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第10話 恵みと畏れの森〈6〉

「きゃああああああっ」

 絹を裂くようなキャスの悲鳴に蜘蛛が反応する。大きな体からは想像もつかないほどの、瞬時の跳躍。

 いけない! そう感じたアリシアは、熟考する間もなく行動に出ていた。レオとキャスの前方に魔法で壁を作る。

シールド!」

 叫びながら、どうして魔法に呪文が必要とされるのかをアリシアは実地で理解した。言葉にすることで迷いなく、基素エーテルを効率的に自分の目的のために動かせている感覚がある。アリシア自身がこの世界から借り受けた基素エーテルと、さっきレオから受け取った基素エーテルが融け合うように混ざってから、ガラス細工の加工のように引き伸ばされた。果たして、アリシアは仲間の前に透明な盾を出現させ、蜘蛛による体当たりを防ぐ。弾かれた蜘蛛はくるりと宙で回転して、少し距離のある位置へ着地した。

「アリシア様、すごい!」

 ニナが感嘆し、アリシア自身も魔法が機能したことにほっとする。

「キャス、大丈夫よ。落ち着いて」

 少女に声をかけると、キャスは「アリシアさん⁉」と驚き、自分が見知らぬ獣人に抱きかかえられている状況にようやく気付く。レオとニナがキャスのフォローに入り、アリシアも加わろうとしたが、事情をゆっくり説明している余裕は令嬢にはなかった。蜘蛛が、その節のある足を小刻みに動かして体の方向を変え、アリシアを正面にする。

 ──阻むな。邪魔立てするなら容赦はせぬ。

 それは奇妙な呼びかけだった。頭の中に勝手に入り込んできて、蜘蛛に聴覚をジャックされたようだ。金属のカトラリーで陶製の皿を誤って引っかいてしまった時のような不快さを覚えて、アリシアは恐ろしさと悪寒に襲われた。

(モンスターって、こんな風に話して呼びかけてくるものなの──⁉)

 王都育ちのアリシアがモンスターと対峙するのはこれが初めてだ。はっきり言って、こんな風に意志の疎通が図れるとは思ってもみなかった。なにしろ伝わってくるのは出没や駆除の噂ばかりなのだ。通常の動物が何らかの魔法の影響を受けた結果生まれるのがモンスターというのが定説だが、その実態は全てが解明されているわけではない。だからこそ、このロアラではモンスターと同じように魔法の影響を人間よりも色濃く受ける獣人が軽んじられてきた経緯がある。

 ──あの娘を返してもらおう。

 蜘蛛の顔から表情は読み取れない。そこにあるのは、真っ黒で大きな目だけだ。

「あっ」

 アリシアが視界から蜘蛛を見失って、思わず声を上げる。アリシアのそばにいた妖精も、一緒に驚く仕草を見せた。

(どこ⁉)

 反射的にキャスの安否を確認する。ニナが寄り添うキャスはしっかりと立っていて、襲われている様子はない。警戒するが、蜘蛛は見当たらずアリシアは困惑する。

「上です!」

 レオの鋭い声に、アリシアが顔を上げる。黒い塊、と思った。アリシアは向かってくる蜘蛛をかわそうと夢中で横跳びに逃げ、「シールド!」と呪文を唱える。現れた盾は先ほどよりも見るからに薄い作りで、着地してそのまま蜘蛛が突っ込んでくるのを防ぎきれない。勢いを殺す一旦の足止めにはなったものの、あえなく砕け散る。駆けながら背後を振り返ろうとして、アリシアは足をもつれさせた。

「きゃっ」

 バランスを崩して、勢いよく前方の地面に倒れ込む。しかしそれが功を奏して、ジャンプしてきた蜘蛛が間合いを誤った。捕まらずに済んだアリシアだが、もう逃げ場はない。蜘蛛の細かい毛や、顎がもぐもぐと何か言いたげに動く所までよく見える距離だ。

(しまっ──)

 アリシアが背後を見て瞠目した瞬間、蜘蛛の前に影が立ちはだかる。なびくたてがみが、令嬢の翡翠色の目に映った。

「マンジュ卿!」

 アリシアは慌てて立ち上がる。蜘蛛は、ライオン型の獣人を目にしてひどく不愉快になったようだった。

 ──なぜ人間に媚びる? その力、全ての生き物の中でもかなり上位のものだろう。いくらでも人間を従わせ、好きにできるはずだ。

 レオは反応しない。視線をブレさせず、隙を探る。

 ──歴史に学べ。人間は所詮裏切るものだ。例外はない。さっさと娘を引き渡せ。

「……忠告は受け取ろう。それは、互いに生あるものという同胞だからだ。しかし私達はそれぞれ別の世界を生きている。敵対するもやむを得ない」

(別の世界、敵……)

 レオの言葉の端々が気になって、アリシアは小さく口の中で繰り返した。

 ──交渉は決裂のようだ。

 蜘蛛がレオに飛びかかる。レオはアリシアの前から退かない。「マンジュ卿!」と再びアリシアがレオを呼ぶ声は悲鳴と言ってよかった。蜘蛛は大きく口を開ける。レオは、その口の中へ敢えて左手を突っ込んだ。そのまま左腕を力任せに振り上げ、蜘蛛の身軽さとジャンプの勢いを利用して、その体を上方へ持ち上げる。無防備にさらけ出された蜘蛛の腹へ、レオの右手の爪が深々と刺さり、そのまま横薙ぎにした。

 ──おのれ!

 蜘蛛はレオの爪が届く間合いの外に飛び退く。透明な体液がぼたぼたと地面に染みた。だが、致命傷ではないらしい。その時、フォグの声が「レオ坊! 後ろだ!」と響いた。

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