「ウルスラ、迎えに来ましたよ。さあ、私と一緒に逃げましょう」
中央の広場に意識を向けていたウルスラは、背後から口を塞がれた。
とっさに肘を打ち込むが、オラシオに躱されてしまう。
「あまり暴れないで。人々の関心が一騎打ちに集まっている今が、好機なのです」
「っ……!」
女性の中では背が高いウルスラも、男性の手にかかれば、あっさりと自由を奪われる。
必死にもがくが、オラシオの腕に抱きかかえられ、奥へ引きずられていった。
ウルスラの赤い瞳が、マティアスと戦っているだろうヨアヒムを探す。
愛息子の勝利を見届けることも叶わず、このまま攫われてしまうのか。
悔しい、と奥歯を食いしばったとき――。
「ウルスラを放せ!」
野太い声と同時に、どん、と衝撃を受ける。
誰かが突っ込んできて、ウルスラごとオラシオを横倒しにした。
「皇帝陛下! 下がってください!」
「相手は武器を持っているかもしれません! 御身が危険です!」
護衛騎士たちの警告が聞こえたのは、そのすぐ後だった。
だが、注意された当人のロルフは従わない。
「どこへ連れて行くつもりだ! ウルスラは儂の側妃だぞ!」
細身のオラシオに馬乗りになり、その体重をかけて押さえ込む。
護衛騎士たちは慌ててロルフを引きはがし、下敷きになっていたウルスラも助け出した。
直ちにオラシオは縄をかけられたが、舌鋒鋭くロルフを口撃する。
「私とウルスラは恋人同士だ。20年以上前から愛し合っている!」
「な、なんだって……!?」
初めて聞く話に、ロルフが目を白黒させた。
オラシオは嘲るように鼻を鳴らす。
「やっと今日、ウルスラと逃避行できるはずだった。お前は権力でもって、ウルスラを無理やり側妃にしたに過ぎない。私たちの仲を引き裂く、邪魔者だ!」
「そんな、馬鹿な……」
断言するオラシオに、狼狽えるロルフ。
護衛騎士たちも、あまりの修羅場に、押し黙ってしまった。
全員の視線が、それぞれの思いを込めて、ウルスラに向けられる。
ゆっくりと立ち上がったウルスラは、ドレスの皺をパンと伸ばし、腕組みをしてオラシオを見下ろした。
「茶番ね。頭がいいと、妄想を現実だと思い込めるの?」
ウルスラはオラシオを一刀両断する。
でもオラシオは、その程度ではめげない。
たくましい想像力でもって、それこそ20年以上かけて、ウルスラとの将来を夢見てきたのだ。
今ここで手を伸ばさずして、いつまたその機会がやってくるだろう。
熱のこもった金色の瞳は、妻のブロッサが願ってやまないものだ。
それをオラシオは惜しげもなく、ウルスラへと注ぐ。
「聡明なウルスラを理解できるのは、私だけだ。私とウルスラの間にある絆は、他の者には見えない。離れて過ごしていても、ずっとウルスラを想い続けてきた。そんな私の気持ちは、伝わっていただろう?」
「勝手に人の名前を、呼ばないでもらいたいわ」
その熱量は、ウルスラには必要ない。
ぴしゃりと冷たくオラシオを跳ね除けた。
二人が恋人同士ではないと理解して、あからさまにロルフは安堵する。
だが、それは少し早かった。
「ロルフもロルフよ。どうして言われたことを、鵜呑みにしているの。私がそんな人間だと、認めるのね?」
「ち、違う! 儂は決して……!」
ウルスラを助けた功労者のはずのロルフだが、叱られてたじたじと釈明を始める。
そんなロルフの姿は、護衛騎士たちにとって、見慣れた光景だった。
「言い訳はいらないわ。口を動かす暇があるなら、働きなさい」
「も、もちろんだ! 護衛騎士よ、不届き者を牢へ!」
ロルフの命令を受け、護衛騎士がオラシオを引っ立てた。
連行されるオラシオは、声の限り絶叫する。
「ウルスラ! 愛している! 君の気持ちは、ちゃんと私に届いている!」
「嘘だわ。私はずっと、会いたくないって思っていたもの」
ウルスラの呟きは小さくて、遠ざかるオラシオの耳には入らない。
それを聞き届けたのは、隣にいたロルフのみ。
ホッとしつつも、気になったことを口にしてしまう。
「……えらく美形だったな」
ロルフは醜男というほどではないが、顔に自信があるわけでもない。
そのせいで、オラシオの麗しい風貌について、つい言及してしまった。
「ほら! またそうやって、他人と自分を比べて勝手に落ち込む! その癖は駄目だと言っているでしょう!」
「だが女性にとっては、見た目も大事なのだろう? あんな色男に、愛していると言われて……」
少しも、心が揺れなかったのだろうか。
政略で結婚したウルスラとロルフの間に、通い合う心などはない。
それでもウルスラは後継者をもうけるという、側妃の役目を果たしてくれた。
日々の政務においては、当たり前のように補佐をして、ロルフに対して物怖じせず、はっきりと駄目出しをする。
それをどれだけありがたく思っているか、きっとウルスラは知らない。
(長子だからと、能力もないのに皇帝になった儂を、ウルスラは見捨てない。……もしも赤公爵家の令嬢でなかったら、心から愛した男性と結婚できただろうに)
そんな負い目が、ますますロルフを卑屈にさせる。
しかし、ウルスラはきっぱりと否定した。
「私に声をかけてきたとき、既婚者だったのよ? 相手にするはずがないわ」
「そ、そうか! 安心し……」
「本当に私が欲しいのならば、奥さまに頭を下げて離縁してもらって、ロルフとの結婚式より早く奪いにくるでしょう? そうしなかった時点で、あの男の本気は、たかがしれているのよ」
もしも、オラシオに今以上の行動力があれば――ウルスラは、ロルフの側妃ではなかったのか。
嫌な未来を想像してしまい、ずんと気持ちが重く沈み込む。
そんな暗いロルフを、ウルスラは笑い飛ばす。
「あの男はこれまで、自分の思い通りにならなかったことがないのよ。だから私も、簡単に手に入ると考えたのね」
「ウルスラ……」
「そんな安易な女じゃないと、見抜けなかった間抜けな男よ。評価するに値しないわ」
ウルスラは隣に立つ、背の高いロルフを見上げる。
がっしりとした体格に恵まれ、顎ひげには貫禄があるが、灰色の瞳だけがいつも気弱さを含む。
「しっかりしなさい! あんな男に負けるようでは、許さないわよ!」
「わ、分かった!」
ロルフが頷くと同時に、ワアアアア、という歓声が、地鳴りのように起きた。
ヨアヒムが勝ったのだ。
「決定的な瞬間を見逃してしまったわ。……今回の騒動でマティアスは廃嫡、ヘッダは破婚、青公爵家とそれに連なる一族にもその余波が及ぶ。それらへの対応と、ヨアヒムの立太子と、やらなくてはいけない仕事は山積みよ。ロルフにも、しっかり働いてもらうからね!」
ウルスラは、どんとロルフの腹を拳で叩く。
手荒に扱われて、嬉しそうに頬を染める夫を、ウルスラは案外悪くないと思っている。
だが、ヨアヒムが命を狙われるようになったのは、優秀な弟に気を遣い過ぎるロルフのせいなので、それを口に出して言うつもりはなかった。
◇◆◇◆
「私ってェ、可哀そうだわァ」
アラーニャ公爵家で謹慎中のエバが、ぐすぐすと洟をすする。
「ただ、レオさまが好きなだけなのにィ。ちょっと嫉妬するくらい、女の子なら当たり前でしょォ」
ちらりと上目遣いで見た相手は、兄のホセだ。
今日はエバの様子を伺いに来る日だと知っていたので、目の下には隈も作っておいた。
「あとどれだけ、こんな生活を続けないといけないのォ? ずっと外に出られなくて、頭が腐り落ちそうだわァ」
それまで大人しく、エバの恨み言を聞いていたホセだが、ようやく口を開く。
「エバが影をつかって襲わせた令嬢の中には、もっと長く屋敷に引きこもっている者もいるんだぞ」
「反省しているわよォ! だから今まで、言うことを聞いてきたじゃない!」
影のしでかした行為については、王家が賠償金を支払った。
だがそれで、令嬢についた傷が消えるわけではない。
エバの謹慎がなかなか解かれないのは、その罪の重さゆえだ。
しかし当のエバは、それをあまり理解していなかった。
(そろそろ私が出歩いたって、何の問題もないでしょ!)
エバがしおらしくしていたのは、社交界から自分の噂が消えるのを待っていたからだ。
自宅謹慎が始まって、もう半年以上も経つ。
退屈な貴族たちは、いつだって新しいもの好きだ。
すっかり過去となったエバの昔話に、花を咲かせているはずがない。
「ねえ、レオさまに会いたいのォ。物陰から、そっと顔を拝むだけでいいからァ!」
シクシクと、泣きまねを始める。
なんだかんだとホセは面倒見がいい。
ブロッサが押しつけたエバの部屋の鍵を、律儀に管理し続けているのがその証だ。
つけこむならホセの甘さだと、エバは知っていた。
「だが、しばらく王城でのお茶会はないし……」
「どこかでパーティはあってないのォ? レオさまが招待されるくらいの大きなパーティなら、私ひとり紛れ込んでも気づかれないわァ」
「そう言えば……外務大臣からパーティの招待状が来ていたな」
「それよォ! 外務大臣って、お父さまの部下でしょう? ちょうどいいじゃない!」
殊勝なエバに免じて、ホセは少しだけ、一緒にパーティに顔を出すと決めた。
短い時間、レオナルドを鑑賞したら、すぐに帰ると約束をさせる。
「パーティ用に、新しいドレスが必要だわァ。お兄さまがお金を出してよォ」
エバの遊興費は、オラシオによって凍結されている。
久しぶりにレオナルドに会えるのに、流行遅れのドレスなどまっぴらごめんだ。
「ドレス? エバはたくさん持っているじゃないか」
「同じドレスを着たら、私ってバレるじゃない!」
「それもそうか……」
エバの衣装室には、まだ着たことのないドレスがあふれているが、詳しくないホセは簡単に騙された。
(レオさまの目を奪う、素敵な装いにしなくちゃ!)
こうしてエバは、パーティに出席する機会をもらった。
そこでレオナルドが、ファビオラをエスコートするとも知らずに。