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第3話:鮮血の嚆矢(3)

 蛇口を捻るとステンレスの流し台に激しい音を立てて水が噴き出した。


 ロクにものが入っていない胃の中のものをすべて吐き出してもなお嘔吐は治まらず、胃液が喉を焼く苦痛を感じながらもしばらくの間、洗面台にすがりつくようにして朔也は吐き続けた。


 ――あれが、叔父さんの成れの果てか……。


 脳裏のうりに刻まれた拓朗の死に顔は、しばらくの間は拭い去れそうにない。


 交通事故死した傷だらけの両親の顔ですら、あの叔父の顔に比べたら安らかなものだと朔也には思えた。


 どうやったら、あんな死体になるのか?


 服毒自殺で悶え苦しんだりすれば、近い表情になるかもしれない。


 ――だが、あの目は……?


 朔也は顔を上げて目の前の鏡に映る自分を見据えた。

 そう、あの目は自分に恐怖をもたらした対象を見据えていた。拓朗の苦悶の顔を見て恐怖に歪んだ朔也の目と同じか、それ以上の怯えがあった。


「いったい、誰が……なんのために……」


 思いつくものは、拓朗のオカルト関係の親交の問題から発生した殺人なのではないかということ。

 拓朗は魔術や呪術は、隠された知識――隠秘学いんぴがく――として考え、その効力はあると信じていた。それは、彼を師と仰いでいた朔也も同じだ。


 この世あらざる苦痛を味わったのではないだろうか、と宗良和尚は言った。


 この世あらざる苦痛を与える魔術は必ず存在する。

 元々、魔術とはこの世ならざる力を具象化させる術なのだから……。

 人を死に追いやるまでの効力を発揮する魔術の存在は、朔也の知識では分からないが、普通に刺すなりされて殺されたのでは、あんな表情を刻んだままの死体は作れない。

 まして半ミイラ化した遺体などできるはずもない。


 ――つまり、叔父さんは呪殺じゅさつされた?


 そう結論づけるのは早いだろうか?

 不意に響いたノックの音に思考を遮られた朔也が振り返ると、戸口の所から心配そうな顔をした麟がこちらをのぞき見ていた。


「お加減は、大丈夫ですか?」


「うん……大丈夫」


 朔也はハッとして麟の顔を見た。


「麟さんは……叔父さんには会ったの?」


「拓朗様のお顔を、朔也様よりも先に拝謁するのは、礼儀に反すると思いましたので」


「そう……」


 見せるべきじゃない。

 そう思うのは間違いではない。少なくとも自分なら、恋人にあんな死に顔を見て欲しくない。


「叔父さんを愛してくれているのなら、死に顔は、見ないであげて欲しい」


「かしこまりました」


 どこか事務的な雰囲気の漂う返事だった。

 すでに先代となった淡島家に仕えていたメイド。麟の中での拓朗の存在はどれほどのものなのだろうか?

 そう朔也は考えながら、そっと麟から差し出されたタオルを受け取り、洗って水滴がついたままの顔を拭いた。


「ありがとう」


「いえ」


「和尚さんたちの所に、戻ろうか」


「はい」


「あ。叔父さんがしていた研究について、麟さんはなにか知っているかな?」


「申し訳ございませんが、存じ上げません」


「そっか。じゃあ、最近でいい。叔父さんを訪ねてきた人を憶えてる?」


 麟はしばらくの間、まぶたをとじて考え込んだ。


「麟が存じている限りでございますと、宗良和尚様、宗高様が度々お訪ねになられておりました。それ以外は、当家に訪ねていらした方はいらっしゃいません」


「ここ、数ヶ月以内でも?」


「はい」


 聞いていて小気味いい程に躊躇のない返事。

 だがそれは、事件の手がかりになりそうなものを朔也の手元から取り上げる返事だった。


   * * *


 緋坂薬師寺から朔也が自宅に帰った時は、午後九時を少し回っている時間だった。

 大きなため息をついてリビングのソファに座った朔也は、拓朗の事件をまとめようとした。

 数日内――早ければ明日にも、検死解剖が再開されるらしい。

 遺体の腐敗が思った以上に早かったために、警察の方も慌てているのだろう。冷却ゲル剤が見えない位置にぎっしりと詰め込まれていたにも関わらず、遺体からはかなりの腐敗臭が漂い出るようになっていて、棺の隙間からこぼれれ出ていた。

 人の腐敗臭――

 思い出しただけで胃の辺りがキュッと引きつり、鼻孔が身体から逃げたがる気がした。それほどまでに、朔也の嗅いだ腐敗臭は凄まじかった。

 なんとか臭いの記憶を追い払おうとした時、鼻孔をくすぐる優しい香りが部屋に広がった。

 それは朔也の目の前のテーブルに差し出された、紅茶のカップから広がる香り。


「ありがとう」


 朔也が礼を言うと、カップを差し出した麟は微笑して一礼し、部屋の片隅に下がろうとした。


「ああ、そうだ」


「なにか御用でもございますか?」


「いや、用と言えば用なんだけど……。麟さんは、これからどうするの?」


 切り出しづらい問題であったが、言わずに済ませておける問題でもなかった。


「これから……と申されますと?」


 だが質問された麟はその言葉の意味がわからず、キョトンとした顔で朔也を見つめ返した。


「麟さんは、叔父さんに雇われていたから、正直、僕はどうしたらいいのかわからない」


 拓朗の恋人としてメイドをしていたのか、それとも普通に雇われていただけなのか? そして今後も淡島家に雇われていてくれるのか? 朔也はそれらをはっきりさせなければならなかった。


 しかし質問された当の麟は、朔也の質問に困ったような顔をしてうつむいてしまった。


「麟……さん?」


 うつむく麟に戸惑いながら朔也が話しかけると、麟は顔を上げて朔也を見た。


「朔也様は……麟のことがお嫌いでしょうか?」


「そ、そんなことないよ。今だって、いてくれて助かってるし……」


「お暇を頂くと、麟には行く所がございません」


 淋しそうな表情をして語る麟の目の色に、朔也は見覚えがあった。

 それは、両親を亡くした時に鏡に映っていた自分の目だ。

 孤独と淋しさに染められた瞳――

 その瞳を見て解雇するなどと言うことができるほど朔也は冷たくはないし、この家で生活して行く上でも、ここをよく知っている人手は必要不可欠だった。


「なら……いてくれていいよ……。いや、違うな……。いて欲しい。いいかな?」


「はい。かしこまりました、御主人様」


「え……? あ、えっと……」


 御主人様という言葉に朔也は面くらい戸惑ったが、麟は彼がなぜそんなにも戸惑っているのか分かっていない様子だった。


「はい? なにか、問題でもございますでしょうか?」


「い、いや。その、御主人様というのは……やめて欲しいんだけど……」


 麟は小首をかしげて不思議そうな顔をして朔也を見た。


「かしこまりました。では、なんとお呼びすればよろしいでしょうか?」


「前のままで、朔也でいいよ」


「かしこまりました。朔也様」


 様づけも勘弁してくれと言おうとしたが、なんと呼ばせたらいいのか思いつかず、朔也は麟の言うそれを受け入れることにした。


 ――どうせ呼び方だけだ。


 そんなことよりも、さらに聞いておかねばならない重要なことが残されていた。


「えと、麟さんは……。その、叔父さんとどんな関係なの?」


 私生活に突っ込んだことを聞くのもどうかと思ったが、どうにも麟と拓朗の関係がつかめないために朔也は訊ねるしかない。これは、今後のためにも重要な質問だった。

 ところが、訊ねられた麟はさらにきょとんとした顔をするばかり。


「関係でございますか?」


「うん。えと、恋人とか……」


 麟はさらにしばらくの間、困ったようななんとも形容し難い不思議な顔をしていた。


「メイドとして雇っていただきました」


「そ、そうなの!」


「はい」


 メイドとして雇われていただけだと言う麟の言葉に、朔也は首を捻った。恋人でもないのに、いきなりメイド服を渡されてそれを素直に着続けられるものなのだろうか?

 それとも、麟にもそうしたメイド服を着たいという願望でもあったのだろうか?

 メイド喫茶からスカウトされてくるとしても、緋坂市にメイド喫茶なんてものはない。


「その服を渡されて、着るのに抵抗はなかった?」


 朔也の指摘に麟は自分のメイド服に目をやった。


「どこかおかしなところがございますか?」


「いや……ないけど。似合ってるし」


 素直な感想をもらした朔也に、麟はニッコリと微笑んだ。


「ありがとうございます。拓朗様より、これを着るようにといただいた服を着ているだけです」


「叔父さんから……」


「はい」


 雇われる時にもらったということは、拓朗が前もってメイド服を所持していたということは確実だった。彼の趣味の一端が葬儀中に朔也が想像していた通りだったのは、なんとも複雑な心境だった。


「朔也様に不都合がございましたら、すぐに着替えさせていただきますが」


「いや不都合はないです!」


 思わず即答し、その後、朔也はしまったというように顔に手を当てた。即答すると、拓朗と同じようなメイド好きに思われそうな気がしたからだ。

 もっとも朔也はメイドを嫌いではないし、ここまで完璧にその服装が似合っているのなら、そのままでいて欲しいとは思えた。


「麟さんは、名字はなんというの?」


 バツの悪そうな顔をしながら続けた朔也の新たな質問に、麟はまたきょとんとした顔を見せた。


「麟は、麟でございます」


 最近は自分の出身県名すら分からないアイドルがいるが、それだって名字くらいは分かるだろうに……。ちょっとだけそんな苛立ちを感じつつも、朔也はできるだけ分かりやすく言葉を選んだ。


「え? えと……ほら、僕の場合は淡島朔也ってなるじゃない。麟さんには?」


「申し訳ございません。名前に関しては、麟以外の記憶がございません」


 それは予想外の言葉だった。


「記憶に……ない?」


 行き場がなく記憶もないという麟。

 もしかしたら、拓朗は記憶を失い彷徨っていた彼女を保護する意味で雇い、メイドとして働かせていたのだろうか?


「えと、じゃあ給料とかは手渡し?」


「はい。毎月末に15万頂いております」


「15万って……安くない?」


「衣食住完備して頂いておりますので、それだけ頂ければ充分でございます」


「そっか」


「朔也様、麟にさんづけはいりません。そのまま麟とお呼びください」


「そ、そうなの?」


「はい。拓朗様にも麟とお呼びして頂いておりました。ですので、朔也様もそうお呼びください」


「わかった。じゃあ……えと……麟。もう一杯お茶をもらえるかな」


「かしこまりました」


 親しくもなっていない年上の女性の名前を呼び捨てにするということに抵抗を感じたものの、呼ばない理由が見つからず、朔也はそれをそのまま受け入れた。

 受け入れてばかりの気もするが、別に受け入れ難いものでもなかった。

 要は、自分が慣れればいいだけの話だった。


 ――それだけ。以上で今までの話は終わり!


 朔也は頭の中を、さっきまで考えていた事件の整理に無理矢理切り替えた。

 3日前に拓朗は帰らぬ人となった。

 それにしても、たった3日で人はあそこまで腐敗するものなのだろうか?

 静かにカップを置く音とともに紅茶の優しい芳香が、再び朔也を包み込んだ。


「麟さ……いや、麟」


「はい。なんでしょう?」


「叔父さんが最期にここを出て行く時、なにか変わったことはなかった?」


 紅茶を乗せてきたトレイを抱きかかえるようにしながら、麟はしばらく考え込んだ。


「拓朗様は、あの日は郵便局に行かれると言って出て行かれました」


「郵便局?」


「はい。麟が参りますと申しましたが、自分で行くからとお出かけになられました」


 郵便局に行くと言ってそのまま帰らぬ人となった。

 もしかしたら、なにか大切なものを郵送しようとしたのかもしれない。

 その郵便物はどこへ?

 もう送り出されてしまったのか、それとも殺害した相手の手元に行ってしまったのか? そのどちらかなのだが、殺害の目的がその郵便物だった可能性が高い。


「その時、当然郵便物を持っていたんだろうけど、それについて憶えているかな?」


「小包をお持ちでした。30センチくらいの本が1、2冊入るくらいの大きさだったかと記憶しております」


 しかし、その郵便物が犯人の狙いだとしても、朔也にかけられている佐久間刑事の疑いを晴らすことは到底無理そうだった。

 遠方にいたことなど、あの刑事はアリバイとして認めないだろう。誰かに指示して殺害を行わせることだって可能だ。


「学生の抱える問題じゃないよな……」


 朔也は文字通り頭を抱え込んだ。

 殺人容疑と叔父の謎めいた死なんて、右も左もわからないような小僧の抱え込める問題ではない。


「朔也様。お疲れのご様子ですし、今夜はお休みになられてはいかがでしょうか?」


 差し出がましいことを言って申し訳ありませんがという顔をした麟の言葉に素直に従うことにした。

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