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目が覚めたら知らない天井があるなんて、現実には早々起こらないが小説や漫画ではありふれすぎるくらいにありがちなシチュエーションだ。しかし――
実際に、見覚えが無いのだから仕方ない。
障子が四方に張られた正方形の照明器具が、私の顔面から三メートル程上にぶらさがっている。寝かされているのは、床に直に敷くタイプの日本式の蒲団で、今居る場所が和室なのだという事は考えなくてもわかった。天井の広さから、大体十二畳程度だと予想できる。
肌寒さを感じて左側に視線を投げると、外に通じている障子が僅かに開いて、葉を落とした樹木の右半身が見えた。それが突然、人の顔に隠される。障子の裏から、綺麗な女性が身を乗り出してきた。白い着物を着た、艶やかな黒髪を持つ女性だった。二十代と言っても三十代と言っても四十代と言っても納得しそうな――妙齢としか表現できない風貌をしている。平安時代の絵巻に出てきてもおかしくなさそうな見た目だった。
「…………」
「…………」
女性が口を開く様子は全く無い。どうしようかと思ったけれど、とりあえず彼女が話しかけてくるまで待ってみようと判断した。初対面で、自己紹介文でも考えているのかもしれない。
「…………」
「…………」
しかし、いくら待っても状況は一向に変わらない。
「…………」
濃密で淀んだ、お互いの二酸化炭素混じりの空気を吸い込み続けた結果。
「……誰?」
初めに声を上げたのは、私の方だった。
満面に笑みを浮かべ、彼女はその姿勢のまま、首を伸ばす。文字通りに首を長く、ひたすら長く、仰臥した私の上を通過して、蛇のような動きで障子の向こうへと消えて行く。
勿論、首から下はこれまでと変わらずに座り続けている。しかも正座だ。
思考が、完全に停止した。
全身から血の気が引いていく。これが、恐怖によるものなのか、太古の昔から人間の魂に刻み込まれた常識が成す機械的反応なのかはわからない。
確かなことは、ただ一つ。
私が、あらん限りの悲鳴を上げた挙句、気絶してしまったということだけだ。
「ん? 彼女、起きそうですね」
「全く、世話が焼けるのお。十時間も爆睡しおったくせに、更にまた、三時間も待たせるとはな。しかし獏、一緒になって待つ必要は無かったんじゃないかの? わらわがまた呼びに行くのに」
「僕がここを離れたら、起床から気絶の無限ループじゃないですか。彼女、永遠に起きませんよ」
「まさか。永遠に起きなかったら死んでしまうわい」
女性は闊達に笑いだした。そこに、獏と呼ばれた男性の溜め息が重なる。
「あれだけ、初対面で正体晒すのは止めろと言っているのに……」
「悪いが、これだけは止められんでな。人を驚かすのは、本来、わらわ達の本分じゃけ」
二人の声は空耳のようで、それでいて、頭に響くような感じがした。水中に横たわっている私の上で、水の膜を隔てて喋っているような、と言うのが近いだろうか。話の内容も、全然理解出来ない――というより、何か、素直に受け止められない違和感を伴っている。
恐る恐る瞼を持ち上げると、一度見た覚えのある天井を塞ぐかのように、額を付き合わせて見知らぬ人間が二人、私の顔をまじまじと見下ろしている。いや、片方は知っている。どのくらい前なのか分からないけど、最新の記憶に焼きついている顔だ。首を伸ばした、あの――
「…………!」
瞬時に、脳内にいる私の分身が混乱を始めた。それが思考を冷凍しようとし、再び、悲鳴を上げさせようと口を開かせる。
「おっと、危ない」
声を発する直前、脇に居た男性が、大きな右手で私の顔を覆った。口をふさぐのが目的だったのだろうけど、彼の手は目にまでかかり、視界が何だかちかちかした。本当に、大きな手だ。定規で測れば、二五センチはあるだろう。
パニックの為か、少しだけ心臓の鼓動が早くなる。
「また、気絶されちゃあかなわないからね」
先程の茫漠と聞こえた会話が現実のものならば、獏というのだろう男性は、柔和な笑みを浮かべ、外の景色を丁度遮断する位置で正座していた。全体的にどこか、儚く、消え入りそうな印象がある。作り物めいていて、だが、醸し出される優しさは本当のものだと感じられる。
切れ長だが、冷たさや無愛想さを感じさせない瞳。頭頂部は黒く、下の方の髪は白い。自然とは逆のその色合いが、何故か自然に見える。
赤いセーターの上に医者のような白衣を着ていて、特に奇抜な服装じゃないのに、私は『変な人』という印象を抱いた。ここが和室だったからかもしれないし、口を塞がれていたからかもしれない。何故か、彼が医者であるとは思わなかった。
指に触れた睫がこそばゆく、かゆみが眼球に伝染してきたところで、私は言った。
「むぐ……むぐむっ!」
手を口からどかそうとすると、彼は自らそっと離してくれた。
「……何なの?」
獏は、笑みを崩さないまま、私の質問を完全に無視してこう言った。
「君は、僕に造られた人間だ」
「え?」
突然、何を言い出したのだろう。
「僕は化学者でね、母親の胎内からではなく、人工的に人間を造ることを研究しているんだ。君は、成功作なんだよ」
「…………!」
怪訝に思うより先に頭が一気に熱くなり、気が付くと私は獏のセーターを掴んでいた。胸倉を締め上げるように。その直後、右手の甲にみみず腫れのような傷跡を発見して内心たじろいだけど、上目遣いで彼を睨みつける。
「……何の冗談よ」
心が震えるのを感じる。まさか、という思いが否定する私を少しだけ侵食している。こんな傷跡には覚えがない。もし、赤ちゃんの頃から私が私を貫いていたら、見ただけで痛そうなこの傷の正体を知っているはずだ。すり傷じゃないんだから、忘れるなんてあり得ない。
だけど、全く記憶がない。空っぽだ。
「私、そういう冗談、好きじゃない」
「知ってるよ」
爆は、優しそうな笑みを浮かべて平然と話す。
「だって、僕が造ったんだから。君の性格くらい把握してる」
あっさりと、ごく当たり前のように、彼は言った。その台詞に、再び強烈な違和感を覚え、私は顔をしかめた。後から怒りも湧き上がってきて、ぐちゃぐちゃになった感情が、口をうまく動かしてくれない。
混乱したまま、抵抗にも似た気持ちで言い返す。
「か、軽々しく、そんなこと言わないでよ。他人の性格なんて……」
「好きでも嫌いでも。君は、そういう普通の人が絵空事だと思っているような事実を受け入れていかなければいけない」
「…………」
「君の名前は椿。
「……え?」
言われた瞬間、瞬きを忘れて彼を見詰めた。
未だ何も認めていないのに、人造人間なんて龍や七つの玉が出てくる漫画でしか知らないのに、告げられた名前が、驚くほど抵抗無く自分の中に入ってきたのだ。
力が抜けていく。純然たる恐怖で、布団の上にへたりこむ。
否定出来なかった。『へえー、そうなんだ』と納得してしまった。それが正しいのだと、本能が理解しているのだ。
耳に入ってきたばかりの固有名詞が、私の口から力なく零れ落ちていく。
「ミヤカゲ?」
視界を埋め尽くすのは、細かく、理路整然と並んだ畳の目だけ。
「そうだよ。みやかげつばきだ。覚えたかい?」
獏は、静かな動作で私の手をセーターから引き離す。
「うん……」
一語一語を強調する彼の言い方は、子供に新しい知識を刷り込む時の大人とそっくりだった。子供扱いされて腹が立たないわけがないのに、私は、それこそ幼児のように頷くことしか出来なかった。悔しいという感情は湧いてこない。『勝手に決めないで』と反駁して本名を教えることすら不可能なこの状況に、ただただ、途方に暮れたような気持ちになっていた。
でも。
「私は……」
呟いて、小さく頷く。
――自分が名無しなんだってことは、認めるしかなかった。
自分の名前が、思い出せない。『宮景椿』以外の名前が。
なんだか、迷子になったみたいな気分だ。
獏の顔を見上げると、彼は天使のような微笑みを浮かべていた。何を思ってそんな表情でいるのか、想像はつくけれど何一つとして確信が持てない。この時、ああ、彼の本心を掴むのは絶対無理だ、と私は悟った。
少なくとも――今の私には。
「で、僕の名前は宮景獏。君達には、僕と同じ名字を名乗ってもらうことにしているんだ。一応、僕が親なわけだし、この村でも暮らしやすいからね」
やはり、先程聞いた男女の会話は空耳ではなかった。もとより、私は彼の名前を先程から『獏』と認識している。
「君達って……他にも、私みたいなのが居るの?」
「ああ、うん」
真っ直ぐにこちらと目を合わせ、笑みを崩さぬまま彼は答える。
「前はもっと居たんだけどね。今は、一人だけここに住んでる。男性だけれど、気の良いやつだから。同居するのに問題はないと思うから安心して」
「獏」
そこで、女性が口を挟んだ。
「ちょうど良い。紹介してやれ。一日、間を置くつもりじゃったがかまわんじゃろ」
「そうですね、わかりました」
長時間の正座をものともせずに立ち上がると、獏は障子戸に近付き、残りを引き開けて廊下に出た。
「よし、じゃあ、これから紹介するよ。きっと、君も仲良くなれるから。ついてきて」
「あ、ちょっと待って!」
人造人間だなんて信じられないし、馬鹿みたいだし、訊きたいことは山程あるけれど、まずはこれだ。彼はまだ、一つ重要なことに触れていない。わざとみたいに。
目を閉じていた時に聞いた声が空耳じゃないのなら、『正体を晒すな』云々という会話の真相は、是非とも知りたいところだ。
「ねえ、この人は……?」
女性を見て恐る恐る訊いた私の質問に、彼はいともあっさりと答えた。
「彼女は、ろくろっくびの陶子さん。この建物の主人だよ」
「…………」
答えはある意味、予想通りのものだった。
(やっぱり……?)
そう思いながらも、違和感に怒りや絶望や何だかわからない感情が混ざりあって、頭の中が知恵の輪になったみたいになっていた。
気が付くと、私は獏に歩み寄っていた。正面からの相対では別に厚くもない胸板が目の前に来ただけだったから、顎をあげて、二十センチ位上にある顔を睨みつける。
次に何をされるのか予測できないらしく、獏は間抜けな表情を浮かべている。
「何だいぅぶっ」
考えなしに発された、どうでも良い言葉が終わらない内に。
私は、拳に思いっきり力を込めて、彼を殴った。
訳の分からないことをほぼ一方的に話されて、無性に腹が立ったのだ。