目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
第9話 はぐれ妖精〈終〉

 寿命を迎えて看取った猫。その在りし日の姿を思い浮かべながら、アリシアは指の腹で肉球の質感を味わう。トラちゃんのピンク肉球のぷに感とは異なる、硬いゴムのような手触り。それでも、同じネコ科というだけあって、思い出を呼び起こすには十分な状況だった。

「トラちゃん……」

「アリシア様?」

 令嬢の様子を戸惑いの表情で窺うレオに、思わずアリシアが「あっ、すみません!」と反射的に謝る。

「いいえ、大丈夫ですか?」

「は、はい」

 アリシアは頷き、レオからのレクチャーは再開された。

「以前、混成魔法のお話を少ししましたね。

 アリシア様、私の基素エーテルは分かりますか?」

「は、はい。何と言うか……少しだけ、指先の温度が上がったような感じがします」

 レオが「では、覗き窓を私達の手で作ってみましょう」と、アリシアの視線に合うよう、手の高さを調整する。

「指先を合わせる必要はありません。……向かい合うより、隣り合った方が手の角度を使いやすいですか?」

 レオがアリシアの隣に立った。獣の手が、爪を当ててしまわないようにと軽く拳を握り込む。その手の甲をアリシアへ向けた。令嬢が親指と人差し指で半円の弧を作ってレオの手に触れ、彼女が風景を見るためのスペースが生まれる。

「これでよろしいかしら?」

「はい。覗いてみてください。何か見えますか?」

 尋ねられて、アリシアは手で作った覗き窓から世界を見た。少しでも広く景色を見ようと、頭を左右に揺らしたり、身を屈めて見上げたりしてみる。

「あ」

 アリシアが短く声を発して、何度か瞬きした。

「マンジュ卿、今、小さな人影が……!」

「見えましたか。あれが妖精です」

 レオが微笑み、ニナも「すごいお嬢様!」と数回拍手を送る。つられるように、フォグも嬉しそうに翼をバサバサと動かした。

「水車の近くを飛んでいたんです。わたくしがびっくりしたのに気が付いて、あの木の裏側に隠れてしまったようですわ」

 アリシアは高揚した様子で話し、「ニナも、覗いてみてちょうだい」と側付きメイドを呼んだ。

「ほら、そこの木の。あら? えっ? こ、こっちに……」

 アリシアは覗き窓を通して見える光景に驚き、思わず後ずさる。その一歩が、足元の小石を踏んでしまった。アリシアがよろめく。隣のレオが、覗き窓を作るために添えていた手を咄嗟に動かして令嬢の体重を受け止めて支えた。

「す、すみませんっ」

「こちらこそ、思わず無礼を致しました」

 レオは、アリシアがバランスを崩さずに立てているのを確認してから手を離す。紳士然としたレオの振る舞いに、アリシアは改めて年齢のことを考えた。

(これで本当に十六歳だなんて……)

 さっきレオは早生まれの十六歳と話していたから、学院に通っていればアリシアと同学年ということになる。 人間換算では二十代とおっしゃっていたけれど、ワントの方は皆こんな風に大人っぽいのかしら、とアリシアは隣国の様子に思いを馳せた。

「大丈夫ですか、お嬢様」

 心配するニナの声。アリシアは「ええ。さっきの妖精が近付いてきたからびっくりして……」と言いかけて、さっき覗き窓を作っていた手に目を落とす。そして、なかなかに大きなボリュームで「え!」と驚嘆した。

 妖精が、いるのだ。自分の手の甲の上に。人差し指と中指の付け根辺りの関節部をベンチのようにして、ちょこんと座っている。陶製人形のような見た目だが羽毛のように軽く、重さはほとんど感じない。うぐいす色のワンピース。白いヴェール。トンボみたいに透けたはね。触れている質感は、しっとりと水分を含んだ花びらによく似ていた。

「あ、あの! ここっ、ここに!」

 うろたえるアリシアをきょとんと見ていたニナだが、アリシアが口をぱくぱくさせて指差す先を見るうちに「んん? 何かだんだん……えぇっ」と目を丸くする。

「み、見えてきました、私にも!」

 ニナが「レオさん! これってどういうことですか⁉ 覗き窓とか使ってないのに!」と説明を求めて、アリシアもレオに視線を向ける。レオが「アリシア様とこの妖精は、波長が合うようですね」と興味深そうに令嬢の手元を見つめながら返事をした。

「存在を認識すれば見えてくる、と先ほどお伝えした言葉の繰り返しになってしまいますが、誰にも気付かれない妖精はたいてい目に見えないのです。この妖精がアリシア様と同調しやすいために、アリシア様が妖精の存在を認識したことで姿をはっきりと現したのでしょう。相性が良ければ、そのうち妖精の声を聞けるかもしれませんよ」

 アリシアは、不思議な気持ちで手の上の存在を見つめる。妖精の顔立ちは、人間とそう変わらない。瞳の色は、小さな作りの彼女のワンピースとよく似ていた。

「じゅ、授業では、妖精は群れて集団を作るものだと聞きました」

 アリシアの言葉に、レオは「その通りです」と答える。

「私の分かる範囲に、妖精の群れは見当たりませんね。迷子になったはぐれ妖精か、もしくは新たに生まれた妖精でしょう」

 レオが辺りをうかがう様子を見せて、フォグも「確かにいなさそうですねぇ」と相槌を打った。ニナが「えっ、じゃあ、この妖精が赤ちゃんかもしれないってことですか!」と言って、まじまじと小さな存在を見る。アリシアは周囲の会話を聞きながら、ずっと妖精と見つめ合っていた。

「……何となく、生まれたばかりの妖精であるような気がします」

 レオが「波長の合うアリシア様がそうおっしゃるのですから、その可能性は高いかもしれませんよ」と告げる。

「濃い基素エーテルが妖精を形作っている、というのが定説ですが、誰かの善性の発露だとか、人や獣が亡くなって妖精になって帰ってくる、というのもよく聞く逸話です」

 そう言われると、アリシアにとっては目の前の小さな妖精が何だか他人とは思えなくなる。

 その時だった。レオがスッと背筋を伸ばして、集落の方向に注意を向けた。フォグも、翼を一旦広げてからケープの内側に納め、何かに備えるような仕草をする。

「マンジュ卿?」

 疑問に思ったアリシアに、レオが短く「誰か来ます」と返事をした。

「誰かが走って来る足音です。かなり急いでおられるようだ。こちらからも向かいましょう」

 アリシアは頷く。歩き始めようとして、手の甲に止まっていた妖精とまた目が合った。生まれたばかりかもしれない、と聞いたのもあって、このまま放って行くのも気が引ける。

「……群れが近くにいないなら、わたくしと一緒に来る?」

 アリシアが歩きながら尋ねると、妖精は分かっているのかいないのか、アリシアが動くことで受ける風に何度かはねを震わせて、そのまま飛び立った。とはいえ遠くへ飛んで行ってしまったわけではなく、アリシア達に併走するように周囲を飛び回る。

「妖精ちゃん、ついて来ますね」

 ニナが驚く様子に、アリシアが「そうなの」と頷いた。再び手に止まった妖精をアリシアが自分の肩口にそっと移してみると、彼女は居心地を気に入ったらしく、もう飛び立たずに腰掛けていた。

 アリシア達が川沿いを進み始めて間もなく、前方から走ってくる人が見えた。男性だ。茶色いウール製チュニックを着た村人は、息を切らせていた。

「レナルドさんは水車小屋か⁉」

 アリシアら一行は顔を見合わせて、「いえ、通り沿いの自宅へ戻られたわ」と令嬢が答える。

「そ、そうなのか。その家にいないから、水車小屋だと思ったんだが」

 村人の返事を聞いたフォグが「おかしいなぁ。道は一本道ですしねぇ」と首を傾げた。ニナも一緒に不思議そうな顔をする。

「私達、立ち話はしてましたけど、レナルドさんがお家へ帰り着くほどの時間は経っていないような……。いえ、男性の足ならそうでもないのかしら?」

「なぁ行商さん、レナルドさんは他にどこかへ寄るって話はしてなかったかい?」

 慌ただしい男性からの質問に、フォグは「いいえ、何も」と首を振る。そして、鮮やかな羽が美しい頭を傾げて、顔馴染みらしい村人に尋ねた。

「何かお困りですか? ワタシに何かできますかね?」

「さ、探してほしいんだ。神隠しだよ!」

 アリシアにとってはあまり馴染みのない響き。それでも、相手の表情から深刻な状況らしいということは伝わってきて、不穏な予感に胸が騒いだ。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?