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第2章「流転する日常は変わらずに人を取り残し続ける」⑦

「失礼します」

その声に聞き覚えがあった。否、私はその声を知っていた。そして、知っているから果てしなく逃げ出したくなった。

「っ、在香?!」

当然呼ばれる名前、仕事中でも一瞬気が抜けそうになってしまう。

「あさ、ぎ……」

とても気まずい。なにが気まずいとは昨日喧嘩別れした相手と鉢合わせしてしまったことが、任務中に出くわしてしまったことが。もうそのすべてが。

「おや、遠藤くんお久しぶりです」

麻布は人のいい笑みを浮かべながら、私の意識から完全に除外されていたもう一人の存在。浅葱の前に立つ存在に気づいた。そして、その顔を見て今は仕事が優先と気を引き締めなおす。

「遠藤、一」

ぽつりと言葉が漏れる。それはいじめられっ子であった、今回の事件のデータにいた、男子。そして、麻布の言葉通りならいじめっ子を死に追いやった奴。復讐を遂げた人間。

「志藤さんは遠藤くんとはお知り合いで」

目ざとく零した言葉を見落とさなかった、麻布は意地悪くつついてきた。首を振れば、ドアのほうを見やる。が、そこにはドアをふさぐ様に浅葱が立っていた。逃がさないと顔に書いてあるが、割とそれは簡単に突破できてしまう。ようは大義名分があれば、浅葱の意思と関係なく外に出られるのだから。

(今は任務を全うするほうが大事だし……)

言い訳をするように心の中で呟けば、数メートル。浅葱と私。遠藤と麻布。気分的に別空間に感じられる、遠藤と麻布のいる数メートルまで近づき、「先生」と呼びかける。すると、くるりと麻布は振り向いた。

「先生、最後に大丈夫ですか」

「なんでしょう」

けろりと人を食ったような笑みを象っている。

「端的に、ご同行願いませんか?上級機関役所まで」

仕事であるなら、それが上級機関からのものなら強制力はある。なんの説明も身分紹介もなしだったせいか、麻布は目を丸くしている。浅葱は息を呑み、目をみはっている。昨日新鹿に言われたとおり推測を立てるなら、疑念、だろうか。それとも困惑なのかもしれない。

「ご同行願えないのなら、強制的につれていくまで、ですが」

ホルダーから銃を、ポケットから仮の身分証を取り出し、麻布に銃口を向ける。もし、この場に自分を無力化できる人間がいるなら、それは浅葱しかいない。三者三様の反応を示してくれている。浅葱は悲痛な顔でその場を見守るように、麻布はどこか悲痛な面持ちを浮かべ、問題の当人でありながらもどこか俯瞰している。俯瞰、まさしくそれだ。目の前の自分をめぐっている問題から一線離れてなにかを夢想するような。そして、遠藤は。

「先生を撃つな」

弱々しい、あまりにも弱々しく吼える声。凍る場に一石を投じたのは、遠藤一だ。銃口から麻布への直線状に遠藤は入っている。その行動に無論リアクションするものもいる。

「一!なにやってんだ!」

心配そうに、でも、どちらの味方をしていいか分からないという悲痛な面持ちの浅葱はただ、友人であろう遠藤一の名を呼ぶ。まあ、そりゃそうだろう。友達は大事だろうし。

(これが当然の形なのよね)

無意識に唇を噛んでしまう、悔しいわけではない、ただ少し胸が痛むのだ。

「志藤さん」

名前を呼ばれてはっとする。いけない、いけない。任務に集中しなくては。

「随分と熱心な信者をお持ちですね。で、先生、どうされますか?」

はっと嘲笑の色を浮かべてみる。浅葱は遠藤の方を見つつも、ちらちらと私のほうを見てくる……だが、今はスルーさせてもらおう。ちゃんと、帰ってきたらケリをつけるのだから。

「それは、機関配布の銃だね」

麻布は目を見開いて、確認するように問いかけながら近づいてくる。遠藤を押しのけ、その銀色の銃口を掴む麻布。遠藤は先生ッ、なんて叫びながら、銃から麻布を引き離したい一心で暴れるが、麻布自身の力が強いのと、浅葱が強制的に羽交い絞めにして引き離してくれたおかげでなんてことはない。まあ、羽交い絞めにしている浅葱は遠藤を押さえつつも、私のほうをモノ言いたげに見ている。

「そうですが……?知っているんですか」

「一番、最初に助けてあげられなかった子も役人さん、だったんだ」

悲痛に目を伏せながら、その銃口を撫でる。だった、それは過去形。最初に助けてあげられなかった、それはなにから?問いたくてもそれを聞くのがとても禁忌なようで聞けない雰囲気をまとっている麻布。

「別に、俺を殺そうってわけじゃないんでしょう」

「そうですね、殺せという命令が下っていたのなら……ドア開けた瞬間が貴方の最期、でした」

銃口を撫でる手がとまり、伏せた目が私を捕らえる。悲痛な目で私のことを見つめる。

「行きましょう、危害がないのなら此処でごねるのも時間の無駄ですから」

手が離れ、麻布は五分ほどいただけますか?なんていそいそとバッグに携帯などを片付け始めた。これで麻布の件は一件落着。と思いたいが。麻布とは関係ないところで、苦情があるといわんばかりの視線が突き刺さる。

「なにか言いたげね、遠藤一」

冷ややかに極力睨みはしないが、やさしさも見せない。そんな表情で遠藤を見ながら銃をホルダーにしまい、浅葱が羽交い絞めを解いたのか遠藤が近寄ってくる。とても恨みがましく、怨念のこもった瞳で睨みつけながら。

「先生は悪事なんてなにも働いてないだろう」

わなわなと遠藤の腕は震えている。その腕は今にも私に掴みかかりそうだ。

「人は裏でなにをやっているかわからないものよ」

いやまあ、今回のことは裏も表もないのだが。なにぶん説明が複雑すぎる、そして、それを行った当人の前で傷を掘り返すほど鬼ではない。恐らく遠藤だって今回の自殺が、今回の麻布の任意同行が自分のなした結果だと分かっているだろうから。

「先生はそんな人じゃないッ」

ぎりぎりと歯の軋む音がする。信仰とでもいうのだろうか、入学してまだ、そんなにたっていないのに一体なにがここまでの信仰心を生んでいるのであろう。今目の前にいる遠藤一は、信じている先生のいうことだから、なにもしないけど、先生が許したら飛び掛ってくる、そんな状態だ。写真で見た温厚で弱そうな面なんて想像もつかない。なにが彼をそうまで変化させたか……それはいま詮索するべきことじゃない。返す言葉を考えるのも面倒くさくなってしまい、襟についている盗聴器を口元に寄せる。

「聞こえてますか?今から役所に向かいます」

そう盗聴器に零し、背中を向けようとした瞬間。

「在香!」

「?!」

手首をとんでもない力で掴まれ、振り向かせられた。浅葱に。

「あ……え、と……」

なにを言えばいいか、なにを言おうか、なにを言えばいいか。いきなり振り向かせられ、考える余裕もなかったせいで口から情けない言葉しか発音されない。浅葱は腕を掴んで、俯きながらも目は真剣にこちらを捉えながら、なにかをぶつぶつ言っている。なにを言われるのか、別れ話だろうか、この関係は法的な拘束力はとてつもないが段階手順を踏めば解消できないこともなし。一瞬よぎった不穏な考えに心臓が早鐘を打つ。時間がなにかローラーで引き延ばされたように長く感じる。

「志藤さん、行きましょう」

何秒?何分?そんな長い時間に終止符を打ったのは、麻布の声だった。コートを身にまとい、今日は撤収という感じだ。麻布に呼ばれたことで、もうここにはいる必要はない。浅葱は手首を離さず、黙した。

「あ、浅葱」

離して、そういう前に重なる声。

「在香。今日は帰って来てくれ、ちゃんと話をしよう」

さびしげに微笑んだ浅葱は一方的に、そういえば渋々と手を離した。そして思い出す、話をしなきゃ、考えなきゃいけない。昨日自分は何のために新鹿にヒントを貰ったのだ。

「……うん、分かった」

少し声が強張るも返事をして、麻布の下へ行く。

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