深夜の街中で見つけた、一人の少女。
灯りの消えたビル街の中で、その少女はたった一人、空を見上げていた。
空高く伸びたビルに囲まれ、薄暗い筈のその場所は、少女の立つ一角だけステージのような明るさで。
夜空の中央に煌煌と光る満月が、一帯を明るく照らす。少女の黒くて長い髪が、艶やかにきらめいていた。
少年の前で、少女の纏う赤のロングコートが、月明かりを受けて神々しく輝く。首元の白いマフラーと、コートから覗く白いワンピースの裾を、秋の風がふわりと揺らした。
それはまるで、絵巻物から飛び出したかのような光景だった。
思わずじっと見つめてしまっていると、それに気づいた少女は眉をひそめる。
怪しく思われてしまったのかもしれないと、慌てて視線をさ迷わせつつ、口を開いた。
——ごめん、かぐや姫かと思って。
余計なことを口走ってしまったかと思いつつ顔を上げると、少女は目を丸くして、その後、思い切り笑い出した。
——すごい、よくわかったね。
そう言ってはにかむ少女に、僕はふいに目を奪われた。
そういえば今年の春、竹の花が咲いたとテレビで話題になっていた。
それは120年に一度しか咲かない、珍しい花。そんな花を画面越しに見た時、彼女の脳裏に、ありもしない記憶が蘇ったのだという。
見たことのない、おじいさんと、おばあさん。明らかに現代ものではない、古すぎる光景。狩衣を着た男たち。そして、月から現れる、人ではない者たち。どれも知るはずのない光景で、初めてそれを夢に見た時、少女は呆然としてしまったそうだ。
「正直、私、おかしいんじゃないかと思う。ありえないもん」
白いマフラーをいじりながら、月の真下で少女は語る。
「きっと、おかしくなっただけなんだ、私。……でも、月を見るたんびに、思い出すの。……帰らなきゃいけない私を見て、泣きそうになってた……誰かさんの顔」
だからこそ、こうやって真夜中に月を見てしまうのだと。涙を流すかの人の顔が、忘れられないのだと。そう言って空を見上げる彼女は、やはりかぐや姫のように美しかった。
それから何度か、彼女を見かけた。それは決まって、月が綺麗な夜だった。
名前も、連絡先も聞いていない。ただ月夜の晩にそこに向かえば、彼女はそこに居た。それだけで良かった。
かぐや姫の物語に出てくるような、劇的なストーリーなんてありはしない。
彼女に求婚をすることもなければ、彼女から無理難題を突き付けられることもなかった。
だからこそ、これからもずっと会えるのではと、そんなことを思ってしまったりもした。
そんな理想は、結局、夢物語でしかなかったのだけれど。
「ごめんね。やっぱり私、行かなきゃ」
何度か会った彼女は、初めて会った日と同じ満月の下で、そう言った。
月に帰るのかと聞くと、初めて会った時のように、彼女はケラケラと笑い出した。
「残念でした。私はかぐや姫じゃないから、月にも行けないし、手紙なんて書かないよ。
……代わりにこれをあげる」
自らの首元からほどいた白いマフラーを手にして、少女は微笑む。そのまま、僕の首元に雑にマフラーを巻いた。
「もういらないの。私、かぐや姫になれなかったから」
聞きたい言葉が、口から出てこない。まるで月が僕の時間だけ止めてしまっているようだった。
動けない僕の前で、少女は笑う。
「じゃあね。元気で。あったかくしてね。風邪ひいたら、ダメだよ」
月灯りに照らされて。あの日と同じ、赤いコートに白いワンピースを揺らして。絵巻物から出てきたような彼女は、そのまま月明かりの外、暗い夜の向こうへと消えていった。
あの日、ビル街の中に佇んでいた少女は、もう居ない。
何度あの場所を訪れても、会うことは二度となかった。
きっと、月に帰ってしまったのだろう。
首元の白いマフラーに触れる。ふわふわとした感触は、あたたかくて、心地よかった。
彼女は、かぐや姫になれなかったと言ったけれど。
しかし、僕にとっては、彼女はたった一人、本物のかぐや姫だった。