「柊さんにはいつも驚かされますね」
グレイスビルに向かう車中で、橘はしみじみと言った。
「俺は霧島さんの決断の早さに驚きましたよ」
「当事務所にとって不利になりそうな要素は少ないですし、霧島は『やる・やらない』の二択が拮抗していたら『やる』を選択するんですよ」
「それはいいことを聞きました」
「ふふふ、内緒ですよ」
橘は滑らかな動きで車を運転し、車内は静かで、快適な乗り心地が感じられる。
車内の落ち着いた雰囲気は、会話をスムーズにする効果があるようだ。
「それで……柊さんは今後も今回のように石動さんの影になって動くつもりですか?」
橘はほかの誰にも話せないような内容を絶妙なタイミングで切り出した。
翔太が独断でやっていることを橘は察しているようだ。
「表に出るのは石動ですからね。
アイツが太陽なら、俺は月ってところでしょうか」
翔太は往年の大打者のようなことを言った。
「ふふ、お二人は梨花と私のような関係ですね」
***
「柊さんは坂本龍馬だね」
「まだ同盟を結んでないし、交渉はこれからだから、むしろ梨花さんが龍馬になるよ」
「じゃあ、柊さんは勝海舟?」
グレイスビルの会議室で経緯を聞いた神代は、開口一番にこう言った。
神代は霧島プロダクションとMoGeを薩摩藩と長州藩に見立てたようだ。
「梨花、この案件は当事務所にとって前例のない交渉になるけど――」
「はい、やります!」
神代は即答した。
翔太はこの手の提案を神代が断るのを見たことがない。
「橘さん、キリプロさんには専属の公認会計士は入っていますか?」
「ええ、まずは企業価値の査定ですね」
「そうですね、お互いの財務情報を確認していただいて、問題ないなら次に進みましょう」
「今回の交渉ではなにが重要なの?」
「資本提携の方法はおそらく株式交換になると思うけど、この場合は交換比率を有利にすることが重要なんだ」
「あっ! 映画のシーンにも似たような状況があったね!」
神代の目が輝き出した。
「財務的な企業価値は公認会計士に任せるとして、ビジネス面でこちらの価値が高いと相手に思わせることができれば有利になるんだよ」
「たとえば、うちの所属声優をゲームで使えば売れるってことね」
「そうだね、これまで出演した作品の売上などから価値は算出できると思う」
「ハラスメントの被害者である梨花が交渉の場に立つことで、心理的に優位になる可能性もありますね」
「確かにそうですね……その場合は――」
「梨花、わかっていると思うけど許す態度も、許さない態度も見せずに交渉すること」
「はい、相手側に許してほしいという状況を作るんですね」
神代は優しい性格だが、強い交渉役を演じれば、相手に対して厳しく出られるだろう。
翔太は神代の稽古を見ているので、その点に関しては問題ないと思っている。
「ちなみに、柊さんも交渉の場に来てくれる?」
神代は上目遣いに言った。
ブラックホールのように引き込まれるような黒い瞳で見つめられると、大抵の相手は断れないだろう。
「え? いいんですか?」
翔太は橘を窺った。翔太にとっては渡りに船だったので、断る理由はない。
「はい、柊さんは当事務所の名刺を持っていますし、問題ないですよ」
「どういうことですか?」
神代は翔太が参加したがっている理由がわからなかったようだ。
「柊さんはMoGeの情報がほしいのよ。
実際の交渉が始まると、公開されていない財務情報も確認できるし、上場の状況も探れるの」
「ありゃりゃ、全部お見通しでしたか」
「ふふふ」
橘はしてやったりという表情をしていた。
「ということは、一緒に来てくれるのね?」
神代の表情がぱあっと明るくなった。
会議室の雰囲気が見頃の植物園のように華やいだ。
「まぁ、今回は俺の専門外だし、役に立つかはわからないけどね」
翔太のこの発言に、二人は同意せずにスルーした。
(あ、あれ……?)
「それで、相手が持っているカードですが――」
会議室では、三人の悪巧みが続けられた。