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第10話 恵みと畏れの森〈5〉

 間近で見るキャスの体は、蜘蛛の糸で編んだ目の細かいネットで木の枝に固定されている。斜めに伸びている木の枝の一本を背もたれにするような姿勢だ。手足は当然のこと、肩や首の周辺もガーゼのような糸で拘束されていて、これではたとえ目覚めたとしても体の自由は利かないだろう。

「キャスちゃん」

 テリーが呼びかけても反応はない。テリーは素早く状況を確認して、その手足に絡み付く糸を引きちぎる。あまりにもショッキングなビジュアルだったから身構えたが、さほどの強度でもない。

「なぁんだ、こんなモンか」

 しかし、細い糸を何重かに撚り合わせたような、他とは太さの異なる紐は少し勝手が違っていた。なかなかの丈夫さだ。親が赤子を負ぶうようにキャスの体をぐるりと回り込んだ細いロープを断ち切るには、テリーの手斧が必要だった。

「首尾よくいったぜ、レオさんー」

「よかった。風の基素エーテルでキャスさんの体を少し浮かせます。軽くなる感じがあれば、手を離してももう大丈夫です」

 アリシア達がはらはらと見守る中、無事にキャスの体は蜘蛛の糸から解放され、レオがしっかりと受け止める。救出は大成功だ。

「キャス!」

 じっとしていられず、アリシア達が駆け寄る。さっきフォグから蜘蛛の食事方法について聞かされていたアリシアは一番にキャスに異変がないかを確かめた。顔色は悪くないし、怪我もなさそうだ。アリシアの肩から力が抜ける。

「よかった、キャス……」

「ご無事みたいで何よりですね」

 ほっとした表情で、ニナが令嬢の安堵に同調した。アリシアが息をつく様子を見守るのはレオも同じことだ。悪評高い人間が目の前でこんな風に他者を思いやる様子に、レオは奇妙な感慨を覚える。過去のアリシアには実際他の貴族同様に軽んじる扱いをされてきたのだが、まるで人が変わったようだと最近の令嬢の振る舞いをレオは思った。

「ふーむ……特に何かが近付いてくる様子もないですね。このままさっさと立ち去るのがいいでしょうなァ」

 フォグが周辺をぐるりと見回す。確かに静かなものだ。さぁ、テリーが降りてくるのを待って、次に──、とアリシアが考えを巡らせようとした、その時。「うわああああ!」という絶叫が、木の上から届いた。

「テリーさん!」

 フォグがいち早く反応して思わず羽ばたき、ばさばさとテリーのいる高さまで飛んでゆく。アリシアは何事かと動揺し、咄嗟にレオが抱えるキャスをかばうように身を寄せた。視線は、フォグを追って上へ。半分鳥の彼が両足を揃えて何かに鮮やかな蹴りをお見舞いするのが、木を見上げるアリシアの目に映った。

 フォグの「テリーさんは無事です! 皆さんお気を付けて!」という声がして、事態を飲み込めていないアリシア達の前に、どっ、と重たい音が響く。

 ──蜘蛛だ。

 小柄な成人女性がうずくまったくらいのサイズ感。細かな毛がびっしりと生えた黒っぽい体表。節の目立つ、すらりと長い八本の足。中央の二つが特に大きな、頭部に環状に並んだ六つの真っ黒な目。フォグに蹴られて、蜘蛛が落ちてきたのだ。

 「ひっ」と短い悲鳴を漏らして、アリシアが体を強張らせる。距離が近い! 思わず叫びだして地団太踏みそうになるのを、レオが即座に獣の手をアリシアの口元に宛がって防ぐ。令嬢の柔らかな唇に肉球が触れた。妖精が心配そうに近くを飛び回る。

「静かに。刺激しないようにゆっくり下がりましょう」

 素早く発せられたレオの声は、シチュエーションに似つかわしくないほど穏やかで冷静だ。それはアリシアとニナをパニックに陥らせないための策である。

「大丈夫です、最も危険なタイミングは過ぎました。こちら側の不意を一番突きやすい出合い頭に攻撃してこない」

 アリシアとニナは涙目になりそうな心境のまま、無言で何度も頷く。その段になってレオは自分が反射的にアリシアの口元を覆っていたことに気付き、「し、失礼をしました」とその手を引っ込めた。

 アリシア、ニナ、そしてキャスを抱えたレオがゆっくり一歩ずつ後ずさりする。蜘蛛が動く気配はない。落ちた衝撃で死んでしまったのではないかと思うほどだ。

「あの、襲ってきませんね? どうしてでしょう?」

 ニナがが小声で疑問を口にする。レオが「分かりません。ですが、キャスさんも捕まってはいましたが無事でしたし、食事をもう摂ることのない弱った個体なのかもしれません。もしくはすでに満腹か……」と彼なりに考察しつつ答えた。

 蜘蛛との物理的な距離がわずかずつ開いてくることで、アリシアの狼狽は多少落ち着き、冷静な思考を取り戻す。

「……このまま、あの蜘蛛を退治せずに放っておいてよいものなのでしょうか?」

 予想外のアリシアの言葉に、レオは思わず「えっ」と驚いた。

「退治、ですか?」

「ええ。さっき、村人の彼は森を仕事場と言っていたでしょう? 領民の危険はなるべく排除してあげたいもの」

 まさか危険の渦中にあるにも関わらずアリシアがそんなことを言うとは思ってもみなかったので、レオはやや面食らった。そして蜘蛛退治について話す。

「アリシア様。蜘蛛の体はそう頑丈ではありません。私の爪や牙で倒すのは容易でしょう。厄介なのは毒を持つ蜘蛛がいることです」

「毒……」

 レオが「残念ながら、自分には知識が足りません。私が爪を突き立ててよい相手なのか判断が付きかねるのです。フォグおじさんほど、生態や弱点を把握できていない」と告げるさなか、彼の腕に抱かれていたキャスが身じろぎした。覚醒しきらない重そうな瞼を何度か瞬きさせる。アリシア、レオ、ニナが何か言う前に、彼女はまだ十分に距離を取っているとは言えない巨大な蜘蛛の姿に恐怖した。

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