その日、俺は普通に学校へ行き、いつも通り友達とバカをやって過ごしていた。昼休み、担任が血相を変えて教室に飛び込んでくるまでは。
先生は、両膝に手をつき方で息をしながら、母さんが交通事故に遭い瀕死なのだと言った。俺は、スマホと財布だけを持って教室を飛び出した。
ベッドに横たわる母さんには、沢山の管が繋がれていた。特に外傷は無いが、打ち所が悪かったのか意識がないらしい。見慣れた母さんの顔に生気はなく、死体の様に蒼白かった。
静かな病室に小さく鳴る機械の音が、母さんの
俺は、ここでようやく状況を理解できた。一歩間違えれば、あの顔に白い布が掛けられていたかもしれない。そう思うと、その音に心から安堵した。それと同時に、震えが込み上げ膝から崩れ落ちた。
年配の看護師は、俺の背中をさすって励ましてくれた。そして、俺が落ち着くのを待ち、会議室のような部屋へと案内してくれた。そこで医師から説明を受け、その日はとりあえず病院に泊まった。
母子家庭で頼れる親族もおらず、俺は右も左も分からないまま、保険の手続きなどに追われる日々を過ごした。その間も母さんの意識は戻らなかった。
事故から1週間経ったある日。
いつも通り2回ノックをして、日課になった『母さん、来たよ』と言う声掛けと共に病室の扉を開く。すると、母さんがこちらを向いてベッドに座っていた。
「母··さん····? 目、覚めたの!? え、いつ? はぁぁぁ··、とにかく良かった」
俺は、母さんの前に跪き、膝の上に揃えられた手を握る。母さんの目は虚ろだったが、それでも開いているのだ。それ以上に嬉しい事はないと思った。
次の瞬間、俺はハッとして目に浮かんだ涙を飲み込んだ。
「そうだ、医者。先生呼んでくる!」
少し滲んだ涙を拭い、ナースステーションへ
ナースコール鳴らせばよかったのにと、後になって思った。余程気が動転していたのだろう。
医師の診察を受け、いくつか検査もして、異常は見つからなかったので2日後に退院した。
しかし、俺には気になる事があった。あのお喋りだった母さんが目を覚ましてからの2日間、必要最低限しか喋らなかった事だ。
そして問題もひとつ。記憶が混沌としていて、自分の事もまともに分からないらしい。医者の話では、普段の生活を送っているうちに戻る可能性があるとの事だった。
とにかく、俺たちは自宅に帰った。少しずついつもの母さんに戻ればいい、生きていてくれただけでいい。俺はそう思う事にした。
自宅に帰った母さんは、不思議そうに部屋を見回す。普通のアパートがそんなに珍しいのだろうか。それとも、早速記憶が戻りかけているのだろうか。
母さんは瞬きをひとつして、さっきまでの虚ろな目とは裏腹に、スッと鋭い眼差し見せた。17年間一緒にいるけど、一度も見たことがない顔だ。
そして、母さんは静かに、独り言の様な言葉を放った。
「なんだ、この陳腐な部屋は。これが人の
「何言ってんだよ。まだ広いし綺麗な方だろ。え、何その口調? 何のつもりだよ」
母さんは、俺を足元から頭まで舐めるように見る。それから、呆れ顔の俺に向け、片手をバッと翳して元気に言い放った。
「ふふん。よく聞け、小僧よ!
「なんだよ、そのめんどくせぇ設定は。つぅぁ貴様って····。あー、そういや小さい頃よくそんなごっこ遊びしたっけか。えーっと、我が名は
「······は?」
俺が真似をして名乗ると、母さんは顔を
それよりも、俺にはある疑問が浮かんでいた。
「なぁ、思ってたんだけどさ。なんか··、母さん縮んだ? つぅかずっと気になったんだけど、目ぇ覚めてから顔変わってね?」
事故で顔に怪我はしていないはずだ。けど、そういう話じゃなくて、目覚めてから少しずつ顔が変わってきてる気がするんだ。
まぁ、そんな事は有り得なないとは思うけど。
「おい、待て」
「ん?」
「誰が貴様の母だ」
「····はぁ?」
暫く、俺たちは見つめ合ったまま固まっていた。互いに状況が理解できずにいる。
時間にして、1分にも満たなかっただろう。しかし、俺にはもっと長く感じられた。
これ以上見つめ合うことに耐えきれず、俺は口火を切った。
「母さん····だよな? なぁ、俺の母さんの諏訪
「だから、我はエルオ··エラ····アル··ル······うぅっ」
母さん、もといエルオエ······アル? は頭を抱え
「だ、大丈夫か?」
そいつは、床を見つめたまま、また独り言を呟き始めた。
「うっ······あぁ、そうだ。我は偉大な魔法使い。王国随一の美貌を持つ、世界最厄の魔法使い。名をエルオエラ・アルル・ヴィーラ」
自分の正体が分かったかの様な、スッキリとした表情で俺を見あげた。そして、ゆっくりと立ち上がると、腰に手を当てふんぞり返って言った。
「あまりにも好き放題した所為で、全世界から指名手配されたのだ。仕方なしに転移してきたのだ」
「はぁ!?」
「いや、違うな。確か追い詰められて腹を突かれ····。はははっ、細かい事は憶えておらん。まぁ何でも良いわ」
豪快に笑うその顔は、もはや母さんではなかった。
「いや、良くねぇだろ! 何なんだよお前····。本当に母さんなのか?」
「だぁから、違うと言っておるだろう。貴様、もしやバカなのか? はんっ、可哀想に」
このムカつく奴は母さんじゃない。今確信した。いや、そう決めた。
母さんはおっとりしていてどうしようもない程ドジだったけど、こんな冗談なんて言わなかったし
何より、よく見るとやっぱ容姿が違う。よく似てるけど、ちょっと若く見えるしチビだ。元々俺より低かったけど、さらに小さくなっている。
一体、何がどうなってるんだよ。
わけが分からないけど、とにかく今日は疲れたからもういいや。最近、睡眠も充分ではなかったから、考えも上手くまとめられない。こんな状態で考えたって無駄だ。
「また明日話そう。俺、もう部屋行くわ」
母さんも、明日になれば落ち着いているかもしれない。そう、これは多分記憶が狂ってる所為だ。
俺は現実逃避をして、部屋へ足を向けた。しかし、シャツの裾を掴んで引き止められる。
「待て待て。我はどうすればよいのだ。何一つわからんのだぞ」
「えぇー····」
半信半疑のまま、一通り生活について説明した。そして、俺は自室に入りベッドに倒れ込んだ。
ゴロンと転がり天井を仰ぐ。本当に転生なんてあるのだろうか。いやいや。そんな小説みたいな事、あってたまるかよ。
けど、もし本当だったら母さんは────。
やめた。明日考えよう。