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第14話 幼年期

 わたしの最初の記憶は、一日中、家でぼおっとテレビを見続けている記憶だ。

 たぶん、その頃のわたしは2歳か3歳くらいだと思う。

 お父さんは、毎日夜遅くまで仕事をして、それから仕事の人の『せったい』という所に行っているらしい。

 お母さんは、あんまりわたしに興味がないらしく、化粧をして、入念に着飾って、どこかへ遊びに行ってしまう事が多かった。

 わたしは、いつも一人でテレビを見ていた。

 テレビは、いつも違う人、違うアニメ、違うニュースなどをやっていて、飽きる事が無かった。

 だが、わたしはそれをまったく面白いとは思っていなかった。

 わたしは、無性に何かが足りていないと感じていた。

 それは、今から考えると、たぶん寂しさなのだろうと思う。

 だけど、幼かったわたしは、それが寂しさであるとも理解できず、ただ、ただ、空しさの中でテレビを見続けていた。

 あまりテレビにいい番組がなくなる時間帯は、積み木をして遊んでいた。

 積み木は、テレビよりは楽しかった。

 だけど、幼いわたしに作れる積み木のバリエーションは限られていて、わたしはいつも、同じようなお城ばかり作っていたように思う。

 わたしに、新しい積み木の作り方を教えてくれるような親も友人も、わたしにはいなかったのだ。

 あとは、なぜか買い漁ってあった子供むけの教材などをやったりして、時間を潰していた。

 教材は、特にワクワクする事も無かったが、時間は良く潰れた。

 わたしは、その生活があまりに空しすぎて、頭がおかしくなりそうになっていたように思う。

 それで一回だけ、たまたま帰宅していた母親に向かって「遊んで!」と泣きついた事がある。

 母親は、わたしをゴミでも見るような目で一瞥すると、わたしの頬を強烈に平手打ちした。

 わたしは倒れこむように床に伏せ、呆然とした目で目の前のテーブルの脚を見つめた。

 母親は、そんなわたしの腹を足で強く蹴り上げる。

「ぐぇ……! ぎっぐ……!」

 突然襲ってきたすさまじい息苦しさに悶えるわたしを一瞥もしないまま、母親は結局何も言わず、鞄を持って、家の外に行ってしまった。

 痛かった。

 信じられないくらい痛かった。

 だがそれ以上に怖かった。

 母親の事が、この世のどんな存在よりも怖かった。

 ――お母さんは、怖い。

 その想いが、わたしの魂まで刻み込まれた。

 ――わたしはお母さんを怒らせないようにしないといけないんだ。

 だから、遊んでもらおうとするなんて、もってのほか。

 その時のわたしは、あまりの恐怖の強さに泣きじゃくる事すらできず、自分の心の中に何か毒のようなものが強烈に貯まっていくのを感じていたが、何もする事は出来なかった。

「ごめんなざい……! ごめんなざい……! ごめんなざいっ……!」

 わたしは、誰もいない家の中で、虚空の中に焼き付いた母親の恐怖に向かって、謝って、謝って、謝り続けた。

 逃げ場はどこにもなかった。

 そもそもわたしは、家の中から出るという選択肢を、5歳の中頃まで知らなかった。

 テレビが与えてくれる情報と、積み木のお城と、子供向け教材のキャラクターだけが、わたしにとって世界の全てだったのだ。

 そう、わたしは幼稚園にも通わせてもらえていなかった。

 ただ、食料とテレビ、積み木だけを与えられて、わたしは自室で一人、空しい時間つぶしだけをして、生き続けていた。

 それが、地獄であるとも思っていなかった。

 その生活以外、何も知らないのだから、当たり前だ。

 本当に、それだけが、長らくわたしの全てだったのだ。

 多感で、瑞々しくあるべき、貴重な幼年時代の、全て――

 転機は、5歳になってしばらくした頃にやってきた。

 わたしはその頃、溢れんばかりの退屈を紛らわせるため、父親の書斎を探検するという新しい遊びを覚えていた。

 そこで、わたしは一冊の詩集に出会う。

 『妖精詩集』という、名も知られていない作家の詩集だった。

 最初は、表紙に描かれた妖精さんが、可愛いな、って、そんな子供らしい無邪気な思いから何気なく手に取った。

 わたしはテレビの字幕などから文字は覚えていたので、ところどころ分からない漢字などがありながらも、振り仮名などから意味を理解して、それを読み進める事が出来た。

 ――なんだ、これは……!

 わたしは、人生を塗り替えられたような深い、深い衝撃を受けていた。

 最初の時点から、見た事もない、美しいお話だと思っていた。

 それまでろくに絵本を読んでもらう事もなく、ただテレビの教育番組程度の娯楽しか摂取していなかったわたしにとって、その詩集は、神様が書いたんじゃないかと思えるほどの、途方もない美しさと希望、夢が詰まっていると感じられるものだった。

 詩集には、妖精の子供が、妖精郷で楽しく友達と遊ぶ幼い頃の瑞々しい描写から始まり、少年になった妖精が人間界に出て、冒険を重ねて、数々の美しいもの、素晴らしいものと出会っていく様が描かれていた。

 わたしは、読み進めるたびに、興奮して、目を見開き、頬を紅潮させ、叫ぶように特に気に入った文章を音読していた。

 妖精詩集は、それまでのわたしの人生のすべてを遥かに上回る、豊かさ、神秘、高揚、感動、そういったものをたくさんたくさん運んでくれた。

 わたしは、妖精詩集が大好きになっていた。

 何回読んでも、何十回読んでも、飽きる事は無かった。

 毎日毎日、ひたすら詩集を読み続ける。

 読むたびに、感情が根底から揺さぶられるような、深い感動があった。

 そうして、百回は読み終わった頃だろう。

 わたしは、繰り返し音読した結果、既に妖精詩集の内容を暗記して、諳んじられるようになっていた。

 その頃わたしは、自分も妖精さんのようになりたい、と強く思っていた。

 妖精さんのように、お外の世界に出て、冒険をして、美しいもの、素晴らしいものと、出会うのだ。

 そんな人生で初めての希望と夢を持ったわたしは――

 ずいぶん久々に、母親に自分から話しかけた。

「お外に出てもいいですか?」

 母親を恐れ、丁寧語で話しかけた5歳のわたしに、母親は、

「勝手にすれば」

 とだけ冷たく言った。

 わたしは、母親の冷たい感情にショックを受けたが、外に行ってもいいという事には胸をときめかせた。

 母親から鍵を預かったわたしは、家の扉に鍵をかけて、ワンピースのポケットに鍵を入れて、冒険の旅に繰り出した。

 わたしの家を出て少し歩いた所には、桜海公園という桜海市を代表する大きな公園がある。

 わたしは、その公園に吸い寄せられるように足を踏み入れた。

 ――途端、緑の奔流が、わたしを飲み込んだ。

 公園は、それまでに見た事もないほど、緑で満ちていた

「……しゅごい! しゅごい!」

 わたしは舌ったらずな口調で、ひたすら「すごい!」と感動を口にしていたはずだ。

「……しゅごい! しゅごいよぉおおおお! あはは! あははははっ!」

 その瑞々しい緑が持つ、圧倒的な情報量に、文字通りわたしは呑み込まれていた。 木々の枝が広がる様が美しかった。

 葉っぱが風に揺れるざわめきが美しかった。

 鳥たちの鳴く声の繰り返されるリズムが美しかった。

 池に浮かんだ蓮の花の細やかな躍動が美しかった。

 カタツムリが道を外れた所にある花の葉っぱを這っている様は、感動的ですらあった。

 わたしはそういったあれこれ全てに感動しながら、公園を歩き回り、駆け回り、叫び回った。

 公園の道から外れて、自由に冒険し、生えている草木をじかに触っては、「しゅごい!」と感動した。

 そして、気付けば、わたしは詩を詠んでいた。

 それは私の初めての詩だ。

 内容自体はもう、よく覚えていない。

 だが、幼い感性をまっすぐに文章にしたその詩は、途方もなく綺麗な、宝物のような詩だったと、わたしは今でも思っている。

 さらにわたしはその詩を、自分がテレビで聞いた子供むけの曲に乗せて、歌いながら公園を行進した。

 その歌は、わたしだけの宝石箱だった。

 わたしはその歌を唄っている間、初めて、自分が人生を生きていると、感じる事が出来た。

 道行くお爺さんが、そんなわたしの歌を聞いて、話しかけてきた。

「お嬢ちゃん、ずいぶん洒落た言葉を使ってるねぇ。どこで覚えた歌なんだい?」

「わたしがきゃんがえた!」

「ほう! すごいねぇ! お嬢ちゃんは、きっと天才なんだねぇ!」

「わたし、てんさい? すごいの?」

「ああ、すごいとも。お父さんとお母さんも、きっと褒めてるだろうねぇ」

「……おとうさんとは、ほとんどはなしたことない。おかあさんは、わたしのこと、きらい」

 わたしは途端、しゅんとして、寂し気にそんな話をお爺さんにする。

「そうか……今時そういう家庭も珍しくないのかねぇ。こんな良い娘が、勿体ない……寂しいねぇ」

 お爺さんは私の事を悲しんでくれたようだったが、わたしにはその悲しさが伝わってはいなかった。

「さみしくないよ! ようせいさんが、わたしにはいるから!」

 わたしの心の中には、既に妖精詩集の妖精さんが、生き生きとイメージされ続けていた。

 わたしは、その妖精さんと、会話する事さえ出来た。

「そうかのう……ま、わしはよくこの公園を散歩しとる。寂しくなったら、話しかけてくれてええ」

「わかった! ありがとう!」

 そうして、わたしはしばらくの間、このお爺さんとの交流を楽しんだ。

 お爺さんは、わたしの詩や歌を聞いては、「やっぱり天才じゃのう!」と驚いてくれた。

 わたしは嬉しくなって、無数の詩や歌を作って、お爺さんに披露した。

 でも、家に帰ると、相変わらずお父さんはいなくて、お母さんは氷のように冷たかった。

 わたしは、それがなんだかとっても辛いと感じたけれど、自分ではどうする事も出来なかった。

 本当は、お母さんに詩を歌いたかった。

 でも、それをすれば、また蹴られる事は目に見えていた。

 わたしは、お母さんが怖かった。

 その事を考えるだけで、心がバラバラになりそうだった。

 わたしはそこから逃避して、妖精詩集を読み耽る。

 妖精さんはいつも元気。

 今日も妖精郷で、友達と楽しく遊んでいる。

 そんな妖精さんのイメージを心の中で構築する事で――

 わたしの心は、危ういバランスを保っていた。


 *****


「とまあ、わたしの幼い頃は、こんな感じ」

 俺は、静かに美里花の話を聞き続けていた。

 色々、思う所はあった。たくさんあった。

 だが、いざとなると、何を言っていいのかも、良く分からなくなっていた。

「この後の小学校編とか、中学校編とかもあるんだけどね。まあそれは、大体月也に見せたあの詩とかの通りだよ。わたしは小学校に馴染めなくて、算数の授業中に詩を歌っちゃって、先生と周囲にめっちゃ嫌われて問題になって、転校する事になって……今度は小学校デビューして友達を作ったけど、周囲に合わせてるだけで、中身はまったくなくて、詩も書けなくなってて……中学に上がったら、なんかめっちゃモテだしたせいで、上級生の女子に恨まれて、いじめられて……自殺しようかなって思って屋上の柵を越えたら、なんか空がすごい綺麗で、感性が回復した気がして……それから、死と隣り合わせの所にいる間は、なんだか生きている心地がするようになっちゃった。んで、月也が小説で賞を取ったって噂になって、それをきっかけに詩を書いてみたら、一つ書けて……そんな月也が柵を越えてるの見かけた時はさ、仲間なのかなって、そう思っちゃってたかも」

 美里花の、そんな長い自分語りを、俺は痛いほど共感しながら、真剣に聞き続ける。

「……ねぇ、月也……月也は、こんなわたしを、救えるかな? 本当に、こんな虚無だらけのわたしを、救えるのかな?」

「……大丈夫だ。必ず救って見せる」

「本当? 嬉しいな。本当に、嬉しい」

 俺は、美里花を元気づけるため、まずは自信をもっている所を見せる事にした。

 実際の所、100パーセント救える保証があるわけではない。

 だが、俺の中には、すでにある程度の仮説は揃っていた。

 あとはそれを実行に移す力が、俺にあるのかという問題だ――

「なんか、月也と話したら、ちょっと元気出てきたかもしれない。そろそろ親が帰ってくるかもしれないから、月也、帰った方がいいかも」

「……本当に、大丈夫か?」

「……うん」

 美里花も、俺を安心させるためなのか、自信を持っているかのように振舞った。

 俺は逆に不安を感じたものの、今は状況的に、確かに一回帰った方がいいだろう。

「……それじゃあな、美里花」

「……うん」

 短く別れを告げて、俺は美里花の家を後にした。

 家に帰り、自室でこたつに座った俺は、勉強で用いているルーズリーフを取り出し、そこに手書きでとある言葉を綴りだした。

 こればっかりは、手書きでないとダメなのだ。

 これは、美里花の心臓に、ハートに届けるための言葉なのだから。

 書こうとしているのは、俺の、俺による、美里花のための、オリジナルの詩だ。

 詩について調べたときに知ったのだが、心理療法の一種に、詩歌療法というものがあるらしい。

 俺は、これを美里花に対して、自分なりに行おうとしていた。

 詩の力で、人を癒す。

 言うのは簡単だが、実行するのは極めて難しいだろう。

 だがやらなければいけない。

 俺は、そのために美里花の過去を聞いた。

 これまでの会話や出来事、詩の内容からも、あいつの内面を推し量れる部分は多々あった。

 であるならば、出来るはずだ。

 これは、俺にしか出来ない事だ。

 美里花の内面をここまで深く理解してる奴なんて、俺以外にいないのだから。

 そして、これは詩という形態でなければならない。

 詩を愛し、詩に愛された美里花を救う方法は、やはり詩であるべきだし、それが美里花の心に一番深く響かせる方法だと思うからだ。

 俺は、一人で黙々と、ルーズリーフに詩の断片を記述していく。

 その作業は、美里花の教えを守り、無心で、対象への愛をもって行われた。

 対象とは、この場合、美里花そのものだ。

 俺は、美里花の事を深く、深く、これ以上ないほど深く愛する気持ちをもって、詩を書いた。

 この気持ちが、伝わってくれるといいな。

 美里花のハートに、伝わってくれるといいな。

 そんな念のようなものを込めながら、無心で、神様が自分の身体に宿ったかのように、文章を筆記し続ける。

 それは一種の自動筆記のようなものだった。

 俺自身が、神の器になっているかのようだった。

 俺は、ただ、ただ書き続ける。

 美里花を救えると信じて、書き続ける。

 そうして書き続けた先――

 ――いける……!

 ――だが、まだだ……!

 俺はまだ詩を高められると思った。

 今書いたものをいったん忘れて、別のルーズリーフを取り出す。

 そうして、今書いたものを更にブラッシュアップしたものを、燃え盛るハートをぶつけるように、勢い良く書き連ねていく。

 そうしていると、感情がどんどん美里花に移入していって、俺はふと美里花の全てを理解しているような心地になった。

 その瞬間、電撃のように直観する。

 ――ああ、これでいいのだ。

 美里花を救うための最高の詩は、これだ。

 それは極限状況の中、洞察に洞察を重ねて得た結論。

 美里花への深い愛が、深すぎるくらいに深い愛が、導き出した結論。

 ゆえに間違いはない。

 俺はその結論を、今、信じられた。

 ついに、最後まで詩の執筆を終えて、筆をおく。

 最後の一文まで魂の通った、俺にできる最高の出来に仕上がった。

 ――あとは。

 問題は美里花の精神と、渡すタイミングだ。

 明日、美里花に会った時に、どこかでこの詩を渡そうと思っていた。

 だがいつがいい?

 そう思っていた、その時だった。

「月也へ。やっぱり無理そうです。あれだけ話して無理なら、本当に死ぬしかないと思いました。明日、放課後17時に、屋上から飛び降ります。月也には、死ぬ事を教えると約束していたので、教えました」

 丁寧に語られたその文章に、衝撃は不思議と受けなかった。

 俺はすでに、心を決めていた。

「美里花へ。俺はお前を救う事を、まったく諦めてない。今でも救えると信じている。そんな俺を少しでも信じてくれるなら、お前に渡したいものがある。17時に屋上で会おう」

 美里花に、そうメッセージを送って、俺は静かにベッドに大の字になった。

 やれる事は、やった。

 あとは明日を待つのみ――

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