なぜ拓朗はあんな場所で亡くなったのか?
あの禍々しいものはいったいなんだったのか?
朔也はそれらの答えを求めて、拓朗の書斎を探した。
朔也の曾祖父から使っている古風だが品のいい桜材の机。その上は読みかけの本や、書きかけのメモなどでかなり散らかっていた。
メモに朔也は目を通していくが、これといって際立ったものが書かれているものはない。文具の買い物メモやら、本のタイトルが書かれたものなど。
後は、彼が調べたと思しき緋坂市の歴史に関わるもの。
朔也は拓朗の職業を、親の遺産で好き勝手に暮らす好事家ということ以外はまったく知らなかったが、ここに残されたメモを見る限り、郷土史家という言葉が一番彼の職業としてふさわしそうだった。
メモは走り書きばかりで、具体的な記事などは机の上のノートパソコンの中らしい。メモの内容はどれもこれも、朔也の興味を引くものばかりだが、今、興味に引かれるままにそれらを詳しく読み込んでいる場合じゃない。
かなり乱暴になりながら、それでもなるべく丁寧な扱いをするように心がけながら、朔也は引き出しを開けて中のものを確認していった。
だが、求めるものはなにもない。
引き出しの中にあったものは、文具の他には詳しく読み込まないと分からない書類や預金通帳、印鑑。そして度の入っていない眼鏡くらいだった。
「伊達眼鏡……か?」
自分で書いた本に、著者近影の写真を載せる際にかけたのだろうか。少なくとも、朔也は拓朗がサングラス以外の眼鏡をかけているのを見たことがなかった。
「こういう時、亡くなった叔父さんっていうのは、日記とかに詳しい事情を書き込んでおくもんだろ」
勝手な言い分ではあるが、残された者としてはぼやきたくなる。
深いため息をついてイスの背に寄りかかった時、キーという音と共に、隣室のドアがほんの少し開いた。
――また、忍び笑いの主が?
咄嗟にそう考えて身構えた朔也だったが、ドアはそれ以上開こうともせず、あの人を嘲るような忍び笑いも聞こえてこない。
朔也は叩歯法がいつでもできるように気持ちを整えてから、用心深くゆっくりとドアに近づいた。
ドアの隙間からはひんやりとした空気が漏れてきており、明らかに書斎と温度差があった。
――霊がいる場所は気温が低下するって話はなかったかな。
そんなことを思いながら朔也はドアのノブに手をかけ、そして思い切り引き開けた。
そこは窓がない真っ暗な部屋のようだった。
室内は空調が動いているらしく、やや肌寒く感じる温度になっていた。もちろん、霊の出現によって肌寒いのではなく、どこかにあるエアコンの作動音が聞こえてる。
ドアの脇を手探りしてスイッチを探し、室内灯の明かりを灯すと、そこは膨大な蔵書を押し込んだ書庫だった。
小規模な図書館か研究室を思わせる量の本の山。一万冊は超えるかもしれない本が、壁を埋め尽くした本棚に収められていた。
部屋の中央には小さなテーブルが置かれており、簡単な調べものができるようになっている。
テーブルの上は麟も片付けの手をつけないよう言われていたのだろう。拓朗が生前に調べものをしていたままになっており、何冊かの本が開かれたまま置かれていた。
棚に収められた書籍は、隠秘学、神秘学、心霊学、民俗学、伝承学といった宗良和尚と何日でも話し込めるジャンルのものばかりだ。
「叔父さんの趣味の部屋か?」
とりあえず、朔也はテーブルの上に開かれたままの書籍に手を触れてみた。その瞬間、ゾクリとする悪寒が背筋を走った。
手に震えが走り、肌寒いほどの室温でありながら、身体中から一気に汗が吹き出した。
その本は和綴じの本であり、紙質も年代を感じさせる黄ばんだ紙になっていた。事実、本当に古いのだろう。
本文は漢文――いや、中国語だろうか。
表紙を見ると、そこには達筆な字で『
なんとか読んでみようと試みたが、やはり中国語らしく、朔也にはまったく分からない。
いや、朔也の読み取りを阻んだのは言語の壁だけではなく、止まることのない悪寒と、朔也の心の内の叫びだった。
読んではならない。逃げろ逃げろと、朔也の中のなにかが彼に訴えかけてきていた。
――もう一冊の本は?
手にしていた『回教琴』をテーブルに置きながら、もう一冊の本に手を伸ばす。しかし、その本に触れる前から、その訴えは、より強く朔也を制止しようと警告を発した。
冷や汗が背筋を伝い落ち、鼓動が激しくなる。
顔から血の気が失せて行くのが朔也自身にも分かった。このままだと、貧血で倒れるかもしれない。そう思わせるほど、顔から血の気が失せ、そして本に伸ばした指先からも血の気が失せ、細かく震えていた。
乱れる呼吸を整え、朔也は激しい動悸を抑えようとしたが、高鳴る鼓動は平静を取り戻そうとない。
緊張から渇いた唇をゆっくりと舐めた朔也は、思いきって手を伸ばし、その本をつかんだ。
一瞬、目眩に襲われたように部屋が歪んで見えた気がした。
動悸が激しくなり、全身を悪寒が襲う。
朔也は床に膝をついてこみ上げてくる嘔吐感を抑え、全身を襲う悪寒から身を守るように自分の身体を抱きしめた。
どれほどの時間が流れただろうか?
朔也を飲み込もうとしていた悪寒が遠退くと、嘔吐感も治まり、ようやく身体の自由が取り戻せた気がした。
テーブルにすがりつくようにしながら立ち上がった朔也は、もう一度その本に手を伸ばした。多少の警告は感じるものの、先ほどのような凶悪な印象は感じられない。
もう一度、思いきってその本をつかんで表紙を見た。
英語で『ネームレス・カルト』と刻まれていた。
「名無しの……カルト?」
タイトルを自分なりに訳してみるが、朔也の知識の中にカルトと言う言葉の意味が記載されていない。あくまでも、カルトはカルトという言葉でしか認識していなかった。仕方なく、書庫の棚を漁って分厚い日本語辞書を引っ張り出してその言葉を探してみる。
『カルト。
特定の対象を熱狂的に崇拝したり礼賛したりすること。
また、その集団。異端的宗教』
辞書の最後の言葉である、異端的宗教というところに朔也は引っかかりを感じた。
しかし、辞書の言葉から推察すると、この本はどう訳すべきなのだろうか?
「名無しの熱狂異端集団?」
異端的宗教――
ネームレス――すなわち『名前のない神』を祀る異端的宗教に関する本なのだろうか?
開きっぱなしだった事から察すると、この二冊を拓朗は死ぬ直前まで開き、読んでいたのだろう。
名前の無い神。
姿の見え無い忍び笑いの主。
このふたつに共通点はあるのか?
忍び笑いの主に関して、朔也は名前すら知らない。もっとも、忍び笑いの主にも名前はあるのかもしれないが……。
――この本を調べれば、なにか分かるかな?
そう思いもう一度手にとってみようかと考えたものの、さっきの体験をまたするのではと考えるとためらいが出て来る。
それに本を読み込もうとしても、書かれている言葉が英語と中国語では、今の朔也には内容を理解することは無理だ。しかも『回教琴』は昔の本らしく、現在の中国語とは文字からして違っていた。
推理するための鍵は他にないかと朔也は辺りを見回したが、これといって見当たらない。
嫌々ながらも朔也はもう一度2冊の本のうちの、和綴じの方のページをパラパラとめくってみる。
今度は、さっきのような感覚に襲われなかった。
それならばと、安心して本を手に取りページをめくっていく。
すると、一枚のメモが本の間に挟まっていた。。
『鬼丕老海 倶津瑠 陀厳教団』
「はぁ……」
朔也は心底がっくりきて、大きくため息をこぼした。
せっかく見つかった事件を紐解く鍵と思しきメモだったが、朔也にはまったく理解できない言葉の羅列だった。
すべての文字は、走り書きのような乱暴な字で書かれていた。
「考えてみれば、これがあの忍び笑いに関係しているって確証はまったくないんだよな……」
がっくりとして朔也がテーブルの端に腰掛けた時、ドアをノックする音が響き、麟が戸口に姿を見せた。
「失礼いたします。薬師寺の宗高様がおみえになっております。リビングにお通ししてもよろしいでしょうか?」
「え? ああ、通して」
「かしこまりました」
正直、気詰まりしてる上に手詰まりになったために、宗高の来訪は朔也にはいい気分転換になる。
朔也は二冊の本に心の一部を引かれながら、書庫を後にした。