ファビオラが出国して、1か月ほどが経った。
ヨアヒムたち第二皇子派は、マティアスたち第一皇子派の動きを静観している。
「こちらの準備は整ったというのに、あちらは何を足踏みしているのかしらねえ」
待ちくたびれたウルスラが、そう零したときだった。
これまでに聞いたことのない拍子で、どこかの神殿の鐘が鳴り響いた。
すぐさまヨアヒムは立ち上がると、窓の近くで耳を澄ます。
「ようやく義兄上が蜂起したようです。こちらの予想通り、赤公爵家を目指していますね」
先に後ろ盾を潰し、ヨアヒムを孤立無援の状態にして、いたぶり殺すつもりなのだろう。
いかにも弱い者いじめが好きな、マティアスらしいやり方だ。
「赤公爵家には、この鐘の音と共に、皇城の兵士たちが駆け付けます」
「そこでマティアスの私兵団は、ある程度、捕らえられるわけね?」
「義兄上やその取り巻きたちを含め、若干名はわざと逃がします。そうすれば、次はここを目指すはずですから」
ヨアヒムが足元を指さす。
「本命は私です。赤公爵家への襲撃が失敗しても、義兄上はまだ諦めないでしょう」
「ヨアヒムはそれを迎え撃つつもり?」
「一騎打ちに義兄上が応じるか、分かりませんが……私は逃げ隠れしません」
どちらに正当性があるのかを示すため、人目の多い皇城を決闘の場に選んだ。
違法な私兵を引き連れて、暴れるマティアスの姿が詳らかにされれば、やっと皇位継承争いに決着がつく。
「母上は、安全な場所にいてください。バートが言うには、父上の執務室が一番頑強で――」
「とんでもないわ。あんな奥まった場所では、ヨアヒムの雄姿が見られないでしょう。戦うあなたがどれだけ素敵だったかを、私は帰ってきたファビオラさんに、教えてあげなくちゃいけないんですからね!」
ウルスラは嬉しそうに胸を張るが、ファビオラの名前に反応して、ヨアヒムの顔は途端に翳る。
「どうしたの? 夜更けに寝室の扉を開けて、こっそり逢引きするほど仲良しだったじゃない」
「あ、逢引きではありません。扉を開けてもらったのも、あの日だけです。それにファビオラ嬢は、多分、私とソフィの関係を誤解していて……」
ウルスラの口がぽかんと開く。
ファビオラが隠し通路を使った日に、ソフィと何をしていたのか、身振り手振りでヨアヒムは打ち明けた。
「どうして早急に、ファビオラさんへ説明しなかったの!?」
「何度も試みましたが、機会に恵まれなかったのです」
「じゃあファビオラさんは、ソフィ嬢が恋人だと勘違いしたまま、カーサス王国に行ってしまったの?」
その通りなので、ヨアヒムが気まずげに頷く。
「なんてこと……いえ、待って。もしかしたら私も、口を滑らせたかもしれないわ」
「どういうことですか?」
「ヨアヒムとソフィ嬢の仲を、認めてると受け取られかねない会話を――」
その途中で、新たな鐘の音が聞こえてきた。
先ほどとはまた、違った拍子だ。
「義兄上がこちらへ来るようです。では、行ってまいります」
ヨアヒムはバートを伴い、皇城の大門へと足早に向かう。
騎乗した兵士が駆け抜けて通れるのは、跳ね橋の下りている場所だけだ。
「中央の大門を開放しています。巻き添えにならないよう、人は遠ざけました」
バートの的確な指示に、頷いて返す。
ヨアヒムは手を帯剣にかけ、颯爽と歩く。
いつもならば、通りすがりの令嬢たちが、うっとりと溜め息をつく場面だ。
しかし今日は、ヨアヒムの尋常ではない様子に、誰もが固唾を飲み込んでいる。
開かれた大門の前に辿り着くと、騎馬のあげる砂埃が、徐々に近づくのが見えた。
いよいよマティアスとの直接対決が始まると思うと、気持ちが昂り体が震える。
「ここまで、長い道のりだった。バートにも世話になったな」
「それも今日で終わりですよ」
穏やかなバートの声音に、ヨアヒムは微笑み、右肩を手で押さえる。
始まりは、あの襲撃だった。
大切にしたい人が、血を流したのを目の当たりにして、温厚だったヨアヒムは変わった。
(それから私は、義兄上を倒すと決めた。平穏を勝ち取るために)
ヨアヒムの馬が引かれてくる。
ふわりと跨ると、剣を抜いてマティアスを待つ。
「義兄上だけは、ここの広場へ辿り着くように誘導してくれ」
それを聞いて、待機していた兵士たちが散らばっていった。
間もなく、異母兄弟による戦いの火蓋が切られる。
◇◆◇◆
中央の広場が見下ろせる位置には、耳聡い多くの貴族が集まっていた。
第一皇子派も第二皇子派も入り乱れ、これから始まる一騎打ちを、その目で見届けようと瞬きもせずに注視している。
そんな人混みの中、いつもは出会うことのない、ヘッダとウルスラがかち合ってしまった。
「愛息が血祭りにあげられるのを高みの見物とは、いい趣味ね」
紫色の唇で弧を描き、ヘッダがいびつに笑う。
その後ろには、かつてファビオラを蔑んだ貴婦人たちが、ヘッダを取り巻いている。
扇で口元を隠しているが、どうせ似たような笑みを浮かべているのだろう。
誰しもが、マティアスの勝利を信じて、疑っていなかった。
それに対して、ウルスラは一人、小首を傾げてみせる。
「善悪の区別がつかない子どもを、野放しにしている母親がいるんですってね?」
誰のことかご存じ? と、本人に尋ねる。
マティアスの違法行為を当て擦られて、ヘッダは瞬時に気を悪くした。
「フンッ! 負け犬の遠吠えね。勝てば何をしてもいいのよ!」
うるさいから場所を変えるわ、と青筋を立てたヘッダに、貴婦人たちもゾロゾロついていく。
ウルスラはひらひらと手を振って、その集団を見送った。
「残念ね。せっかく、泣きっ面を拝んでやろうと思っていたのに」
ウルスラとヘッダが舌戦を繰り広げている間に、マティアスの乗った馬が広場へと到着したらしい。
数名の取り巻きを引きつれている様は、先ほどのヘッダと重なる。
「あら、マティアスは剣じゃなくて槍を持っているじゃない。さすが卑怯者のすることは、一味違うわね」
バルコニーから身を乗り出し、ウルスラはヨアヒムに精一杯の声援を送る。
その背後に、忍び寄る人影がいるとも知らずに。
◇◆◇◆
「これ……あんまりじゃない?」
レオナルドから届けられたドレスは、リボンやレースの細部に至るまでがピンク色で、ファビオラはその主張の激しさに眩暈がした。
「お姉さま、装飾品はすべて銀色ですよ。銀髪の輝きを邪魔しないように、という配慮でしょうね」
アダンも小箱を開けては、呆れかえっている。
しかし、ファビオラからエスコートをお願いした手前、着用を断る訳にはいかない。
「仕方がないわね。あの屋敷に監禁されるよりは、ずっといいもの」
「いくつかのパーティに参加して、お姉さまが橋渡しの役目を完遂したら、別のレオナルド殿下対策を考えましょう。それよりも先に、ヘルグレーン帝国の皇位継承争いが、終わればいいんですけどね」
アダンの言葉に、ファビオラも同意する。
父のトマスはさっそく、ウルスラへの返事をしたためたようだ。
両国間の連絡は、些細な情報も含め、なるべくこまめに取るつもりでいる。
「アラーニャ公爵令嬢は自宅謹慎中だから、王太子さまにパーティでエスコートされても、すぐに襲われるってことは無いと思うのよ」
ファビオラは予知夢の中で、ロープを巻きつけられた首元をさする。
かつてエバが従わせていた影は、現在、すべてダビドの管理下にあると聞いた。
うまく立ち回り、レオナルドの機嫌さえ損ねなければ、ファビオラにも勝機がある。
ファビオラの言葉に、アダンが思い出したように口を開く。
「そう言えば、エバ嬢の懲罰の期間も、かれこれ半年以上になりますね」
社交界では、すっかりエバの噂を聞かなくなった。
ほとんど国内にいない宰相オラシオや、姿を見せなくなった王妹ブロッサに代わり、アラーニャ公爵家を代表してパーティに顔を出しているのは、兄ホセだと言う。
「エバ嬢とは正反対で、評判がいいですよ。真面目すぎるきらいはありますが、好青年だと令嬢たちも囁いていました」
なにしろ、顔はオラシオに似て美形なのだ。
いまだに婚約者が決まっていないのは、奇跡に近い。
今回のパーティでレオナルドの寵愛がファビオラにあると周知されたら、一気に婚約の申し込みが殺到しそうだ。
「普通は親が優秀すぎると、ひねくれて育つものですが、ホセ卿はそんなことはなく、父を尊敬していると常々口にしています」
そんなホセが、オラシオの横領の罪を知ったら、悲しむに違いない。
ファビオラは重たい溜め息をつく。
「お父さまの予想では、処罰は連座ではなく、宰相閣下のみが受ける可能性が高いんですって」
「妻子には王族の血が流れていますからね。簡単に、絞首刑には出来ないのでしょう」
それでも、アラーニャ公爵家は没落する。
ブロッサも、エバも、ホセも、これまでと同じでいられない。
それほど国庫からの横領は、大罪なのだ。
「どうして身の危険を冒してまで、ヘルグレーン帝国の皇位継承争いに関わったのかしら?」
「何か、利があってのことでしょうね。外交的なものなのか、私的なものなのか、それは分かりませんが」
ファビオラとアダンは頭を悩ませる。
それが解き明かされるのは、もう少し先だ。