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第2話 Incident

 朝夕の涼しさに肌寒さを感じるようになったある日。智樹の彼女が押し掛けてきた。

 智樹は高校からの友人だ。漸くできた彼女を交え、よく3人でつるんでいた。それなりに仲は良かったと思う。


 けれど、まさか家にまで押し掛けてくるとは思わず、智樹に連絡して『早急に引き取れ』と言った。1時間くらいで来ると言っていたが、それまでは愚痴を聞く羽目になるのだろう。ウンザリだ。

 幸い、蒼弥はまだ学校だ。帰るのは、部活を終えて7時頃になると言っていた。面倒にならないよう、それまでに帰らせなくては。


 そう思っていた矢先、蒼弥が帰ってきた。玄関で彼女の靴を見て、おそらく盛大に勘違いをしたのだろう。

 リビングの扉を静かに開け、俺と彼女を見て立ち尽くす。その場の誰も声を出せぬまま、体感にして数分が経った。けれど、実際は数秒だったのだろう。

 俺は、取り繕うように蒼弥へ声を掛ける。


「お前··部活は?」

「休みになった」

「あー··そうか。えっと、蒼弥····彼女は──」


 蒼弥はそれ以上俺の言葉を聞かず、手を掛けたままだったノブを引いて扉を閉めた。


「おい、聞けよ。違うんだって。蒼弥、待てって! 蒼弥!!」


 家を飛び出した蒼弥を追い掛ける。咄嗟にサンダルを履いてしまったから追いつけない。それでも、必死に蒼弥の背中を追う。


 友達の彼女が押し掛けてきただけ。痴話喧嘩の愚痴を聞かされていただけ。それだけなのに、なんでそんなに怒るんだよ。

 俺の恋人はお前だ。そう言おうとした瞬間だった。

 蒼弥は、信号無視をして横断歩道に突っ込んできた乗用車に跳ねられた。小柄な蒼弥は遠く跳ね飛ばされ、十数メートル先に頭から落下した。


 もう間もなく秋が訪れる頃、蒼弥はこうして事故に遭った。どう考えたって、俺の所為だ。

 蒼弥の身体が浮き上がった瞬間、俺の視界から色が失われた。蒼弥から零れ出る赤だけが、不気味なほど鮮明に色を持っていたのを覚えている。


 俺が駆け寄った時、意識はあったが喋る事はできなかった。けれど、虚ろな目で俺を見つめ、何かを伝えようと必死に口を動かしていた。

 頭から大量に出血していたので、動かしてはいけないと思った。だから、抱き締める事もできなかった。冷たくなってゆく手を握って、涙をボロボロ落としながら蒼弥の名を叫び続けた。


 救急車が到着して、一緒に乗り込む。救急隊の邪魔にならないよう隅に寄って座る。病院に着く手前で、心停止した蒼弥を見て絶望感に打ちひしがれた。

 緊急手術が行われる。両親が来るまで、俺はベンチに座り放心状態で血塗れの手を見つめていた。

 父さんが着替えを取りに行ってくれて、言われるがまま着替えて手を洗った。流れてゆく血を茫然と眺め、蒼弥の落ちてゆく体温を思い出し嘔吐した。静かに溢れて落ちる涙が止まらない。


 5時間にも及ぶ手術を終えた。懸命な治療のおかげで、蒼弥は息を吹き返したのだ。集中治療室に入り、沢山の線に繋がれている。後遺症に関して、現段階では何とも言えないらしい。

 それでも、生きていてくれるなら何でもいい。俺は、病室の前で声をあげて泣き崩れた。



 事故から3日経った深夜、蒼弥が目を覚ました。たった3日でやつれた蒼弥。目を開けるだけでもやっとのようだ。

 急いで先生を呼び、一通りの検査を受ける。特に後遺症もなく、回復の速さは奇跡に近いと言われた。


 けれどひとつ、俺だけが困っている事がある。これは誰にも言えないから、どうしようもないのだけれど。

 どうやら蒼弥は、俺への想いを失くしてしまったらしい。だからと言って、これまでと特段変わったことはない。ただ、キスをしなくなっただけ。その程度の事だ。


 これで良かったのかもしれない。誰にも祝福されない恋なんて、蒼弥が苦しむだけなのだから。

 そうだよ。結果オーライだと思えばいいじゃないか。


 誰にも何も打ち明けられないまま、家に帰って独りで朝まで泣き通した。これは、俺だけが胸に秘めているべきなのだ。頭では理解できても、心が崩壊しそうで怖かった。

 もう一度、蒼弥とキスをしたい。これは、二度といだいてはいけない想い。俺は、蒼弥への想いを捨てる決意をした。


 蒼弥は、2ヶ月で退院できた。そして、母さんの反対を押し切り、俺の家に帰ってきた。

 恋人としての記憶だけ、すっぽり抜けている様で、それ以外はこれまで通りブラコンらしい。なんとも都合のいい記憶喪失だ。



 怪我は順調に回復していき、これと言って大きな問題もなく、事故から約1年が経った。

 骨折していた足のリハビリを終えた祝いに、蒼弥のリクエストでクラゲが漂う海に来ている。時期が時期なので、もう入れやしない。一体、何をしに来たのだろうか。


「お前さ、海入れないのに来て何がしたいの?」

「んー? なんか思い出せそうなんだよね」

「····何を?」

「なんかねぇ、事故に会う前のさ、大切な事忘れてるみたいな····モヤモヤすんだよね」


 この1年、そんな事を聞いた覚えはない。いや、蒼弥自身も曖昧なのだろう。このまま忘れていたほうが、きっと蒼弥にとっては良いはずだ。


「気の所為だろ。それよりさ、そろそろ帰ろうぜ? 海辺さみぃわ」

「····うん。そうだね」


 意気地なしの俺は、蒼弥を連れて家に帰った。ガラガラの電車だが、今日は手を繋がない。俺達は、ただの兄弟だから。


 まだ体力が万全ではない蒼弥。家に着くと、シャワーを浴びて夕飯も食べずに寝てしまった。

 俺もシャワーを浴び、そっと蒼弥の様子を見る。事故後、何度か夜中にうなされていたことがあった。その度、ベッドに潜り込んで背中をさすって落ち着かせた。


 今日も少し魘されている。最近は落ち着いていたのに、疲れたからだろうか。

 いつものように、蒼弥の横に寝転がり、起こさないように背中をさする。すると、ポロッと涙を零し『好きだよ』と言った。

 自惚れなどではなく、直感で俺の事だと確信した。夢の中で、俺を想って苦しんでいるのか。そう思うと胸が痛んだ。

 今日だけ。そう誓って、眠る蒼弥の瞼にキスを落とした。そのまま忘れてろ。そう願って、俺は涙を飲んだ。



 翌朝、蒼弥は変な夢を見たと言う。魘された翌日は、決まってこうなのだ。

 内容は覚えていないが、なんだかモヤモヤするのだとか。記憶喪失に薄らと気づいているのも、どうやらこれの所為らしい。


 俺はいつも通り、『思春期だねぇ~』とおどけて返す。『揶揄うな』と怒られるが、それでいいんだ。もう、苦しいのは俺だけでいい。




 季節は過ぎ、蒼弥の卒業が近づいてきた。

 このタイミングで、本格的に一緒に住もうと言いだした蒼弥。ルームシェアの方が、色々と都合がいいと押し切られた。俺としては、いささか都合が悪い。


「兄ちゃん、彼女も居ないんだしいいじゃん」


 ソファでテレビを見ながら、憎らしく悪態をつく。俺の膝を枕にして寛いでいるが、これは昔からそうなのでイチャついているわけではない。


「お前、ホント可愛くねぇのな。お前だって居ないだろ」

「まぁ····しょうがないじゃん。告られたからって、好きでもないのに付き合うの嫌だし」


 蒼弥はそう言って、ずっと彼女を作っていない。かくいう俺もそうなのだが。

 両親の心配を他所に、未だに仲の良い兄弟を演じている。俺はきっと、一生このままだ。

 蒼弥に恋人ができて、嫁ができて、子供ができて、甲斐性のない兄ちゃんに小言を言い続ける。それでいい。


「付き合ったら好きになるかもだろ? ····試してみろよ」


 心にもない言葉を押し出し、重力が倍にでもなったかのように目を伏せる。

 笑えていただろうか。兄を演じられているだろうか。時々分からなくなる。


「俺さ、多分兄ちゃんより好きになれる気しないんだよね」


 不意に耳を貫いたその言葉に、思わず身体が硬直する。


「な、何言ってんだよ。ブラコン過ぎると兄ちゃん困るんですけど~。そろそろマジで兄離れしろよな」


 動揺を隠そうとコーヒーを啜る。けれど、蒼弥が引かない。


「俺さ、忘れてる大事な事って、絶対兄ちゃんに関係してると思うんだよね」

「へぇ····、なんで?」

兄ちゃん家ここでしか見ないんだよ。いつもの変な夢」

「ふーん。ま、いつも言ってるけどさ、気の所為だって。んな事気にしてないでさ、彼女作んな? 絶対楽しいって」


 テレビから流れてくる、賑やかしい番組のけたたましさに助けられた。声の震えを、幾分かは誤魔化せたはずだ。

 しかし、蒼弥は予想以上に俺の機微に聡かった。


「つぅか兄ちゃんさ、ずっと何か隠してるよね」

「····隠してねぇよ」

「嘘だ。兄ちゃんの顔見たら分かるし。ね、知ってるんなら教えてよ。俺が忘れてる“何か”を····」


 覚えていないくせに、妙に熱を持った瞳で真っ直ぐ俺を見つめる。

 あぁ、これは誤魔化しきれない。それは、自分の心も同様に。だから俺は、意を決してある提案をした。


「俺が今からする事で····、思い出せなかったら諦めろよ」

「······わ、わかった」

「目、瞑れ」

「えー····痛い事しないでよ?」


 怖々目を瞑る蒼弥。俺は、蒼弥の前髪を掻き上げて、瞼にそぅっとキスを落とした。

 久々に見る、頬を赤く染めて一驚する、愛らしくて抱き締めたくなる顔だ。そんな蒼弥に、俺から贈れる言葉はこれが限界だった。


「意気地なしで··ごめん」


 蒼弥は唇を尖らせ、『狡い』と言って俺の胸に顔を埋めた。




fin


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