アリシアが小高い位置にあるポーレットの家に戻る頃、日暮れは間近に迫っていた。すでに馬車や荷馬車は家の前に見当たらない。馬達は厩でくつろぎ、馬車や用具は納屋にしまわれているのだろう。アリシアは急いで応接間に向かう。
「ニナ!」
応接間の燭台には火が入っている。部屋には、ポーレット家のメイドのニナと、馬の世話を担当する御者のターキがいて、低いテーブルにささやかな
「起き上がって、もう大丈夫なの?」
テーブルの端にヴェールを置いてアリシアが尋ねると、ニナは笑顔で返事をした。
「はい! ついさっきまで横にならせてもらっていたんです。もう目まいもありません。私が寝ている間に
説明を始めてから、ニナはハッと気付いて頭を下げる。
「あの、わざわざお出かけになってくださったと聞きました。すみません」
「謝ることないわ。むしろわたくしが──」
アリシアは首を振り、「謝らなければならないのはわたくしのほうよ」と続けた。
「ニナ、あなたの気遣いを無碍にしてしまった自分勝手な振る舞いを後悔しているの。本当にごめんなさい。ニナの優しさに、わたくしはいつも救われているわ」
アリシアの言葉に、ニナは何のリアクションもなく固まってしまう。さらに何か言うべきかと令嬢が考えかけた瞬間、ニナのリスのような愛らしさのある黒目がちの双眸からまとまった量の涙が一気にあふれて頬を伝った。
「あ、あ、あ、アリシアさまぁあああ」
令嬢よりも何歳か年上のメイドは、まるで子供のように泣き声を震わせて、その顔を両の手で覆う。
「アリシア様の気持ちを何より大事にするべきだったのに自己満足だったって反省したんですぅうう、だからこのピオ村に私がご一緒してもご迷惑かもって思いながら、でも、旦那様から今回のお話があった時、こ、断りたくなくてぇええ、お力になりたくてぇえええ」
スイッチが入ってしまい、ニナは胸の丈をほとんど一息に吐き出した。側付きメイドに八つ当たりしてしまった罪悪感と、数年の差とはいえ年下の自分を慕ってくれるいじらしさにアリシアも思わず涙がこみ上げる。
「ニナ、顔を上げてちょうだい」
アリシアはハンカチを差し出した。ニナが遠慮して受け取らないので、その濡れた目元を優しく拭う。
「あなたは、ポーレット家の大事な使用人よ。信頼しています」
令嬢の声は、十七歳になったばかりの少女らしい内心の感慨など微塵も感じさせないほど凛としている。その上で、アリシアは主人側に立つ者として精一杯の親愛をニナに示して微笑んだ。
「わたくし達の主従の立場の中には友情を内包していると……、ニナ、わたくしはそう思っているのよ。あなたもそうだったら嬉しい、って」
「アリシア様……」
アリシアとニナはお互いに相手を見て、何だか照れくさくなり小さく笑い合った。自分達の心の在り処がこれまでで一番分かちがたい場所にあるような気がする。ニナが再び感動にむせびそうになる中、エリックの声が「一件落着、って感じのとこ申し訳ないんすけど」と割って入った。
「井戸から炊事場に水汲んでおきました。アリシア様、果物が見つかったなら俺が洗ってきますよ」
エリックがターキに目配せする。ターキも、かすかに頷いた。アリシアの身に万一の危険が及ぶことのないよう、ターキの言いつけでアリシアの後をこっそり追従していたエリックだが、何もトラブルは起こらず無事にアリシアは戻り、エリックは自分の姿が見当たらなかったのが不自然に露見しないよう、井戸からの水汲みを済ませて応接間に合流したというわけだ。
「ありがとう、エリック。ほら、ニナ、スグリの実を摘んできたの」
「アリシア様にご足労頂いて恐縮です……って! は、
「あら、染みになったって気にしないわ。花嫁衣裳じゃないのだから」
ヴェールを汚してしまったと馬車酔いとは違う意味でニナが一瞬顔を青ざめさせ、アリシアは動じずに受け答えする。しかし、それがまたニナにとっては別のトリガーになったようだった。
「ほ、本来なら……本来ならアリシア様のハレの日のために花嫁衣裳の採寸予定も組んでたのにぃ……」
再び手で顔を覆うメイドに、エリックは半ばあきれ顔だ。少年はニナを横目にスグリの実を受け取って炊事場へ向かい、ターキが食事の準備を終えてしまおうとニナに話しかけた。
「さ、ニナも本調子ではないしお嬢様もお疲れでしょうから、早く食事を済ませて今夜は休むのがいい。給仕長特製のパテで簡単なサンドイッチにして、お嬢様が摘んできてくださった果物を頂こう」
「はいぃ……」
ニナは何とか気持ちを切り替えて、夕食の支度に戻る。
アリシアも何か手伝おうとニナとターキに申し出ようとしたが、不意に背後を振り返った。
(今、何か、気配というか視線というか……)
アリシアの視界には誰もいない。あるのは、椅子、ソファ、それから暖炉。この応接間は広く、主人も使用人もこの部屋で寝泊まりできるようになっている。特に冬場はそうやって過ごすことが増える。貴族の郊外邸では珍しくない構造だ。
(暖炉があるし、風でも吹き込んだのかしら)
アリシアは深くは気に留めず、夕食の用意に加わった。