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第5話 懐かしい匂い

 喫茶店に戻ると、何やら良い匂いが鼻についた。カレーの匂いだ。店内は、先程より湿度が高くむわんとしている。しかし、外が極寒なだけに不快ではない。写楽は中型鍋におたまを突っ込み、中身を丁寧に掻き回している。

 もの凄く美味しそうで、懐かしい匂いだった。


 懐かしい……?

 何が?


 そう感じる根拠となる思い出を脳裏に浮かべようとしても、何も思いつかない。

 少し、耳鳴りがした。

「おう、戻ったか」

 収まっていく耳鳴りの代わりに、写楽の声がはっきりと聞こえてくる。

「うん。……どう? この格好」

 殊更に明るく笑い、得意気にその場でくるりと回ってみる。

「ああ、そうだな……」

 顎に手を当てて考える仕草をしてから、彼は言った。

「ちょっと、古いな」

「だよね!? 古いよね!?」

 古くても、これが一番可愛いと思ったし、これしか無かったのだ。

「でも、可愛いでしょ?」

「そうだな。可愛いな」

 写楽はにやりと笑う。とりあえず適当に返す時のような答えなのに、その笑顔一つで本心なのだと思えて、嬉しかった。

「写楽、料理なんて作れるんだ」

 私はカウンター前のスツールに座り、特に興味は無かったけど一応水を向けた。

「俺、あそこの料理人やってるから。味にはかなり自信があるぜ」

「へえ……」

 固形ルーを入れたカレー独特の匂いがするけど。

「ルーを溶かしただけじゃないの?」

「い、色々混ぜてるんだよ!」

「それって、闇カレー……」

「もう少しで完成だから、待っててくれ」

「……うん」

 むくれ気味の顔のまま、鍋をかき混ぜる様子を静かに見守る。暖かな湯気の中、私は自分の心が安らいでいくのを感じた。優月さんと話した時の、あの恐怖や不安が消えたわけじゃない。それは、頑固に焦げ付いて、離れてくれない。だけど、家に帰り着いた時のような写楽との気の抜けた会話は、暗いものを押し退けるだけの力を持っていた。

「ほい、どうぞ召し上がれ」

 提供されたカレーは、本当に美味しそうだった。白いお皿にごはんが半分。じゃがいもやにんじんが入ったルーが半分。福神漬けがちょこっと。普通過ぎるくらいに普通な見た目だったけれど、私には何だか新鮮だった。それに、隠し味が闇化しているかどうかも楽しみだ。

 右手にスプーンを持ち、一口。

「…………」

 隠し味は、チョコレートだった。

 黙ってしまった私に、写楽は眉を下げて、困惑した表情で訊いてきた。

「ど、どうだ?」

「…………おいしい」

「そ、そうか!」

 蕾が一気に花開くように、彼の顔が明るくなった。胸に手を当て、あからさまに安堵を現す。

「旅館じゃ和食しか作れないからな。ここに来た時は、洋食にチャレンジしてるんだ。アレンジも練習してて、チョコってどうなんだって思ってたんだが、いけるのか!」

「人を実験台にしないでよ」

 ツッコみつつ、スプーンは進む。彼の言葉の重大さに気が付いたのは、牛肉とごはんを頬張り、飲み込んでからだった。

「え? 旅館?」

「おう。獏に聞かなかったか? あそこは旅館で、獏が主人で陶子さんが女将なんだよ。客なんて滅多に来ないから、在って無いような肩書きだけどな。実際は、殆ど村役場と化してるし」

「へえ……で、写楽が料理人なんだ」

「ああ。三人でやってる旅館だ。あ、もうお前入れて四人か」

 当然のように付け足され、スプーンを持つ手が止まった。彼は、にやついた笑みを浮かべていた。戻るんだろ? という顔だ。

 無性に悔しくなって、カレーを食べるのに集中する。

 彼はもう、確信しているのだ。私が何処にも逃げないということを。非常に残念だけれども、それは当たっている。

 私はこのまま、なし崩しにあの家――旅館に帰るだろう。

 そして、村の住人となるのだ。

「まだ、戻るなんて言ってないじゃん?」

 皿を空にし、水を飲んでから抗弁する。二人共が理解した上での、最後の虚勢。

「それに私、何もできないし……」

 そこまで言って、脳裏に閃くものがあった。もしや、と思って写楽を見ると、彼は安心しろというように笑っていた。

「仲居のポジションが空いてる」

「…………」

 自分が仲居をしているところを想像して、私はむずがゆくなって下を向いた。


        *☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*


「訊きたいことがあるなら、聞くけど」

 何気ない口調だった。食器を片付け、カレーの匂いだけが残る店内で写楽は言った。

「うん……」

 ミルクと砂糖のたっぷり入ったぬるめのコーヒーを口に含み、私は少々思案した。知りたいことはいっぱいあった筈なのに、具体的な言葉が全く浮かんでこないのだ。着替えて戻って来てから、彼を質問攻めにしたいという気持ちは消え去っていた。

 優月さんから過去を聞いたことで、写楽に訊くべき事柄はもう何も無いと、無意識に判断してしまっていたのかもしれない。

 それとも、カレーの匂いの所為だったのか――しかし、勿論それで良いわけがない。

「……………………」

 思い出したように湧き出してきた靄々とした感情を薙ぎ払う為に、私は言った。

「写楽は、ここに来てから起こった出来事について、どう思ってるの?」

「……分かりにくいな?」

 彼は首を傾げる。私もそう思う。信じてるのかと訊くにしても、そこに掛かる出来事が多すぎて何だかふわっとしてしまった。

「人の首が伸びることについて。自分が造られた存在だと言われたことについて。本当に記憶が無いことについて……同じ立場の写楽がどう思っているのか、知りたい」

 勿論、彼の考えを聞いたところで、それが客観的に正しい答えなのかの判断は出来ない。

「何を聞いても納得できないような気がするし……逆に、写楽が話す事ならどんな事でも受け入れてしまえるような気もする。同じ目線を持ってるのって、多分、写楽だけだし。……分かんない。私がどう思うかは、分かんない。ただ、参考に、したくて」

 私は、藁にもすがるような思いで、写楽を見詰めた。

「ちゃんとここに足をつけて、考えたくて」

「……分かりやすいな」

「……良かった」

 写楽は苦笑し、目尻に柔らかな皺を作る。

「まあ、お前の気持ちは、分かるよ」

「本当?」

「ああ。とりあえず、既視感ってやつを初体験出来たくらいには。……ったく、一人目が居るなんて、ずるいよな。俺には相談出来る相手なんて居なくて……」

 笑みを消して目を伏せ、彼は自分のコーヒーを飲む。私はただ、静かに待った。

「俺は……自分が人造人間だっていう獏の説明、信じても良いと思ってるよ」


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