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第3話 喫茶『七草』

 冷たかった彼の背中が、徐々に暖かくなってくる。私も、彼の温もりで暖かくなる。

「ねえ」

「ん?」

「まだ、あんたの名前聞いてなかったよね。教えてよ」

「写楽」

 彼は、私を担ぎ直しながら答えた。

「獏にそう付けられた。あいつ、純和風の名前が好きらしいんだ」

「そうなんだ……」

 だから、『椿』なのか。

「よろしくな、椿」

 と、写楽は言った。


 移動をしながら、写楽はこの地について説明してくれた。

 ここは『宮景みやかげ村』。関東地方のどこかにある、としか獏は教えてくれないらしい。どこの県にあるかも定かではない。

「この村から出たことはないの?」

「ないな。俺だけじゃない。俺は、この村から出た人を見たことがないよ」

「はあ? 何それ」

 そんなことが、あり得るのだろうか。

「殆どのことがこの村の中だけで済ませられるからな。そもそも、出ようという発想もないんだよ。だから、ここがどこにあるかなんて、誰も気にしないんだ」

 そういうものなのだろうか。

 何かが変な――ひどく、歪んでいる気がする。

 そう、理屈付けしているような。

 でも、生まれた時からこの村に住んでいると、それが普通で歪みも違和感もないのだろうか。

 ここで子供時代を過ごしていない私には、絶対に分からないことだ。

「そうなのかな……」

 結局、こんな曖昧な相槌しか返せなかった。

「周りに、他に村はないの?」

「ああ。目視できる範囲に村はないな。北側に山が見えるだろ?」

「うん」

 村に接するように、大きな山が北側にある。それ以外の三方には、近くに山はない。遠くに山影が見えるくらいだ。だが、他に人里もなかった。何も建てられていない、誰も住んでいない更地が続いているだけだ。

 まるで世界から隔絶されている場所みたいだけど、きちんと外とも繋がっているらしい。五日に一度、隣の町から物資も届くし、一日に一度、バスも往復している。電気も通っているし、生活するのに不自由することはないそうだ。

「ふうん……」

「物資だって、タダで貰ってるわけじゃない。この村では陶芸が盛んでな、皿や壷やらと、食べ物を交換しているんだ。俺も、何度か挑戦してみたけど、これがなかなか難しいんだ。お前も今度やってみるか?」

「えっ、ああ、うーん……その気になったらね」

 通貨がお金ではないことにカルチャーショックを受けながらも私は答えた。陶芸みたいな、何かを作るのは苦手だ。楽しそう、とは思うけれど。

「よし、着いたぞ」


 写楽が立ち止まったのは、ショーウィンドウにコーヒーやサンドイッチが並んでいる喫茶店の前だった。偽物だと分かっているのに、脳が一気に食物を求め、私の気分を浮き立たせる。入口上部の看板を見上げると『喫茶 七草』という文字が飾られていた。デザインは悪くないけど、どうにも田舎臭い名前だ。

 ガラス製のドアを押し開けると、頭上から鈴の音が聴こえた。否、鈴よりは低めの籠もった音だ。見上げると、そこには神社でお参りをする時に鳴らすような、鈴蘭の形をした鐘が二つぶら下がっている。

「いらっしゃい」

 カウンターから声を掛けてきたのは、二十代は確実に越えているな、と思える女性だった。背が高く、髪を短く切ったその姿は、バスケットボールなどのスポーツがよく似合いそうだ。

「ん? 写楽、どうしたの? 女の子なんか連れちゃって。あれ、何かその子、捨てられた猫みたいねえ。河原で拾ってきたの?」

「おっ、よく分かったな」

 彼は驚きつつ私を降ろして、笑いながらスツールに座る。

「河原で、そのまま入水自殺しそうな勢いで泣いてたから保護してきた」

「ちょっ……! 泣いてないでしょ! でまかせ言うと殴るわよ!」

「おっと。既に前例作ってるだけにシャレにならねーな」

 私の沽券に関わる事実の捏造をした写楽は、更に、第一印象が悪くなるような発言をした。しかも、こちらは嘘じゃないから否定も出来ない。獏は、私に殴られたことを彼に伝えていたらしい。

「う……」

 言葉に詰まると、店主らしき女性は私が誰かを殴ったことを察したらしい。面白そうに軽く笑い、「ふーん」と言った。

「この村に新顔が来ることは殆どない。その上、その格好……何か訳ありそうね」

「…………」

 思わず俯く。彼女から好奇心は感じられなかった。詮索するというより、事実を確認するような口調だ。

 だからって、説明はできない。

 説明できることなんか、まだない。

「まあいいや」

 しばらく私を見ていた店主は、立ち上がった。

「あんた、名前は?」

「……椿」

「そう。私は優月ゆづき。じゃあ、こっち来て。私の服貸してあげる」

 彼女――優月さんは店奥にある扉に向かいかけて振り向き、言った。続けて、写楽に目を向ける。

「私を頼って来たんでしょ? とりあえず落ち着かせるから、あんたはここで待ってなさい」

「分かった。頼むな」

 写楽は、私達を見送るように笑みを浮かべた。明るさと優しさを合わせもった笑みからは、優月さんを信用しているのだというのが伝わってきた。

 私は、彼女についていくことにした。


 扉の先は小さな物置になっていて、清掃用具やらロッカーが法則性皆無の状態で置かれていた。小型の電気ストーブがあったけれど、随分と使われていない証拠に、コードが巻き取られたままになっている。この喫茶店を優月さん一人で切り盛りしているという象徴に見えた。

 正面にはもう一枚扉があり、押し開けると同時に清廉な空気が押し寄せてきた。物置の淀んだ空気は、瞬く間に居場所を減らしていく。光に急き立てられ、慌てたように舞う埃。二枚目の扉は、外への出口だった。どうやらここが、店の裏口のようだった。

 店に入った時にもちらりと思ったこと。やっぱり『七草』は凄く狭い。でも、どこか懐かしい。

 外付けされている階段を使って、二階へ上がる。三枚目の扉は、私を受け入れてくれるかのように、この寒いのにほんの少しだけ開いていた。優月さんが気を遣ってくれたのかもしれない。私が遠慮しないように。

「優月さん?」

 声を掛けつつ中に入る。玄関の先には長い廊下が伸びていて、その終着点であるキッチンのシンクが、中途半端に空いたすり硝子の先に見えている。右側は一面壁で、左側に襖で仕切られた部屋があって、こちらは全開状態だったから畳敷きの部屋に居る優月さんを容易に発見する事が出来た。

「あ、遅かったね。こっちこっち」

 玄関が開く音が聞こえたのだろう。優月さんは振り返って、手招きをした。こげ茶色の箪笥の前に座って、一番下の引き出しから、畳まれた衣類を幾つか取り出して重ねている。

「この中から、好きなの選んで持っていくといいよ。と言っても、色が違うだけでデザインなんか似たようなモンだけど。田舎くさいのは、ご愛嬌ってことで勘弁してね。まあ、ここで暮らすならあんまり派手なのは着ない方が無難だから」

 服の山に近付いて一枚取り上げ、広げてみる。黒いタートルネックのセーターで、柔らかくふわふわしていて着心地は悪くなさそうだった。他の服に目を落とすと、黄色や青、ボーダー柄、手編み風と、本人が言うよりも種類は豊富で、同じ模様は一着も無い。

「ちょっと大きいかもしれないけど、少しぶかぶかの方が女の子は可愛く見えるから、ちょうどいいかもね。とりあえず、着るやつが決まったら、持って帰る分は私に渡して。紙袋にまとめといてあげるから」

「えっ! だってこれって……」

 一種のコレクションじゃないだろうか。それを貰ってしまうのは、何だか気が引けた。

「あんた、服持ってるの?」

 頷けない私に、優月さんが訊いてくる。

「持ってないけど……」

「やっぱりね。だったら遠慮しないで。服は買えばいいんだから」

「うん……」

「さ、早く着替えて」

 彼女がそう言ったところで、隅にあったファンヒーターが点火して、熱い空気を吐き出し始めた。私はピンクのセーターと茶色のホットパンツを選び、ヒーターの前に移動する。

「あの、優月さん」

「ん?」

「ニーソとかタイツって、ないですよね」

 田舎な雰囲気のこの村にニーソがあったら奇跡だ。というか、優月さんが穿いているところが想像できない。でも、ホットパンツがあるなら可能性はある。この寒いのに生足は避けたかった。

「んー、タイツとルーズソックスならあるよ」

「!?」

 …………なぜ……ルーズソックス?

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