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第6話 現実逃避

「えっ、なんで!?」

 驚いた反射で、私はカウンターに両手をつき、立ち上がった勢いでスツールを倒す。フローリングの床に重い金属が衝突する音が耳に響いたが、それを気にする余裕はない。どんな意見が来ても受け止められるように覚悟していたつもりだったけれど、やはり私は、無意識のうちに、現状への否定的な言葉が返ってくると思っていたのだ。

「そりゃあ……いろいろ考えた上で、そう思ったんだよ」

 写楽は困ったようにぽりぽりと頭を掻き、目を逸らした。

「いろいろ考えて、どうしてそういう結論になるわけ?」

 呆れと驚きと多少の怒りを覚えながら、正面から睨みつける。それをちらりと一瞬だけ見返し、彼はそっぽを向いたまま話し出した。

「……俺は、宮景村が好きなんだ」

 口を挟む余地の無い台詞に、素直に頷く。

「都会の都の字もないど田舎だけど、自然が一杯だから空気も綺麗で、川も綺麗で、不自由さなんてちっとも感じねえ。むしろ、自由過ぎて困るくらいだ。だから、村人達もいつも笑顔だし、争い事も滅多に起きない。みんな、心に余裕があるんだよ」

 こんなにのんびりと、楽しく過ごせる場所、他にあるか? と彼は笑った。

「俺は、この村に住んでいる全員が好きだ。獏だって好きだし、陶子さんは綺麗だし。今の生活に、不満なんか一つもないんだ。だから――」

 彼の笑顔は、腹立たしいくらいに、純粋で、無邪気な笑みに見える。だけど、どこかに哀愁めいたものが混じっているような気もする。

「人の首が伸びようが、俺が誰に造られようが、人間だろうがそうじゃなかろうが、そんなのは悩むほどの事じゃない。些細な、どうでも良い事なんだよ」

「………………」

 私は、ぽかんと口を開けてしまった。そこはどうでも良くないだろう。写楽の思考回路は、自分とは全く違う物質で構成されているのだと、今更ながらに自覚する。

「つまり、獏の説明を信じても良いという結論になるわけだ。好きな奴を疑うのは、気分の悪い事だからな」

「それは……ただの、現実逃避なんじゃないの?」

 開けていた口を閉じて、感じたことをそのまま言う。相手の笑顔の口元が、ぴくりと動いた。

「あんたがここ以外のどこを知っているのか、この村とどこを比べてるのかは知らない。だけど、ごちゃごちゃした都会で時間や人間関係に追われてたら、田舎が理想に思えるのは当然だよね」

 私だって、川辺で思ったのだ。


 ――ここは桃源郷みたいだって――


「でも、そこで、分かんないこと全部をほっぽって、何も考えずに楽しく過ごそうっていうのは、現実逃避だよね」

 写楽はこちらを向かない。狭い店の中で、遠くを見るような目をしている。

「現実逃避が悪いとは言わない。必要な時だってある。でも……一時的に逃避しても、本当のことは全部知らなきゃいけないんじゃない? 知って、その上でまだ逃避したいっていうならそうすればいい。心置きなく、ここでカレーを作ってればいい。……ううん、カレーは悪くないね」

 小さく噴き出し、写楽はやっと私を見た。それが、怖いくらいの真顔になる。

「お前は、この村が好きか?」

「い、いきなり、そんな事訊かれても……ここに来て、まだ一日も経ってないのに……」

「そうだよな。そんなすぐに好きにはなれないもんな……」

 気圧されつつ答えると、彼はがっかりした顔で溜息を吐いた。一瞬感じた圧はどこにもない。

 ころころ表情が変わる奴だ、と思いながらも、なぜか少しだけ素直になってもいいかもという気になった。

「……ううん、好きだよ。初めて村の空気を味わった時、ここは楽園だ――って気がした。寒過ぎて死にかけてたからって訳じゃなくて、きっと、今が夏でも同じような感想を持ったと思う。でも、さっき言ったように、それは――」


 ただの都会人の物珍しさに過ぎなくて――


「なら、良いじゃねえか。急がなくても」

「……え?」

 こともなげに言う彼に、驚いて顔を上げる。

「この土地で暫く暮らして、嫌だと思ったら出て行けばいい」

 歩幅一つ分位の至近距離で、写楽の右手が、私の肩を掴む。

「急ぐ必要がどこにある? 急いで真実を知る理由なんざ、どこにもない。ここで生活をして、ここがどういう場所か体感して、その中でゆっくり考えればいい。そうすれば、自然と答えは出るさ」

「そんな、呑気になんて……!」

「ゲーセンもカラオケもボーリング場も無い田舎には我慢出来ないってんなら話は別だが、そうじゃないんだろ?」

 彼は、こちらに来て私の隣のスツールに腰掛けた。ポケットから煙草を取り出し、百円ライターで火をつける。

「俺達には、まだ何十年も、気が遠くなるくらい長い未来が残ってるんだ。人造人間だってんなら、寿命も無いかもな」

 そう言って笑う顔は、本当に楽しそうに見える。

「…………」

 私はそんな風に割り切れないし、思い込むこともできない。感情と自我を持つ『私』が、そんなの、もう人であることを――考えることを放棄しているだけだと反発する。

 ――ああ、そういえば、私達は人外の存在なのかもしれないんだっけ。

 同時に、脳裏の片隅にこんな考えが浮かんでくる。そこには、全く色がなかった。自分を俯瞰しているもう一人の私が、じゃあ仕方ないな、と冷めた目で言う。人造人間なら――


 ――『彼が人造人間なら、そう思うのも仕方ないな』


 そう思ってしまう時点で、私は私が人造人間であることを認めてしまうことになるのに。

「……………………」

 もう一人の私に反抗するように、次に湧きあがってきたのは生の怒り。もう、普通ではいられない。この身体の源が何であろうと、普通の人間が持ち得ない価値観を植えつけられてしまったという、恨みにも近い怒りが、私の中で急速に増殖していく。

「どうして? こんな変な状況にいるのに、どうしてそこまで、平気でいようとするの?」

 感情のままに、声を荒らげる。写楽は、面白がるような笑みを浮かべた。横を向いて煙を吐くと、それが未だ濡れている食器にかかり、何だか気持ち悪くなる。あの皿をそのまま使ったら、殴ってやる。

「俺は、おまえの先輩だからな。平気でいられるようになっただけだよ」

 離れた所にあった灰皿を引き寄せ、写楽は煙草を揉み消した。既に、表情も真面目なものに変わっている。

「確かに、いくら綺麗事を並べても、逃げるって三文字に集約されちまう選択でしかないのかもしれない。だけど俺は、それが正しい選択だと自信を持って言える。だからお前は、この村に、いや、この世界にろくろっくびが存在するって事だけ認めておけよ」

「……!」

 最後の言葉に如実な反応を示した私に、彼は表情を変えずに話し続ける。

「だってしょうがないじゃんか。居るもんは居るんだから。妖怪や神様とかと仲良く暮らす漫画とか一杯あるし、案外、珍しい存在じゃないのかもよ?」

「漫画と一緒にしないでよ……」

 目を開けた瞬間、視界に飛び込んできた光景。骨があるのが信じ難い、ホースよりも長く柔軟な首を思い出す。記憶であるその映像は、初めて想起した時に比べておぞましいものではなくなっていた。直後に起こしていたパニック状態にもならず、冷静な思考力を保っている。

 既に、慣れてしまったのだろうか。

「でも……うん、わかったよ」

 もう、頷くしかない。激しく否定する事が、それを認識しているという何よりの証拠なんだということに、私は気付いてしまっていた。


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