「そういえばアイツ……。東谷だっけ?」
「えっ……」
まさか将人の口から東谷の名前が出てくるなんて思いもしなかったため、俺の心臓は跳ね上がり、思わず肩をびくつかせてしまう。
「たしか、お前の後輩だったやつだろ?今回のプロジェクトリーダー」
「あっ、うん……。今日、偶然会ったよ……」
俺は必死に平常心を取り繕うようにしながら、ゆっくりと答えた。
すると、将人は吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。
「へぇー会ったのか。まさかそれが、俺との待ち合わせに遅れた理由か?」
「えっ……?」
東谷に会ったことを追及されると思っていなかった俺は、さらに心臓の鼓動が速くなり、一瞬返事に戸惑ってしまう。
「ち、違うって。会社で偶然すれ違って挨拶したくらいで……。遅れたのは駅で調子が悪くなったからだって言っただろ」
「ふーん。あっそ……」
将人は興味を無くしたように、視線をノートパソコンの画面に戻した。
俺は将人に気づかれないように安堵の息を吐き出すと、肘をベットに押し付けながら、ゆっくりと上半身を起き上がらせた。
(いい加減、そろそろシャワー浴びないと……)
身体の節々と腰に感じる鈍い痛みに顔を歪ませながら、俺はベット横のサイドテーブルへピルケースを置こうと手を伸ばした。
「お前さー。アイツに取り入ってこいよ」
(えっ……?)
急に言い出した将人の言葉が理解できず、俺はサイドテーブルに手を伸ばす動きを止めて将人の方を振り向くが、将人はパソコン画面を見つめたままだった。
(取り入る……?東谷に……?)
「将人、何言って……」
「俺のプレゼン通すためにさー。アイツに抱かれてこいよ」
(抱かれてこい……?将人のために……?)
やっと将人が何を言っているのか理解した俺は、ピルケースを握りしめていた手に震えを感じた。
「あー、やっぱそもそも無理かー。東谷って絶対アルファだろうし、お前みたいなキズモノじゃ相手されるわけないもんなー。お得意のフェロモンも効かねーし。いや、東谷が本社勤務になったのって上層部に上手く取り入ったって聞いたから、実は東谷もお前と同じように誰かにケツ差し出してんのかもなー。そうだったら、マジ笑えるわ」
手を叩きながらケタケタと笑って話す将人に、俺は今まで感じたことのない、フツフツと湧き立つ怒りを覚えた。
(ふざけんな……)
俺自身のことは将人に何を言われても我慢できたが、東谷が侮辱されるのだけはどうしても我慢できなかった。
そう思った瞬間、俺は握りしめていたピルケースを無意識に将人へ向かって投げつけていた。
「っ……」
怒りに任せて投げたはずだったが、身体に力が入らなかったため、ピルケースは将人の肩に軽く当たっただけだった。
だが、床に転がり落ちたピルケースと俺を見比べた将人は、静かに俺を睨みつけてきた。
「お前、自分が今何したかわかってんのか?」
俺は将人に負けじと軽蔑するような目で睨みつけた。
「東谷は……将人とは違うよ」
「は?今、なんて言ったんだよ」
「東谷は将人とは違うって言ったんだよ。本社勤務はアイツが自分で努力した結果だ。くだらない言いがかりはよせよ」
「ふざけんなっ!」
将人は声を荒げると、先程まで足を乗せていたローテーブルを勢いよく蹴りつけた。
「俺とアイツ、何が違うってんだよ!俺がアイツより劣ってるって言いてーのかよ?俺ならアイツを左遷にもクビにすることもできるのにか?」
将人は立ち上がって自分のカバンから財布を取り出すと、お札を数枚取り出して絨毯に叩きつけた。
「ほら、拾えよ!クソオメガが!」
「……」
「拾えっていってんだろ!お前は俺のペットだ!卑しいオメガなら金が欲しいだろ、ほら!」
俺は首を静かに横へ振った。
「いらない……」
「……っ!」
反抗する俺に肩を震わせて怒りを露わにした将人は、ベットに立ったまま乗っかってくると、俺の前髪を片手で鷲掴みにして無理やり俺を上に向かせた。
「俺が拾えって言ってんだから、今すぐ床に這いつくばって拾えよ!」
「いやだ!」
目を逸らさず、俺はしっかりと将人を睨みつけながらはっきりと答えた。
「オメガだってバラされてもいいんだな?」
俺の前髪を掴む将人の手にさらに力が込められると、頭を左右に揺さぶられる。
「……」
「バラしてもいいんだな!」
「……っ。それは……」
悔しさを我慢するように奥歯を噛み締める俺の表情を見て、将人は満面の笑みを浮かべた。
「そうそう、困るよなー。じゃあ、自分の立場は分かったよな?」
将人は掴んでいた俺の前髪から手を離すと、またソファーに戻ってドカッと座った。
そして、足を組んで俺を見つめると、将人はニヤニヤしながら足元に投げ捨てられたお札を指差した。
(くそっ……)
仕方なく、俺は鉛のように重い身体を動かし、ベットから床に落ちたままになっていたバスローブを羽織ると、ゆっくりとした足取りで将人の足元に投げ捨てられたお札に近づいた。
絨毯の上で俺は両足の膝をついてお札を手に取ると、将人は俺の顎を片手で掴んだ。
「そうだ。そうやって、お前は俺の言うことだけを聞いてればいいんだよ。わかったか?」
「はい……」
これ以上将人の機嫌を損ねてはまずいと判断した俺は、そっと感情を消して将人を真っ直ぐ見つめた。
「やっぱ、オメガはそうやって従順じゃなくちゃなー。なんてったって、俺たちは番なんだからさー」
将人は満足したように俺の顎から手を離すと、財布の中から数枚の札束を抜いて俺の顔に投げつけた。
「ほらよ。今回の仕事の分もやるよ。俺って優しいなー。だから、プレゼン資料は必ず朝一に仕上げて送って来いよ」
「はい……」
「俺がいなきゃ、お前はこの世で生きてけねーんだからさー。これからも俺に尽くせよ。寛大な俺が、さっきのことと遅刻したことは許してやるからさ」
そう言って、鞄とスーツの上着を手に持ってソファーから立ち上がった将人は、両足の膝をついたまま俯く俺の横を、満足気な顔ですり抜けて部屋を出て行った。
(くそっ…!)
じわじわと湧き立つ怒りは、将人に対してじゃない。
将人の言う通り、将人がいないと生きていけない自分自身が情けなくてだ。
四つん這いになって絨毯の上に散らばったお札を集めると、俺は先程拾い上げたお札と一緒に握りしめて絨毯の上から床を叩いた。
何度も何度も床を叩いた手は痺れ始め、手を離すと、握りしめていた札束が床に散らばった。
(東谷……)
俺は東谷の名前を、まるで助けを求めるように心の中で静かに呟いた。