「おぅ、柊、グロウの評判は上々だぞ」
霧島は上機嫌に言った。
『グロウ』とは霧島カレッジで使われているeラーニングのシステム名だ。
growとglowの両方の意味を取って名付けられた。
翔動が開発したLMSをベースに作られたシステムだが、LMSはフレームワークを指す用語であるため、システムに名前が付けられた。
グロウは声優コースで問題なく使われているため、霧島カレッジのすべてのコースに採用されることになった。
霧島プロダクションの社長室には、翔太と霧島、橘の三名がいる。
翔太が橘に霧島への面会を求めたところ、用件も聞かれずにOKをもらえた。
世界中のどこを探しても、無条件で霧島に会える人物は数えるほどしかいないだろう。
翔太は霧島にかなり信用されていると推察できる。
「ありがとうございます。それで用件ですが――」
「おぅ、なんだ?」
「MoGeと和解しませんか?」
想定外の用件であったのか、霧島と橘はぽかんと翔太を見つめていた。
「理由を聞こうか」
「はい、モバイルゲームの市場は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長しています。
霧島プロダクションの所属声優にとって、MoGeという選択肢を除外するのは機会損失になります。
MoGeとしても、霧島プロダクションと対立し続けるのは、今後のイメージ戦略上からすると避けたいでしょう」
「ふむ、まだまだ聞きたいことはあるが、ここまではわかった。橘はどうだ?」
「当事務所としては和竹個人の問題であり、示談も成立しているため、MoGeという企業そのものには敵対する理由はないかと」
和竹は、神代や蒼にハラスメント行為をした社員だ。
和竹は懲戒免職の処分を受けており、ハラスメントを受けた被害者にはMoGeからの補償がされている。
「今も表立って対立している訳じゃないが、それ以上踏み込んで仲良くしろってことか?」
「はい、非常に差し出がましい申し出ですが、資本提携をしてはどうかと」
「ほぅ」
霧島は驚きながらも興味深そうに促した。
「資本関係を持つことによって、ゲームに使われる音声のキャスティングで所属声優が優先して採用されることが期待できます」
「まぁ、そうだろうな」
「新人の声優にとって、アニメのオーディションなどは狭き門だと聞きました。
霧島カレッジの卒業生にとって、ゲームという最初のキャリアパスが作れると思います」
「なるほど」
霧島と橘は納得しているようだった。
「MoGeとしても、キリプロさんの所属タレントが広告塔になってくれる可能性があります。
また、霧島カレッジの声優コースの音声データを提供することで、MoGe側が金の卵を発掘するかもしれません」
「候補生がデビュー前に仕事がとれるチャンスがあるってことか」
「はい、その場合はMoGe側が支払う出演料が安くなることも期待できます。
霧島カレッジの候補生が仕事を受けられるかはわかりませんが」
「そこは問題ないですよ。前例もあります」
橘が補足した。
「それと、資本提携の交渉の場に神代さんが立ってもらうのはどうでしょうか?」
「映画の役作りですね。確かに似たようなシーンがありますね」
橘は映画の脚本が頭に入っているようだ。
「そこでも神代を入れるのかー」
霧島は感心していた。
以前にスターズリンクプロジェクトで、役作りを名目に神代を出資者の矢面に立たせたことがあったのだ。
「ここまではわかった。それで柊はなぜこの話を持ってきたんだ?」
霧島の発言に橘も同意した。彼女も気になるようだ。
「結局は、私利私欲なのですが――」
翔太の想定外の発言に二人は驚いた表情を見せた。
「理由は二つあります。
グロウでは、声優コースの音声データを機械学習のデータとして利用しています。
サンプルデータはあればあるほど学習精度が上がるため、MoGeが所有している音声データをいただきたいです」
「まっとうな理由だな。グロウの性能がよくなるなら、うちにとっても悪い話じゃない」
「もう一つの理由は、翔動はMoGeに出資することになりました」
「はぁ?」「え?」
二人は今日一番の驚きを見せた。
「ご存知の通り、MoGeは未上場企業ですが、上場する可能性があると思っています。
私と石動はそれに乗ることにしました」
「そんな簡単に出資できるもんなのか?」
「グリーンシートという制度がありまして――」
翔太はグリーンシートの説明をした。
「なるほど、それと資本提携のなにが関係するんだ?」
「はい、上場時の審査基準に、流通株式比率というのがあります。
この比率を高くする必要がありますが、そのためには大株主や役員以外の株を誰かに持ってもらうことになります。
資本提携は一般的には株式の交換で行われるので――」
「うちがMoGeの株を所有すれば、上場しやすくなるってことか」
「はい、そうなります」
「つまり、柊は出資した金を増やしたいから、うちを利用したいということだな?」
「……はい、端的に言うとそうなります」
霧島の怖い顔でこんなことを言われるとすくみ上がりそうだが、霧島の表情は明るかった。
「はっはっは、面白そうじゃねぇか。こんなこと一度もやったことがないぞ」
霧島プロダクションは発行株式の100%を霧島が所有している。
したがって、霧島プロダクションには資本提携の実績はない。
「で、それをやったときのリスクはなんだ?」
「相手が所有する持ち株比率に応じて、行使できる権利が生じます。
たとえば33.4%を所有されると株主総会の特別決議を否決できる権限があります
50%を超えると意思決定のほどんどを握られます」
「逆に言うと、そこまで持たせなければいいのか」
「はい、3%を超えると株主総会の招集請求権などがありますが、大きな権限ではないです」
霧島は「うーん」と唸っていた。
「橘、うちの資本規模はわかっているよな?」
「はい」
「じゃあ、その金額をもとに影響のない出資比率でMoGeに打診できるか?」
「え? 正気ですか?」
「おぃ、お前が言い出したんじゃないのか?」
「そうですが、即決されるとは思っていなかったので……」
翔太は理由が理由だけに、むしろ断られることを想定していた。
「向こうが乗ってくるかどうかはわからんだろ?
それに、提案だけならさほどリスクはないし、関係改善のきっかけにはなるだろ?」
「まぁ、そうですね」
翔太は未だあっけにとられている。
「梨々花はどうしますか?」
橘は交渉の場に神代を入れるかどうかを確認した。
「本人に聞いてみろ。間違いなくやるって言うだろうがな」
「はい、わかりました」
「それと、柊」
「はい」
「お前本当に20代か? サバ読んでないよな?」
(ギクッ!!)
翔太の内心の動揺をよそに、事情を知る橘はクスっと微笑んだ。