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第2話 番のところにですか?

(人事からのメールには、たしか来週からって……)


「なんでここにいるのかって、顔してますね」


俺の表情からあまり喜んでいないと感じ取ったのか、東谷の表情は少し陰りを見せた。


「あ、いや……」


俺はばつが悪くなり俯き気味に目を逸らすと、デスクの上で開けっぱなしのノートパソコンを慌てて片手で閉じた。


「その……。出社は来週からじゃなかったのか?」


本社へ栄転になった東谷だったが、これからうちの支社で始まる大型プロジェクトのリーダーに任命されたため、短期間であったが戻ってくることは人事からのメールで知っていた。


だが、メール文面に名前を見つけただけで速まる心臓の音に俺はどう向き合っていいのか分からず、それ以上考えることは止めて必死に頭の片隅に追いやっていた。


(会うのは、あの日が最後だって思っていたのに……。だから……)


「ええ。実は今日中に手続きを終わらせて欲しいって急遽言われてしまって。それで、さっきまで総務で手続きしてたんです」


「そう……だったのか……」


(俺、東谷とどんな話し方してたっけ……)


昔は気軽になんでも自然と話せていたはずなのに、歯切れの悪い話し方で東谷の目も見れない自分に俺は嫌気が差す。


「まだ終業時刻からそれほど経ってないですし、誰か知っている人でも残っているかなって覗きにきたんですけど、どこも真っ暗で。今日はノー残業デーだったんですね」


「あっ、ああ……」


今日は月に一度の会社が決めたノー残業デーだったため、終業時刻を過ぎると皆早々に退社していき、照明も落とされていた。


そのため、静まりきったフロア内は俺と東谷の二人きりだった。


「ねぇ、勇利先輩……」


咄嗟に名前を呼ばれて俯いていた顔を上げると、東谷の顔は窓から差し込む月明りに照らされながら、ゆっくりと近づいてきた。


真剣な顔で真っ直ぐと見つめてくるその目に俺が映り込むと、あの日のことが思い出される。


少し苦しそうに眉間に皺を寄せた東谷に見下ろされ、胸の奥から沸き立った愛おしいという気持ち。


東谷の汗が俺の顔に滴り落ち、頬を伝う感触。


頬に手を添えると、重ねるようにしながら握られた手のひらの温度。


ほんの少し思い出すだけで、俺は顔に火照りと腰に甘い疼きを感じ、思わず内股に力を込めた。


その時、ノートパソコンの横に伏せた状態で置いていた俺のスマホが、静かにバイブ音を鳴らした。


ハッとして俺は慌ててスマホを手に取ってメッセージを確認すると、そこにはいつものように時間と場所だけが簡潔に書かれていた。


「ごめん。俺もう行かないと……」


「それは……番のところに、ですか?」


「……っ!」


俺は頷くことも首を横に振って否定することもできないまま、東谷の見つめてくる視線から逃げるように、足元に置いていたカバンを手に取った。


そして、ノートパソコンとスマホを押し込むようにカバンに詰め込んだ。


(あっ……)


東谷から貰い、ずっと机に飾ったままにしていたキーホルダーも、慌てて机の引き出しに放り込んだ。


「俺、行くから……」


そう言い残して、俺はカバンを抱き抱えながら走ってエレベーターホールへと向かった。


非常階段の緑色ランプと窓から差し込む月明りだけが照らすエレベーターホールに到着すると、首から下げていた社員証を外しながら、下りるマークのボタンを何度も押してしまう。


(早く……。そうじゃないと、俺は……)


頭の中で、先ほど顔を近づけて来た東谷の顔と、三年前の見下ろされた時の顔が重なる。


俺は無意識に首元に貼られた大判の絆創膏の存在を、ワイシャツの上から何度も確認するようになぞっていると、やっとエレベーターが到着した。


暗い中にいたせいか、少し眩しく感じるエレベーターの中に駆け込むと、俺は息を吐いて壁に背を預けた。


早く閉まるボタンを押せばいいものを、それすらできなかったのは、走って疲れたせいか、それとも東谷が追いかけてくるかもしれないという期待なのか自分でも分からなかった。


静かに閉まるエレベーターのドアを、身体に感じる熱を必死に抑えるように、俺はカバンを抱きしめる腕に力を込めながら見つめ続けた。

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