「こ、これは……! まさか……」
表紙をめくった見返しの部分に、『ヤン・ヘンドリックス』と大きくサインがしてあった。
それは『朱金の少年少女探偵団』シリーズの、著者名だ。
「直筆サイン本! なんて貴重な……!」
ファビオラが感動に打ち震えていると、添えて書かれたメッセージが目に入った。
『オーズからシャミへ、愛を込めて』
通常はここに、ヨアヒムさんへ、とか、ファビオラさんへ、とか、宛名が入るのではないか。
妙にドキドキしながらそれを眺めていたら、ヨアヒムが驚きの事実を教えてくれる。
「王都の本屋さんに、ヤン・ヘンドリックス先生が来ていたんだ」
バートの食欲を満たすため、屋台巡りをしていた矢先、ヨアヒムは大きな書店を見つける。
長蛇の列が出来ていたので興味をもって並んでみると、なんとそれが『朱金の少年少女探偵団』シリーズ最新刊発売に合わせて開催されていた、サイン会だったのだそうだ。
「ファビオラ嬢を助けた、次の日だった。これは天命だと思って、先生にそれを書いてもらった」
照れながらヨアヒムが、メッセージを指さす。
ファビオラも再び本を見た。
(『オーズからシャミへ、愛を込めて』というのは、ヨアヒムさまが考えたの?)
やはりヨアヒムは、あの日の少女がファビオラだと気がついたのだ。
そして危惧した通り、怪我をさせた責任を取ろうとしている。
(こんな素晴らしい贈り物まで用意して……)
ヨアヒムの優しさが、今日ばかりはファビオラを傷つける。
じわりと、碧の瞳に涙がにじんだ。
(このメッセージが、ヨアヒムさまの本心だったら、どれほど良かったでしょう)
一緒に過ごした時間の分だけ、ファビオラの想いは積み重なり、仮初の婚約者になったときよりも、ずっとヨアヒムを好きになってしまった。
(あのときはどうして、簡単に別れられると思ったのかしら)
死と隣合わせで生きてきたヨアヒムには、絶対に幸せになってもらいたい。
だからこそ隣に立つのは、ファビオラでは駄目なのだ。
(これは、誰も幸せにならない道……断らなくてはいけない)
ヨアヒムには、恋人のソフィがいる。
つらくて、悲しくて、心が千切れるように痛いけど、二人を祝福するとファビオラは誓った。
(さあ、笑顔を浮かべるのよ!)
そう決意を固めたところで、ヨアヒムが確定的な言葉を放つ。
「仮初ではなく、これからもずっと、ファビオラ嬢のそばにいる権利が欲しい。どうか私と、結婚してくれないか。シャミ役をしたファビオラ嬢が、私の初恋なんだ」
「お断りしま……っ、初恋!?」
ファビオラの決意は、ヨアヒムの最後の言葉で吹き飛んでしまった。
断られかけたヨアヒムは、内心ヒヤヒヤしながらも口説く。
「ファビオラ嬢とアダンと、日が暮れるまでごっこ遊びをしたあの日を、私は何度も回想したよ。無邪気なファビオラ嬢が可愛くて、笑顔をむけられると胸がドキドキして、あっという間に大好きになって――いつか、自分の身の回りが安全になったら、シャミ役の少女に会いに行こうと思っていた。だからファビオラ嬢が、オーズ役の私を探していると知ったとき、本当に嬉しかったんだ」
「ヨアヒムさまは、いつ私の正体に気づいたのですか?」
話ぶりからして、ここ最近ではなさそうだ。
「もしかしてと思ったのは、ファビオラ嬢がヘルグレーン帝国の商業組合に、初めて登録に来た日だ。よく似ているけれど髪の色が違うから、シャミであって欲しいという私の願望が、そう見せているのかもしれないと悩んだが……」
「そんなに昔から? でも当時は、まだ知り合いじゃなかったですよね?」
「叔父上からファビオラ嬢について頼まれている、と話したことがあっただろう?」
「それは……『七色の夢商会』の小火騒動のときでした」
「……頼まれたのは、もっと前だったんだ。だから離れたところから、ファビオラ嬢を覗き見した」
かあ、とファビオラの頬が赤く染まる。
(私、変なことをしなかったかしら?)
慌てて片手で顔を覆うが、恥ずかしがっているのは丸分かりだ。
そんなファビオラを見かねて、置き物のように静かだったバートが口をはさむ。
「ヨアヒムさま、それは淑女に打ち明けるには、少し変態じみて……いえ、刺激が強すぎるのでは?」
「そ、そうか? 言わない方がよかったか」
焦るヨアヒムから、今のは聞かなかったことにして欲しい、と頼まれる。
こくり、と湯気の上がる頭でファビオラは頷くと、話を元に戻した。
「婚約の契約期間も、残り数か月ですものね。私も……このまま別れるのは寂しいと、感じていました」
「っ……! それでは……!」
「お返事をする前に、確認させてください。私への求婚は、義務感や責任感でしている訳ではないんですよね?」
「違う。決してそうではない」
「それなら……ソフィさまとは、どういった関係なのですか?」
抱擁する二人の姿は、想いの通じ合った恋人同士にしか見えなかった。
今でもそれを思い出すと、ファビオラの心に影が落ちる。
跪いたままのヨアヒムは、短く息を吸うと、真摯に説明を始めた。
「ソフィは、いや、ディンケラ公爵令嬢は……妹みたいなものなんだ。あの日、たまたま執務室に来ていて、私の服のボタンに髪が絡まってしまった。だからあんな体勢になっていたが、日頃から距離が近い訳ではないし、何ら特別な感情を抱いてもいない。誤解をさせてしまって、本当に申し訳なかった」
「では、ヨアヒムさまの意中の人というのは?」
仮初の婚約をする前に、ヨアヒムはこう言った。
『……意中の人は、いるにはいるのだが……』
『ファビオラ嬢が婚約者になったとしても、彼女は何も言わないと思う』
すでにヨアヒムの心には別の誰かが住んでいると知って、ファビオラは失意の底に沈んだものだ。
「私の言い方が悪かっただろうか? 私の意中の人も婚約者になるのも、どちらもファビオラ嬢だから大丈夫だとばかり……」
なんという言葉のすれ違いだろう。
ヨアヒムの後ろでは、バートも呆れている。
「あ~あ、慕う相手に『意中の人がいる』なんて言われちゃ、失恋したと思うに決まってるでしょう? そういう機微を学ぶために、恋物語を読んだんじゃなかったんですか?」
ゆえに、とても辛口だ。
そしてその頃から、ファビオラがヨアヒムに好意を寄せていたと、バートには見抜かれている。
赤面するファビオラに、ヨアヒムが恐る恐る尋ねた。
「今の私の気持ちは、正しく伝わっているだろうか?」
言葉足らずですまない、としきりにヨアヒムは謝る。
ファビオラは本の見開きに目を落とした。
『オーズからシャミへ、愛を込めて』
これが全てではないのか。
ヨアヒムからファビオラへ、贈られた一言。
『愛』という言葉が、今のヨアヒムの気持ちなのだ。
体の底から、歓喜が沸き上がる。
ファビオラの心の中で、ずっと泣いていた少女が、花が咲いたように笑った。
「お受けします。私もずっと、ヨアヒムさまの隣にいたいから」
その答えに、ヨアヒムがふわりと顔をほころばせる。
ゆっくり立ち上がり、ファビオラの手を取ると、そこへ柔らかい口づけを落とした。
ヨアヒムの唇があたっている場所だけが、火傷をしたようにジンジンと熱い。
「ありがとう、ファビオラ嬢。どうかこれからも、末永くよろしく」
「こ、こちらこそ」
甘い触れ合いに不慣れなファビオラは、口ごもってしまう。
仮初の婚約者だった間は、こんな扱いをされたことがなかった。
ちゃんと線引きをして接してくれていたヨアヒムの豹変に、胸の動悸が止まらない。
ヨアヒムもファビオラをうっとりと見つめ、頬を染めている。
気持ちが結ばれたばかりの二人が、自分たちの世界に没入していると、バートがとんでもない発言をしてきた。
「『運命の分かれ道』って、このベンチ前でよく告白する人がいるから、そういう名前になったらしいんですよ。悲喜こもごもの名場面が見られるから、この王城の観光スポットにもなってて――つまり今も、たくさんの人が覗いているんで、よかったらそろそろ移動しませんか?」
「っ……!?」
「バート、そういうのは、いち早く教えてくれ」
初心な二人は真っ赤になり、手を繋いだまま噴水前を後にした。
ゆっくりとそれについて行きながら、バートは心の中で独り言つ。
(グラナド侯爵まで執務室から見ていたのは予想外だったけど……どうしても俺は、二人の仲睦まじい様子を見せつけておきたい相手がいたんですよね)
くるっと振り返ったバートの視線の先には、高くそびえ立つ塔があった。
(あそこまで声は届かなくても、何が起きていたかは動作で伝わったでしょ。男女の痴情のもつれっていうのは、きちんと相手の心を折っておかないと、変に拗らせて絡まれでもしたら面倒なんでね……)
幽閉された者が唯一、外界と繋がれるのが、この庭園を見下ろせる窓だった。
果たしてレオナルドは今、その窓辺にいるだろうか――バートの隼のような黒目は、うっすらと人影を捉えている。
(これで諦めてくれると、こっちとしては助かるんですけどね。でも粘着質そうだったからなあ……無理かもしれないなあ)
頭の後ろで手を組み、バートはまた前を向いて歩き出した。