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第2話 都会の女子高生

「獏!」

 語調の強い、しかし焦りの含まれた声が庭の方から聞こえ、獏は動きを止めた。振り返ると、呼吸を乱した陶子が目を見開き、こちらを凝視している。彼女は大股で近付いてくると、効手を一閃させて獏の右手を強く打った。長い黒髪が視界に流れる。畳に転がった文房具は、文机の下に潜り込んでしまった。しゃがまない限り取るのは不可能だ。

「…………」

 それを目にした彼の瞳には生気が戻り、泣きそうな表情に笑みを乗せる。

「毎度毎度、怖いくらいにタイミングが良いですね。陶子さんは」

「本当にね。毎度毎度、よくもまあ同じことを繰り返すもんだ」

「何かもう、自分との戦いというよりも陶子さんとの戦いのような気がしますよ」

 陶子は、やれやれという風に肩の力を抜くと、四つん這いになって文机の下に入り、凶器となりかけたものを拾って刃をしまった。次に、懐から大振りの絆創膏を取り出す。随分と準備が良いな、と獏は感服してしまう。

 カバーを剥がして素早く手当てを済ませると、陶子は患部をぺしりと叩いた。痛みに顔をしかめていると、彼女は豪快に笑う。

「それだけ軽口が叩ければ大丈夫だね。まあ、気晴らしに散歩でもしてくるが良いさ。今日は良い天気だからね」

「この寒いのに、散歩ですか?」

 獏は改めて外を眺める。確かに晴れてはいるが、空以外に何があるのかというと、砂色と茶色に包まれた乾燥した大地や幹があるだけだ。雀は飛んでいってしまったし、生命を感じさせるのは、庭の中央にある池から顔を出している亀くらいのものだろう。脳天気な表情をして、のんびりと日光を浴びている。ああ、亀にご飯を上げないと。

「寒くても散歩してる誰かさんが居るんだよ。獏、朝飯に間に合うように連れ帰ってくれたら助かるんだけどねえ」

 宮景旅館の朝食は、客の都合に合わせて時間を決めている。客と従業員が同じ部屋で食事をするなど、普通の旅館ならまず有り得ないが、双方の人数が少ない為、ここでは全員が家族のように集まって卓を囲むのが慣例になっていた。

 とはいえ、客自体来ることが非常に稀な為、実際は、獏達に都合の良い時間に自然に集まり、箸を取る。低血圧である料理人の写楽が無理なく準備が出来、他の面々の胃袋が目覚め始める午前八時半。この時刻が訪れるまでには、まだ優に二時間はあった。

「……わかりました」

 誰かさんというのがどの人物を指しているのかは訊くまでもない。苦笑して、土の上に放置してあるスニーカーに足を通す。

「獏」

 歩き出そうとした時、見送りの姿勢をとっていた陶子が声を掛けてきた。振り向くと、彼女は笑みを消して、悲しそうな顔でこちらを見ている。

 次にどんな言葉が来るのか、獏には容易に想像がついた。新しい家族が訪れる度に繰り返される儀式のようなものだ。しかし、それは決して演技ではない、確かな感情を伴ったやりとりである。

「もう、やめないか?」

 思った通りの台詞に、いつも通りの答えを返す。

「僕は死ぬまで、やめる気はありませんよ、陶子さん」

 彼女の懐に隠れてしまったカッターが、脳裏に浮かぶ。どういう形で死ぬかというのは問題ではなく、ただ、自らの意識がかき消えるまで。

「これは僕の、生きる糧ですから」

 獏はそう言って、陶子に背を向けた。この後、彼女がどんな表情をしているのかは、確認したことが無いから分からない。分かる日も来ないだろうし、分かりたくもない。


 椿はどうして早朝から外に出たのだろうか。単なる散歩なら良いが、朝の間に宮景村を脱出しようとしている可能性もある。脱出したところで、次の人里に辿り着くのは簡単なことではない。見つけるのも容易だろう。だが、心配は募る。

(昨日は七草に行っていたようだし、そこから当たってみようか)

 本人から聞いたわけではないが、優月の服を着ていた為に行き先は直ぐに判った。赤いコートは――あの店主のものではないが。

 しかし、喫茶『七草』へ向かう途中で獏の目的は果たされた。大根畑の近くに、あの少女が立っている。

 赤いコートの色が茶色の世界に映え、遠くから見ても椿であることが一目瞭然だった。畑仕事をしている、短めの髪を逆立てた肌の黒い青年と話している。この距離では話の内容までは聞き取れないが、たまに聴こえる甲高い笑い声が、盛り上がっていることを伺わせた。

 獏が近付いていることに気付かないのか、彼女は会話を止めようとはしなかった。

「えー、じゃあこの大根、くれるの? 本当に?」

 土の付いた白い野菜を、両腕で抱えた状態で言っている。大根を抱える前に訊くべきことだろうと思ったが、青年はそれについては特に何も言わなかった。

「おう、やるよ。今日だけでなく、来てくれたら毎日でもやるぞ」

「いやあ……、毎日はちょっと、飽きるかもなー」

「ああん? 大根に飽きるとかあり得ないだろ? ……おっ! 獏の旦那じゃねえか。おはようございます!」

「どうも、朝から精が出ますね」

 柔らかな笑みを浮かべ、獏は軽く手を挙げた。青年――創(はじめ)は筋肉のついた腕を振ってくる。彼に会釈してから、先程まで浮かべていた笑顔をすっかり引っ込めている椿に顔を向ける。

「もう村の人と仲良くなるなんて凄いな。流石……」

 ――僕の作品だ。彼は危うくそう言おうとして、思いとどまった。村人には宮景性のよそ者について、都会からやってきた親戚だと説明してある。写楽を介して特に親密になった『喫茶 七草』の店主、優月でさえ人造人間云々という話は、恐らく知らないだろう。

「都会の女子高生だ」

 椿はほんの少しだけ片眉を上げる。しかしすぐに挑発的に笑い、綺麗な歯並びを見せて彼女は言った。

「そう。都会の女子高生だから」


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