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第1話 刹那の少女の風景

 汚れも風化も無い白く綺麗な壁に、白い袖無しのワンピースを着た少女が背中を預けて座っていた。毛先がまばらな、最低でも二ヶ月は染めていないだろう頭頂部が黒い金色の髪が床に広がり、除去しきれていない窓の破片と混ざり合っている。窓は完全に割れていて、外の空気が室内に入り込んでいた。

 光の灯ったその双眸を以ってしても、少女からは人形という印象を払拭出来なかった。陶器の様に真っ白い、栄養が足りていなさそうな彼女に菓子パンが三つ入っているコンビニの袋を差し出す。右手でそれを受け取り、思いの他楽しそうに笑う彼女を見ていると、彼の中に穏やかな空気が流れ込んでくる。袋を一旦床に置いてからあんパンを取り出し、少女はこちらへとそれを寄越した。素直に貰い、歯を使って袋を破ってパンを齧ると、彼女も同じようにしてクリームパンを口へと運んだ。彼女の左手には包帯が巻かれていて、スマートフォンを持つ手の甲に、血が染み出していた。彼も右手に包帯を巻き、やはり血を滲ませていたが、買い物に行く時のカモフラージュとして皮の手袋を付けていた為、傍目には気にならなかった。解けかけた包帯が少しだけ脇から垂れていたが、そこに赤い染みは付いていず、他人が見ても騒がれることはない。

「おいしいね、あかり

 唇の端にパン屑を付け、少女は無邪気に笑う。

 束の間だからこそ愛しく、大切な二人だけの時間。

 幸せを噛み締めるように、彼は笑った。


「裏切り者!」

 割れた窓から差し込む人工的な光が、電気の灯っていない家の中を昼間のように照らしていた。玄関口までスーツの男二人に引きずられた少女は、押さえられている左腕を無理矢理に伸ばし、そう叫んだ。その手首には銀色の輪が掛けられ、もう一つの輪が所在無さげに揺れている。

 彼は、彼女に助け船を出さぬまま、ただ見詰めることしか出来なかった。毛布に包まり、不安や後悔、恐怖を抱え、逸らすことが大罪に値するかのように、包帯の巻かれた左手を凝視し続ける。自分を心配する大人達の声が四方から掛けられていたが、それは、扉一枚隔てた先から聞こえてくる雑音にしか感じられなかった。

 やがて、そう間を置かずに少女は男達に因って外へと連れ出され、玄関の閉まる音と共に姿を消した。

 涙の流れない瞳に焼きついた、涙で濡れる少女の顔。それがこの先、絶対に忘れられない枷になるだろうことを、彼は既に悟っていた――


「獏? 獏、どうしたの?」

 甲高い、それでいてささやかな声が耳元で聞こえた。獏は我に返り、話しかけられた方に視線を向けると、自分の肩の上で雀が羽を休めていた。寒さの為に羽毛を最大限に逆立てた雀は、微動だにせず彼を見上げている。困惑した表情が、なんとも可愛らしい。

「いや、なんでもないよ。少し寝不足でね、ぼけっとしていたみたいだ」

 彼が苦笑すると、雀は安心したように飛び立ち、十メートル程先にある枯れ木に止まった。そうして、先客の雀と何やらさえずりあい始め、数秒もしない内に今度は二羽揃ってどこかへ飛び去っていった。

 それを見届けてから、獏は座っていた縁側から立ち上がり、障子を開けて自室へ入った。正面にある窓の下には文机が置かれ、その上にあるデスクトップパソコンが窓の一部を塞いでいる。電源の付いていないパソコンには、朝の光が僅かながら降り注いでいた。縁側が東にある上に、西には森が広がっている為、窓からは殆ど日光が当たらない。何故こんな設計にしたのか、是非とも当人に訊いてみたいところだが、この建物は陶子が子供の頃からあったらしいので、それは無理だろう。

 獏は、北側の壁を埋め尽くしている棚へと歩み寄った。棚の中には、隙間という概念を一切認めないというかのように透明アクリルケースがぎっしりと詰まっている。左上段からフロッピーディスクの入ったケースが続き、次にCD-ROM、DVD-ROMと中身の形態が変わっていく。

 中段には引き出し型のケースがあった。一段ごとに仕切りで綺麗に整頓されていて、沢山のUSBメモリーが一つずつ入っている。一番手前の端から赤いUSBメモリーを取り出すと、獏は文机の横にあるパソコン本体にそれを差した。電源を入れ、木製の座椅子に腰を落ち着ける。

 USBの中にはテキストファイルがあるだけだったが、サイズは膨大であり、記録可能な容量分を埋め尽くしている。ファイルを開き、文字で埋め尽くされたその内容をなるべく見ないように目を逸らしながら、終盤までスクロールする。そこには、先程脳裏で展開していた光景が、そのまま写し取られたように事細かに記されていた。

 ボタンを押して強制的に電源を切りたくなる強制的衝動を抑え、手順に従って電源を切る。

 そして彼は、文机の引き出しをそっと開けて、中からカッターを取り出した。濃い黄色の、中央が黒い典型的なものである。

 獏は、無言のままその刃を出し、自らの手首へと当てた。あの雀達が飛び去って以降静寂に包まれている庭を背景に、彼の手に力がこもる。刃先が沈み、白すぎる肌に一ミリ程度の赤い水滴が浮かび上がった。とんでもないことを実行しようとしている筈の彼の瞳には何の感情も湧いておらず、まるでのっぺらぼうのようである。

 更に手に傷をつけるべく、カッターの背に人差し指を当てて刃を滑らせようとした時――

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