――結局、タイツの上からルーズソックスを穿いた。
「宮景の家に拾われたの?」
「え?」
着替えを終えた頃、優月さんは唐突にそう聞いてきた。世間話の延長のように。あまりにも普通で、彼女が何を考えているのか想像ができない。
「いや、なんとなくね。写楽もそうだったんだけど、さっきまでの格好とか、なんか状況が写楽に似てるような気がしてね。拾われたって言い方は、良くなかったかな」
「…………」
俯いた私は、何も言うことができなかった。ただ、確かに状況を知らなければ閉鎖された村に私のような未成年の子供が1人で、漫画に出てくる幽霊みたいな格好をして引き取られた――引き取られたとしか解釈できないだろう――となれば『拾われた』としか考えられないのは仕方がないのかもしれない。
写楽は未成年じゃないかもしれないけど、やっぱり白い着物でその辺をうろついていたら野良犬みたいに見えるかもしれないし、それであの家に入ったといえばそれは『拾われた』としか感じられないのも無理はない。
ことなのだ。多分。
「写楽は……どんな感じだったの?」
きっと写楽も、私と同じように混乱していたはずだ。優月さんが白い着物姿の彼を知っているということは、彼も家を飛び出したのだろうか。
本人のいない所で聞いてしまうのは少し気が引けたが、気になった。
「そうだね……」
優月さんはちょっと考えるようにしてから、話してくれた。
「一年位前だったかな。散歩してたら、川原に幽霊みたいに立っててさ、今日のあんたと同じ、白い着物で。自殺でもしそうな雰囲気だったから声掛けたんだ」
「へえ……」
「うちに連れてきてコーヒー飲ませて。そうしたら、息せき切って話し出してね。俺には何の記憶も無い。だけど、獏の説明を信じることも到底出来ない……ってね」
「優月さんは……彼が何て言われたのか知ってるの?」
既に明白だろうに、自分で質問しておきながら答えを聞くのが恐かった。
「うん。旦那もねえ、もっとましな嘘吐けばいいのにさ。どう言ったと思う?」
私の脳裏に、獏の、整った顔が浮かび上がる。穏やかすぎる表情で、彼は――
「『君は、僕に造られた人間だ』。だってさ」
記憶の再生と優月さんの生の声が重なった。
「あの人なりに、写楽を安心させようと思ったんだろうね。思い出がないのは、彼の所為でも誰の所為でもなく、物理的に存在しないんだから気にするなってさ」
「…………!」
頭の中が真っ白になった。
衝撃的な言葉だった。
私の変化には全然気付かない様子で、両手を腰に当て、苦笑を浮かべて彼女は続ける。
「ここに来てから記憶を失ったのか、記憶を失った彼を旦那が連れてきたのか、それは分からない。多分、後者だろうけど。宮景姓を名乗る新参者は過去にもいたけど、外での事を話す人間は誰も居ない。皆、何かを失った連中ばっかりなんだろうね。まあ、幸せな生活をしてる奴が、こんな場所に偽名使って居座るわけないか。あんたも含めて」
言われて思わず、渋面を作ってしまった。彼女の中で、私は写楽の同類ではないのだ。椿ちゃんと一緒、ではない、同類だけど違う、その他大勢。
人生から逃げ出してきた、普通の人間。
優月さんは、思い出を持っていないのは写楽一人だと考えているのだ。
だからこそ、ここまで大っぴらに話が出来る。
「……第一、人造人間なんて、実在する訳無いじゃん」
私に記憶が無いことを、悟られてはいけない。
何の脈絡もなく、咄嗟にそう判断して私は言った。誤魔化す為に。そして、自分を安心させる為に。でも、返ってきた言葉は、望み通りのものではなかった。
「さあ? それは分からないよ?」
「え?」
予想外の否定に、心臓が大きく波打った。空っぽの筈の胃も同時に跳ね上がり、重みを伴って沈んでいく。
「非化学的だ、空想の産物だと云われているものが、現実に存在している事だってあるんじゃないかな。だって私達は、それらを確認していないだけで『無い』事を証明したとは言えないんだからさ」
「そんなの、ただの屁理屈だよ」
「そうかな? だって、妖怪はいるじゃない。椿ちゃんも知ってるでしょ?」
「やめて!」
本能が、私に大声を出させていた。立ち上がると、優月さんは気圧されたように一歩身を引く。数秒の後、彼女は動揺を全く感じさせない口調で、静かに言った。
「……気持ちは分かるよ。そう簡単には受け入れられないだろうね。外では、必要ではあっても絶対に実在してはいけない存在だし。
でもね、君はこの村のお客さんじゃない。住人として生きていくのなら、そんなアホらしいルールは捨てた方が良いよ。彼女達も、私達と何一つ変わらない、自我と感情を持つ個人なんだってね」
「…………」
私は俯いて、誰にも見えない中、自然と唇を尖らせていた。
そうじゃない。
そういう問題じゃないのだ。
優月さんの言っている事は、彼女の側からすれば当然の意見だし、どこにも間違いが無い立派な正論である。
でも、考え方がずれている。理解していない。
私が陶子という女性の首の機能について認められない理由は、妖怪が怖いとか嫌いとかではなくて――それもあるけど……
受け入れてしまったら、他の非現実的な事を、全部なし崩しに信じてしまうような気がして、それが途轍も無く、怖いのだ。
「私もね、移住組なんだよ」
「……え?」
想定外の告白に、私は視線だけを上に向けた。
「組って言い方は変かな。外の出身者は、宮景姓の人達を除けば私と、もう一人だけだから」
彼女はふっと表情を緩め、喋り始めた。
「初めて村の土を踏んだのは、五年前。私、両親が交通事故で死んでから、家にそのまま住んでたんだけどさ、いきなり獏から電話が来たのよ。じいさんの葬式に来てくれって。自分にまだ身内がいたなんて思わなかったからびっくりしたな、その時は。母方の祖父母は私が生まれる前に亡くなったと聞いてたし、父さんの方は私自身それぞれ葬式に立ち会ってる。で、なんか……嬉しくなったんだよね。会おうとしたってもう手遅れだし、教えてくれなかった親に怒りも感じたけど、でも、嬉しかった。
だから、じいさんがどんな顔をしてたか、どんな場所に住んでいたのか知りたくて、二つ返事でオーケーして、はるばるやってきたってわけ」
優月さんは私の隣に座って、窓の外を見詰めていた。その眼差しは、出会ってからの短い時間に見た中で、一番柔らかい。
「完全に観光気分でさ。ところが葬式の後、獏に遺書を見せられてね。この家を、私に譲りたいって書いてあった。で、ありがたく頂いたんだけど……『譲る』だったら、断ってたかもしれない。でもね、文面は『譲りたい』だったんだよ。ああ……この人は、きちんと他人の意思を優先してくれるんだな、と思ったんだ」
「でも、別に移住する必要はなかったんじゃない? 実家だって無人になっちゃうじゃん」
「うん。理由は、自分でもはっきりとは分からないんだけどね」
指を組み替え、夕空を見ながら彼女は言った。この時私は、空が朱く染まっていることを初めて認識した。一日の流れというものを思い出す。目覚めてからずっと、その瞬間が朝なのか昼なのか、気にもしていなかったのだ。
「無性に、この村に住みたくなったんだ。それまでの人生全部捨てても、ここに来る価値があるような、そんな気がしたんだね。家は、今は貸家にしてるよ。入ってくる家賃が、結構馬鹿に出来なくてさー。おかげで、こうして喫茶店が続けられる」
下世話な話だけどね、と続けて、優月さんは笑った。
「その予感は……当たってた?」
肯定してもらえれば、この先の人生に少しは希望が見えるような気がして、私は訊いた。
「どうかなー、まだわかんないけど、少なくとも、来るんじゃなかった、と思ったことはないかな? 大変なことは、そりゃそれなりにあったけどねー」
「…………そっか」
彼女の答えは、期待通りのものではなかったけれど、私が抱いていた恐怖を和らげるのには充分だった。
ただ、ちょっと引っ掛かることもある。
「家賃収入で喫茶店が続けられるって……ここではお金は必要ないんじゃないの?」
「ああ……」
何とも言えない苦笑が、優月さんの顔に浮かんだ。
「それは表向き……村人向けの話だよ。外と取引するのに物々交換で通用すると思う? 村の工芸品は、交換じゃなくて出荷されてるだけ。届く物資は仕入れているだけ。私はここの食材を“買っている”」
「何で?」
私の中で、猜疑心が膨れ上がっていく。
「何で、そんなことしてるの……?」
村人にお金の存在を隠して、どんな意味があるというのか。村人を騙す理由は、どこにあるのか。
「この村で生き続ける為。私はそう思ってるよ」