太陽が温める前の、ピオ村の朝の空気は澄んでいる。エリックは生あくびを噛み殺し、一晩休ませた馬に再び荷車を繋いだ。
「ほら、あの教会だよ。親父」
ターキの前でエリックが指差した先にあるのは、昨日アリシアがスグリの実を摘ませてもらった教会だ。森林に接し、耕作地の広いピオ村の中心に教会はあり、そこから伸びるメイン通り沿いが住民達の集落となっている。教会と集落を隔てるように川が流れていて、川辺には水車小屋や鍛冶場が設けられていた。
「治安の良い村だが、お嬢様だけで初日に出歩いて頂くのは心配だったからな。お前がついてくれて助かったよ」
ターキの言葉に、エリックが「それは全然いいんだけどさ、でもいいのかな」と疑問を口にする。
「俺達が王都のお屋敷に帰っちまったら、この家にアリシア様とニナの二人きりってことだろ? 無用心じゃねぇかな」
「村民達はそこまで愚かではない。村の有力者には、旦那様から書簡でお嬢様の滞在について事情の説明がなされている。お嬢様に何かあれば村に対してどんなペナルティがあるか、推して知るべし、というやつだ。昨日は、慣れない土地で単純に道に迷ったりされないか心配だっただけだ」
ターキは、ポーレット家当主・ジョージの乗る馬車の御者として何度もこのピオ村に来ている。ジョージの村内での移動の全てに付き従っているのだから、父親の認識や予想の精度は確かだろう。そこまで考えて、エリックは「あ」と、気になっていたことを思い出した。
「なぁ親父、ロックフォードって苗字、聞いたことある?」
「……由緒ある名前だな。旦那様の親友のお一人に、ロックフォードの血筋の方がおられるが」
ターキが「どうかしたか?」と尋ねるので、エリックは昨日のアリシアとキャスの会話について説明する。
「見通しのいい場所だと俺が尾けてるのがバレるからさ、昨日の帰りは俺が先行して道を戻って木に登って様子を見てたんだ。そしたらアリシア様達が話してるのがハッキリ聞こえちゃって。ゆうべ軽く報告した時に、村娘が教会へ案内してくれたって話したろ? その子が、アリシア様の知り合いにそっくりらしいんだ。ルーク・ロックフォード、って人に」
エリックの話を聞いて、ターキはすぐに言葉を返さなかった。どう伝えたものか迷うような、不自然な短い沈黙が生まれる。不思議そうな息子に、父親は「……私も詳しくは知らないが」と前置きした。
「その話、旦那様のお耳に入れたうえで、他人には吹聴せぬほうがいいだろう」
ターキが明言を避けるということは、何か理由あっての配慮だろう。エリックは「分かった」と素直に頷き、予定通りに父親とピオ村を出発した。
ターキとエリックがピオ村を出てからしばらくして、メイドのニナはぱっちりと目を覚ました。ここは王都ではない。ロアラの南端区域にあるポーレット家所領の荘園だ。常春の国と呼ばれるロアラだが、一年を通して春というわけではなく、他国と比べ、春と呼ばれる温暖な期間が長くて冬の寒さも厳しくない、と表現するのが正しい。今の季節は秋で、春と同様に過ごしやすく、応接間で一夜を明かしても何ら問題はなかった。
「とはいえ……ねぇ?」
ニナが自分に課すピオ村での初仕事は家の掃除だ。特に、まだ全く掃除されていない二階の部屋。
起き上がったニナはまず井戸で水を汲み、掃除用具を準備して階段を上がった。二階にはメインの寝室のほか、小部屋が二部屋ある。まずは窓を開け放す。続いて、ホウキでの掃き掃除だ。全ての部屋を掃き終えたところで、階下から「ニナ?」とアリシアの呼ぶ声がした。
「はーい! 二階におります!」
一旦掃除を中断して、ニナは応接間へ戻る。
「おはようございます、お嬢様!」
「おはよう、ニナ。あなたも、ターキも、エリックも早いのね。わたくしだけ、すっかり寝坊してしまったわ」
アリシアは、両の手を組んでから天に突き上げるような仕草で伸びをした。ニナは首を振り、「私が起きたのはアリシア様とそう変わりませんよ」と笑う。
「
「まぁ! 勤勉であることは美徳ですけれど、ちゃんと眠っているかどうか心配になるわ」
アリシアの言葉は、良くも悪くも本心で、単なるうわべだけのものではないとニナは知っている。そんな彼女だからこそ、少し前なら考えられないアリシアの発言に驚いた。
「アリシア様、少し変わられましたね。前にもお話した気がしますが、言い方が何だか柔らかくなったというか……」
アリシアはどきりとする。今の彼女は、器としてのアリシアと、ライゼリアとは異なる世界に生きていた桐谷優子の人格が重なっている状態だからだ。以前のアリシアは、その事情をニナに説明しようとしたが、十代の若者によくある一過性の言動だと思われてうまく伝わらなかった。下手に主張すれば継母に告げ口されて藪蛇になりそうで諦めたのだが、今は、その時とは異なる理由でアリシアは事情の説明をためらった。
(せっかくニナと友情を深めたというのに、ここで自分が元のアリシアではないと知ったら、ニナはどう思うかしら。だまされたとか、元のアリシアを返してとか……、そんな風に思われてしまったら──)