大型船がエルゲラ辺境伯領に到着する。
そこにはリノとアルフィナが、ファビオラを歓待しようと待ち構えていた。
行きがけは、密命をおびた騎士たちのせいで、二人には会うことも許されず、素通りしてしまったので喜びもひとしおだ。
「長旅で疲れただろう。ゆっくりしていってくれ」
「ファビオラちゃん、待っていたのよ」
「叔父さま、叔母さま、お世話になります」
抱擁を交わしたあと、ヨアヒムたちも一緒に屋敷へと向かった。
道中ご機嫌なバートから、エルゲラ辺境伯領が発祥のミルク煮が、大好物になったと教えてもらう。
それを聞いたファビオラは、バートの再就職先として、この地は最適かもしれないと期待した。
「たくさん食べてちょうだいね!」
アルフィナの掛け声で晩餐会が始まる。
食堂には次々と大皿料理が運び込まれ、地元の名士たちが多く招待されていた。
エルゲラ辺境伯領ならではの気質か、堅苦しいところのない宴は盛り上がる。
山のように給仕されるミルク煮に感動しているバートを横目に、ファビオラは目的の人物を探した。
そして、少し離れたテーブルに、記憶の中よりも皺が増えた、太い黒ぶち眼鏡をかけた男性を見つける。
「ガレール先生、お久しぶりです」
「やあ、ファビオラちゃん。元気にしていたかい?」
生茂った草色の髪、穏やかな茶色の瞳、のんびりとしたしゃべり方も、昔のままだった。
ファビオラは隣に座ると、ガレールの近況を尋ねる。
「先生も、お変わりないようで安心しました。お仕事はまだ、継続されているんですよね?」
「ああ、老体に鞭打って、頑張っているよ。ただ、最近は老眼が進んでね、小さい字を読むのがつらいんだ。早く教え子を見つけて、代わりに診療簿を記入してもらいたいものだ」
「本人の意向は確認していないんですけど……先生に見極めてもらいたい人がいるんです」
ガレールが、おや、という顔をした。
続いて、面白いね、と口角を持ち上げる。
「新たな挑戦者という訳かい?」
「私やアダンとは、別格ですよ」
「ふふ、自信があるようだね。いいよ、どこにいるのかな?」
ファビオラはガレールと一緒に、元いたテーブルを目指す。
そして、バートの後ろ姿を指さした。
「彼です。私はこれほどの逸材は、他にいないと思います」
真剣なファビオラの表情に、ガレールも気持ちを引き締める。
それから、ミルク煮を頬張っているバートに、じっと視線を注いだ。
きっとバートは、見られているのを察知している。
だが、そこに殺意といった物騒なものが含まれていないから、こちらを振り返りもしないのだ。
「自然体だね。後ろへ注意を払っているのに、それをこちらに気づかせない」
ふむ、とガレールは腕組をし、もっと熱心にバートを観察しだした。
ファビオラやアダンも、ガレールに気配の消し方を教わったが、とても身につかなかった。
バートはそれをすでに、完璧といえるレベルで習得している。
「彼は気配を、自在に操れるのか。しかし、それだけでは駄目だ」
ガレールはテーブルの上からティースプーンを取り、ひゅっとバートへ投げつけた。
これを突破できれば、道のりが開ける。
飛んでいった先のバートを、ファビオラは祈るように見つめた。
それまで夢中でミルク煮を堪能していたバートが、すっと頭を横に動かすと共に、振り返りもせず片手でスプーンをキャッチした。
ファビオラはパッと顔を輝かせ、合格ですよね? とガレールを振り仰ぐ。
「へえ、動きが最小限で、しかも静かだ。ファビオラちゃんが、推すだけはあるね」
「俺に何か用ですか?」
スプーンを持ったまま、こちらを見たバートが首を傾げる。
笑顔のガレールは、単刀直入に勧誘した。
「君、牛の獣医を目指さないか?」
◇◆◇◆
夜も更けて、晩餐会も終わった。
バートはあれからガレールに、素質の高さを絶賛されていた。
どれだけ知識があっても、牛に警戒心を抱かせる者は獣医になれない。
そこがまずは、第一関門なのだ、と説かれていた。
それに対するバートの反応は、存外悪くないように思えた。
ファビオラとヨアヒムも、ここぞと力を合わせる。
用意された客間への道すがら、聞こえよがしに、バートの適性について意見を交わした。
「大きな体をしていますが、牛はとても繊細なんです。熟睡していると思っても、小さな物音で目を覚ましてしまうんですよ」
「バートなら、足音も立てずに歩ける」
「それに、人間の感情にも敏感なんです。敵意を感じたら、群れのリーダーが黙っていません」
「バートなら、心の動きを生命反応ごと消せる」
「興奮して暴れる牛を、相手にすることもあります。そういう場合は、うまく攻撃を避けなくちゃ駄目なんです」
「バートなら、かすり傷すら負わないだろう」
「どうしても病気やケガから助けられない牛は、痛みを長引かせないよう天に旅立たせてあげます。こちらが躊躇ってしまうと、牛が怯えて失敗するんです」
「バートなら、安らかな眠りを与えてやれそうだ」
ファビオラとヨアヒムのあからさまな扇動に、ふはっとバートが声を上げて笑う。
「まさか俺の暗殺術が、牛のために役立つとは、思ってもみませんでしたよ」
「暗殺術と言うから、まるで悪いことのように、感じるのではないでしょうか?」
ふわりと微笑むファビオラが、一歩バートに踏み込んだ。
「バートさんはその技術でもって、ヨアヒムさまの命を護り切ったんです。私に言わせれば、それは立派な生存術ですわ」
ヨアヒムも、その言葉に同意して頷く。
「これからは牛を救うために、バートの持つ技術を使えば、また別の名で呼ばれるだろう。そうすれば胸を張って、職業は獣医だと言える。バートが負い目を感じて、日陰にいる必要はないんだ」
「ヨアヒムさま……俺は」
何人もの暗殺者を返り討ちにしてきたのに、今さら一般人の顔をしていいのか。
黙り込んでしまったのは、そんな自問自答をしているからだろう。
「私が皇太子になるまで、まだ時間はある。将来の選択肢のひとつとして、考えてくれると嬉しい」
「……分かりました。ファビオラ嬢も、ありがとうございます。ヨアヒムさまの相談に、乗ってくれたんでしょう?」
「私に心当たりがあったのは確かですが、ガレール先生がここまで惚れ込んだのは、バートさんの積み重ねてきた努力の結果です。どうかそれを、忘れないでくださいね」
ファビオラの言葉が面はゆいのか、バートが片手で口元を隠す。
以前は、ピリピリとした雰囲気で、無表情なことが多かったバートだが、最近は笑顔も増えて、めっきり表情が豊かになった。
それをヨアヒムは、とても喜ばしく思う。
長らく殺伐とした日々の中に、ヨアヒムとバートは身を置いていた。
それが、ようやく終わり、二人は変わろうとしている。
ヨアヒムは隣を歩くファビオラを見た。
(ファビオラ嬢と一緒に、幸せになりたい。そのために、誰にも傷つけられないよう、強くなった)
その強さで、これからはファビオラを護る。
そしてファビオラと二人で、ヘルグレーン帝国やカーサス王国を護る。
(お義父さんが言っていた。国を護れずして、家族は護れないと。私もそれには同意だ)
国の乱れは、人々の心の乱れを呼び起こす。
その影響を最初に受けるのは、力の弱い者たちだ。
(孤児院育ちのオーズたちが、伸び伸びと活躍する『朱金の少年少女探偵団』は、私の目指す未来のひとつだ。誰一人、取りこぼさない心構えで、私は皇帝の座に就く)
ファビオラの笑顔が、そんなヨアヒムの原動力だ。
少年時代、胸に焼き付けた輝きは、今もなおヨアヒムの心臓を鷲掴みにする。
あまりに愛おしくてファビオラを抱き寄せたら、ヨアヒムの腕の中で体を硬直させてしまった。
「そんなところも、可愛い」
「ヨ、ヨアヒムさま、心の準備が……!」
恋人になった途端、距離感がおかしくなったヨアヒムと、そんなヨアヒムに翻弄されるファビオラ。
後ろを歩いていたバートが、仲の良い二人をからかうまでが最近の流れだ。
こうしてエルゲラ辺境伯領での夜は、優しく更けていった。
◇◆◇◆
同じころ、カーサス王国の王城にある北の塔では――レオナルドが静かに自問自答していた。
「……どこで間違えてしまったんだ?」
窓から庭園を見下ろしながら、ぶつぶつと呟く。
濁ったピンク色の瞳は、『運命の分かれ道』のそばの、ベンチを凝視している。
「あの場所で、ファビオラに愛を囁くのは、僕のはずだった。それなのに……」
ファビオラの手を取って、そこに口づけを落としたのは、ヘルグレーン帝国の皇太子ヨアヒムだった。
最後まで、レオナルドに対してファビオラの婚約者面を崩さなかった、忌々しい男――。
「今回、グラナド侯爵家は横領の罪を犯していない。時間をかけて外堀を埋めていけば、ファビオラを婚約者にできる可能性も残されていた」
それなのに焦って、あの屋敷に監禁したのが悪かったのか。
ヨアヒムもレオナルドへ言っていた。
原因を取り除かなければ、いつまでもファビオラが危険なままだと。
「僕がしなくてはいけなかったのは、一度目の人生でファビオラの命を奪ったエバを、この世から消し去ることだったんじゃないのか?」
そうだ、そうに違いない。
二度目の人生でも、エバは王城内で刃物を振りかざし、ファビオラを傷つけようとした。
「もっと早くに、僕が手を打てばよかったんだ。まだ影も使役できたから、なにかしらの方法はあったはずだ」
もう一度、やり直したい。
「僕はその力を、すでに使ってしまった。でも……次に王太子の指名を受けた人物が、神様の恩恵の力を使えば、再び時は戻る」
その好機を掴むしかない。
「どうせ僕はまた、ファビオラに惹かれる。ラモナが死なない未来がきても、兄妹では結婚できないのだから」
美しい銀髪がたなびく姿を、脳裏に思い浮かべる。
レオナルドの心は、ファビオラに魅了されて止まない。
――次こそ必ず、手に入れる。
「エバを殺さないと……真っ先に……僕の手で……」
時が戻っても忘れないように、レオナルドは何度も繰り返し、その言葉を魂へと刻み付けた。