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第9話 はぐれ妖精〈8〉

 アリシアがきょろきょろと周りに視線をやっているので、レオが声をかけた。

「ひょっとして……気付いているけれど、見えてはおられないのでは?」

 哲学の問答のようなレオの問いかけに、アリシアは「どういうことですの?」と尋ね返した。レオが「妖精ですよ」と思いがけない答えを返してくる。

「存在を認識すれば、見えてくるものなのです。妖精というのは」

「……妖精……」

 あまりにもファンタジーな言葉に、元の世界の人格である桐谷優子はワクワクするが、器としてのアリシアはどこか空恐ろしい感覚も覚えていた。妖精というのは、ただ可愛らしく飛び回るだけではなく、無邪気なだけに洒落にならないイタズラもしでかすからだ。

 レオが「少しだけ、お手伝いしてみましょう」と微笑んだ。

獣人セリアンの子供向けの、簡単な魔法のレッスンです。ワントの昔ながらのやり方ですから、アリシア様のお役に立てるか分かりませんが。まず、お手を拝借して……」

 そう言いかけたが、金色の獣の目をハッと見開き、差し出しかけた自分の手を引っ込める。

「すみません、失礼なことを」

 頭を下げるレオに、アリシアは「あら、ぜひご教授頂きたいわ」と願い出た。

 レオは一瞬迷う顔を見せる。

「そ、それは……」

「おや、出し惜しみしないで教えてやんなよ、レオ坊」

 レオのアリシアの様子に気付いたフォグがさらりとそう言って、「なぁ、ニナちゃんも気になるだろ? 魔法のレッスン」と隣のメイドへ話を振った。ニナが頷く。

「はい、おもしろそうです! 私、魔法はさっぱり才能がないみたいで練習することもあまりなかったんですよね。ひいおばあちゃんが子供の頃は故郷の村にも魔法が得意な人がたくさんいたらしいのですが、最近はうまく扱える人は少なくて……私はせいぜいお天気を当てる勘がよく働くくらいなんです。だから教えて頂けるなら嬉しいです」

「やや! 天気を読む魔法は重畳ですよ! 渡り鳥の一族には欠かせません」

「へぇ! あっ、でも私、慣れた道じゃないと方向音痴なタイプで……」

 ニナの言葉を聞いたフォグが「じゃ、渡りはダメだ。オススメしません」と、即座に前言を撤回するので、そのテンポの良さに思わずアリシアもニナも笑ってしまう。そんなアリシア達を見て、レオは考え直したようだった。

「……お伝えできるのは、あくまで簡単な手ほどきですが。ではまず、リラックスして呼吸してみましょう」

 そう前置きして、レオは背筋を伸ばして胸を張り、自然な仕草で深呼吸した。アリシアとニナもそれにならう。さっきまで和気あいあいと談笑していた分、互いの声に代わっての静けさを感じた。いや、ただの静寂ではない。耳を澄ませば、せせらぐ川や吹く風の存在がすぐそばにあるのだと分かる。

「魔法を扱う時、基素エーテルの手触りを感じたことがありますね? ぬるま湯に手を浸しているような感覚のあれです」

 アリシアは頷く。

「学院の授業の中で、似た講義がありましたわ。体感としては何となく、ですけれど」

 ニナの方が大真面目に分からない顔をしているので、レオは自分の獣の手をしばらく見つめて集中してから、「ニナさん、私の手に触れてみてください。爪先はちゃんとしまっていますから」と促した。

 ニナが興味津々でレオの手に触り、「わー!」と驚きと興奮が混じったような楽しげな声を上げる。

「わ、分かります分かります! 何かこう、洗濯仕事を頑張った後の、手がじーんと痺れるようなあったかいような感じがあります!」

 レオが「それが基素エーテルです。少し集めてお渡ししました」と説明を添えた。

「私は風と最も相性がいいので、風の基素エーテルが多く含まれていると思います」

 それを聞いたアリシアは、婚約破棄された晩餐会のあの日、テラスでレオと二人きりで話していた時に一陣の風が強く吹いたことをふと思い出した。手ほどきは続く。

「指先に基素エーテルを集めるイメージをしてから、ご自身の瞼にそっと触れてください。そして、目の中で基素エーテルがくるくると循環しているような想像をします」

 言われた通り、アリシアとニナは目を閉じて実践してみる。

「その状態で周囲を見ると、妖精の姿や魔法の痕跡を捉えやすくなります。必ずうまくいくとは限りませんが」

 レオに「目を開けてみてください。いかがですか?」と言われて、二人は瞼を開いた。変わったことは何もないように見える。首を傾げ合って「やっぱり難しいみたいね」と話すアリシアとニナの様子を見て、レオが「あの」とアリシアに申し出た。

獣人セリアンは直接目で見ることが多いですが、人間であるアリシア様なら、その両の手を使って覗き窓を作る要領でも同じことができます。もしよろしければお手伝いしますので、お手を」

 さっきは引っ込めた獣の手が、再びアリシアに差し出される。

「では、せっかくですから。ぜひ」

 アリシアとレオの仕草は、まるで舞踏会で申し込んだダンスの誘いを承諾したようだ。強い風が吹き、川沿いの木々が揺れて葉擦れの音がした。

 レオの手に、アリシアが自らのそれを重ねる。人間の指先が、獣の手のひらの短い毛と褐色の肉球に触った。アリシアが、ハッと目を見開く。

(に、にくきゅ……!)

 優子の意識の奥底で、はっきりと思い出される感覚があった。実家で飼っていた猫、トラちゃんだ。

(トラちゃんにふみふみされるの、至福の時間だったなぁ。夢中になってて、可愛かった……)

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