背中が、肌寒いのだそうだ。
だからファビオラは腕を回し、ヨアヒムを温める。
ヨアヒムはそのぬくもりを甘受した。
「ファビオラを幸せにする」
「それじゃあ、ヨアヒムさまを幸せにするのは、私の役目ですね」
二人は視線を合わせ、それから唇を合わせた。
初めての夜、ファビオラとヨアヒムの矢傷が重なる。
◇◆◇◆
結婚してから数年後、ファビオラは長男ユリウスを授かる。
ユリウスの出産と同時に、元侍女だったモニカを、乳母として雇用した。
博識家なモニカの夫には、ユリウスの家庭教師の一人になってもらうつもりだ。
「私のわがままで呼び寄せてしまって、ごめんなさい」
「いいんですよ、お嬢様……いえ、皇太子妃殿下。私も夫も、これ以上ない名誉だと思っています」
二児の母であるモニカに助けられ、ファビオラとヨアヒムは初めての育児に奮闘する。
赤ちゃんのユリウスが、夜中になかなか寝てくれなくて疲労困憊したのも、二人の思い出となった。
それからさらに数年後、ユリウスがモニカの夫から文字を学ぶようになった頃、ファビオラは長女シルヴィアを授かる。
シトリンがセブリアンと共に行商に来たり、ルビーが支店長になった元孤児たちを連れて来たり、結婚したアダンが妻と一緒に遊びに来たり。
ヘルグレーン帝国に嫁いだファビオラの周りは、いつも歓びがあふれてにぎやかだった。
そんな中でも、最もファビオラを驚愕させた出来事は――。
「ポーリーナさま、おめでとうございます!」
ミルクキャンディ事業を通じて、エルゲラ辺境伯領とオーバリ子爵領を行き来していたポーリーナが、なんと獣医見習いのバートと婚約したというのだ。
マティアスのせいで、ポーリーナはすっかり男嫌いになっていた。
それがどうしたことか、牛と真摯に向き合うバートに惚れてしまったのだ。
「やっと、バートさんが頷いてくれたんです。もう嬉しくて嬉しくて……」
ポーリーナは隙あらば、嬉し涙を流している。
もちろん目尻にあてるハンカチには、ほっぺの赤い女の子が刺繍されていた。
暗殺者の過去を持つバートは、かなり頑なに固辞したようだが、ポーリーナが諦めなかったのだろう。
こっそりとウルスラがバートに爵位を与え、ポーリーナの夫として相応しい身分も用意した。
「さすが、お義母さま……抜かりがないわ」
「元雇用主から褒美だと言われれば、バートも断りづらいからな」
エルゲラ辺境伯領で催されたバートとポーリーナの結婚式には、お忍びでファビオラとヨアヒムも参加した。
こうして、ヘルグレーン帝国での幸せな日々に、満たされていたファビオラだったが――。
「憂い顔だな。どうした?」
ユリウスとシルヴィアが寝静まると、そこからはヨアヒムとの夫婦の時間が始まる。
表には出していないつもりだったが、ファビオラのわずかな変化を見逃すヨアヒムではない。
長椅子に座るファビオラの隣に腰かけ、温かいミルクを手渡した。
お酒に弱いファビオラにとって、これが毎夜の寝酒代わりだ。
適温のそれを口に含み、ほっと一息つくと、心の内を打ち明ける。
「今日、『朱金の少年少女探偵団』シリーズの新刊が出たでしょう? だからそれを寝る前に、子どもたちに読み聞かせたのだけど……最終巻だったの」
「……オーズとシャミは、結婚した?」
バッと、ファビオラはヨアヒムを振り仰ぐ。
どうして知っているの? と、口がぱくぱく動いた。
先ほどまで仕事が差し迫っていたヨアヒムは、まだ読んでいないはずだ。
「以前、ファビオラにサイン本を贈っただろう? 添えてあったメッセージを覚えてる?」
「忘れないわ。『オーズからシャミへ、愛を込めて』って……」
「それを、ヤン・ヘンドリックス先生に書いてもらったとき、言われたんだ」
『そんな未来もいいね。最終巻で、二人を結婚させよう!』
「最終巻が出るまで、誰にも内緒だよと約束させられたから、ファビオラにも黙っていた。長らく隠し事をしていた夫を、叱っていいよ」
そう言って、ヨアヒムは頭を差し出す。
ふふ、と笑ったファビオラは、金髪をよしよしと撫でた。
許されたヨアヒムは、そのままファビオラの胸へと頭を預ける。
甘えん坊の夫を、ファビオラは愛しげに抱き締めた。
そして、憂い顔だった理由を話す。
「大好きだったシリーズが完結してしまって、胸にポッカリと穴が開いたみたいなの」
ヨアヒムが、ちゅっ、とファビオラの胸元へ口づける。
そこにある矢傷ごと、慰めようとしているのだろう。
「小さい頃から、ずっと追いかけてきたシリーズだったから、お別れするのが寂しいわ。ヤン・ヘンドリックス先生は、作家を辞めてしまうのかしら」
「カーサス王国で会ったときは、お元気そうだったけれど、あれから年月も経った。先生なりに考えた上での、最終巻だったのかもしれないね」
「それなら……オーズやシャミたちの大団円を、読者として喜ぶべきね」
無理やり笑おうとするファビオラの頬を、ヨアヒムが両手で包み込む。
ファビオラの幸せをつくる役目を、他人任せにするヨアヒムではない。
「ファビオラには、話したことがあっただろうか? 少年時代の私の夢について」
皇帝を目指す前、ヨアヒムには憧れていた職業があった。
本を読むのが大好きだったヨアヒムが、自然と心に抱いた夢だ。
「今なら叶えても、許されるんじゃないかと思う」
「ヨアヒムさまの夢って、何だったの?」
にっこりと笑ったヨアヒムが、ファビオラのために考えた物語を書き上げるのは、それから数か月後のことだった。
ファビオラにそっくりな銀髪の女の子が、カーサス王国にしか咲かない銀色の花の精と一緒に、不思議な世界へと冒険の旅に出る物語は、ユリウスとシルヴィアにも好評だった。
ファビオラも含めた三人に強請られたヨアヒムは、それから何十年にも渡って、皇帝の仕事の合間を縫って続きを書いたという。