自分を押し潰す見えない荷物から解放されたような、すっきりとした笑顔だった。
「誰がどんな判断を下すのは自由だし……すっげーネガティブな仮説にはすっげーポジティブな仮説も必要かもな」
「…………」
あまり、肯定された気がしないのは思い過ごしだろうか。
「……なんか、嬉しくない」
つい、頬を膨らませてしまう。
「そういう顔をすると、小学生みたいに見えるな」
苦悩を滲ませたような影は感じない、妹をからかう兄のような温かみだけが伝わってくる。
「少なくとも、小学生じゃない自信はあるわ」
「そうかあ? 背も低いし、意外に小学生でもおかしくない……」
胸を張る私を、わざとらしい笑みと共にじろじろと見てくる。その顔が不意に曇った。口を閉ざしてしまった理由が分からず、明るくなりかけていた空気を戻そうと私は笑う。
「何よ、まさか本当に子供だと思って……」
冗談めかして言おうとして、ふと気づいた。私は――
「……私って、いくつなんだろう」
人造人間なら生まれたばかりで、見た目の年齢に意味は無いだろう。でも、記憶が無いだけなら、私は相応の年月を生きてきた筈なのだ。
それは、何年……?
「そんなことすら、分かんないんだね……」
束の間忘れていた、寂しさと心許なさが戻ってくる。ひたすらに、情けない。
だけど、それも記憶さえ取り戻せば判るのだ。
(ううん……)
そもそもの話――
(……写楽も私も、記憶を取り戻すこと前提で話していたけど……)
一度失くした記憶が戻ってくる保証などないのだ。一生戻らない可能性だってあるし、私達が記憶喪失であるということが確定したわけでもない。
獏の荒唐無稽な説明が嘘であるとはまだ言い切れない。0.0000000001%くらいは真実である可能性もある。
(――でも)
不安を振り落とすように頭を振って、私は写楽を見た。表情を険しくしたまま黙ってしまった彼に、ふてぶてしく笑ってみせる。
「写楽。……私が、あんたの考えが杞憂だってことを、証明してあげる。そして、私がピチピチの女子高生だって教えてあげる」
彼は、気になっている全てを忘れたような顔になって目を瞬かせ――首を傾げた。
「ピチピチの女子高生……?」
結局、戻る場所はあの和室のある家――旅館らしいが――しか無い。
何より、私自身あそこに戻りたい。戻って、真実を突き止めてやるのだ。
喫茶『七草』を出る前に挨拶をしようと、物置を通って二階へ行き、玄関チャイムを押す。少し待っても扉は開かず、名前を呼んでみる。
「優月さん?」
セーターの毛糸の隙間を通って、冷たい空気が肌に刺さる。暖まっていた体が急速に冷えてきて、身震いする。
「……ああ、今行くね」
扉に阻まれて小さくなった声が聞こえる。数秒後に玄関が開いた。
「どうしたの?」
「獏の家で生活することにしたから、挨拶しようと思って」
帰る、とは言いたくなかった。優月さんは「そう」と気軽な笑顔を浮かべ、玄関先に置かれた二つの紙袋を振り返った。
「じゃあ、これ持って行って」
まずは、袋の片方に置いてあった赤いダッフルコートを渡してくれる。
「寒いでしょ。先に着ちゃって」
「う、うん、ありがとう……」
コートに袖を通すと、暖かいとまではいかないが、冷気が肌まで届くことはなくなった。
「うちに泊まるって言うかと思ってたよ」
肩を預ける形で玄関ドアを押さえている優月さんの言葉に、私は静かに首を振った。
「そこまで迷惑かけられないし……あいつから逃げる理由もないし」
「……そっか、頑張ってね」
渡された紙袋を受け取って階段を下りようとして、写楽の話を聞いてからずっと引っ掛かっていたことを訊ねてみる。
「ねえ、優月さんはいつからこの村に居るの?」
彼女は、写楽は私と同じように白い着物一枚で川原に立っていたと話してくれた。その前に面識が無かったのなら、写楽の『今の自分が何度目か分からない』というのは杞憂なのではないだろうか。
「私? 二年くらい前だけど、それがどうかした?」
「あ、ううん、何でも……写楽がこの村に来たのは一年前だったんだよね?」
「そうね。一年前だった」
その答えに迷いはなかった。私は安心して、再び階段に足を向ける。
「私が覚えてる限りは……だけどね」
数段下りた時に聞こえた声に振り返ると、閉まったドアの鍵がかかる音がした。
*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*
喫茶店を出て、写楽と一緒に土を固めただけの道を歩く。今度は、自分の足で。貰ったスニーカーはぶかぶかで、紐を思い切り縛っている。
立ち並ぶ家々からは、夕餉の良い匂いが漂ってきていた。流石にもう食べたいとは思わなかったけれど、この村で、初めて人が生活しているのだということが実感出来た。
写楽は、何を考えているのか店を出てからは一言も喋らなかった。見上げる空は真っ黒で、私の知っている夜空とは一線を画していた。そのまま星座が作れそうな位の星が光り、街灯なんかどこにもないのに周囲が明るい。
昼間は、ここが地球上にある、ごく普通の土地に見えたけれど、実はやっぱり、別世界ではないかと疑いたくなる程に知らない世界だ。ネオンも騒音も排気ガスも無い夜なんて考えられない。
そういえばと、私は写楽の背中に声をかけた。
「ねえ、この村って、自動車は走ってるの?」
彼は振り向いて、存外に明るい笑顔で答えてくれた。
「ああ、一台だけあるよ。みんなの作った物とか、まとめて回収するのに必要だからな」
「ふうん……」
そのうち、一瞬だけ見覚えのある家屋が近付いてきた。改めて見ると結構大きい。
何を思ったのか、突然写楽は立ち止まる。
「……本当に、いいのか?」
この敷居を越えたら、もう後戻りは出来ない。多分彼は、暗にそう言っているのだろう。
私は黙って彼の前方に周り込み、半眼になってその顔を睨んだ。
「なに、まさか野宿しろって?」
その返答に苦笑して、彼は再び歩き出す。
「この時期に野宿したら凍死しちまうよ」
宮景旅館というぼろい看板がある門を通り、石畳を歩く。入り口の戸を開けると、そこには獏が立っていた。左頬が湿布に覆われている。
「……おかえり」
それでも柔らかな笑顔を浮かべて言う獏に、私は目を合わせないようにして渋々と答えた。
「……ただいま」