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第7話 いざピオ村へ〈終〉

「アリシア様、ニナの奴どうです?」

 荷物を運び入れる作業中のエリックが、荷馬車へ戻る前にと応接間に立ち寄る。

「うー、揺れてますぅ……」

 ニナのうわごとを聞きながら、アリシアは小さな声で「さっきよりは落ち着いたと思うわ」と答えた。エリックが様子をちらりと見る。そして、「このバスケット、パンとかワインの瓶とか入ってたんで。何か口にした方がよさそうなら」とアリシアに差し出した。

 気の利くエリックに、思わずアリシアは感嘆する。バスケットを受け取り、アリシアはそばのテーブルに置いた。

「さすがターキの息子ね」

「へへ、褒めてもなんにも出ないすよ」

 エリックは「熱はなさそうです?」と尋ね、アリシアが額に触れて確かめる。

「熱くはないわ」

 心配そうなアリシアの声。エリックが「ならそこまで深刻じゃないですよ」と明るく言う。

「吐き気がなくなったら、何か飲んでおいてほしいところですけど。うーん、ワインより何か果物探して来てやったほうがいいかな」

 それを聞いて、アリシアはすっくと立ち上がった。

「……わたくし、行ってきますわ」

「え⁉」

 令嬢がそこまで使用人のために動くとは思っていなかったエリックが、驚きの声を漏らす。アリシアは外套を羽織りかけてから一瞬動きを止め、羽織るのをやめにしてソファの背にかけた。

「もし必要になったらニナに掛けてあげて。お願いね」

 ぽかんとしたままのエリックを応接間に残し、アリシアは家を出た。荷馬車のところにターキがいて「アリシア様?」と声をかける。

「どちらへ?」

「果物を探しに行きたいの」

 真剣な表情でそう言われたら、なぜ、と問わずとも、ターキにはアリシアの行動の理由が手に取るように分かる。

「私どもが代わりに行きます、と言いたいところですが」

「ターキとエリックには重い荷を運んでもらっているもの。私が出かけるほうが合理的なはずよ」

 アリシアが意志を曲げないのを見て、ターキは「……敷地を出て右に進まれるとピオ村の集落の中心です。この時刻なら、外仕事を終えた誰かしらを見かけるでしょう。暗くなる前に」とアドバイスした。アリシアは頷き、かぶっていた白麻のヴェールが揺れる。そして、教えてもらった方向を早足で目指し始めた。

 ターキは「やれやれ」と小さく肩をすくめてから、急いで家の中に入った。自分の息子へ、令嬢の身に危険が及ばぬよう見張る役目を与えるために。


 ピオ村を照らす太陽は少しずつ傾いてゆく。王都よりも、日の落ちる速度がゆるやかであるようにアリシアは感じる。それはきっと、この地が瑞夏ずいかの国、ワントとの境に近いからだろう。

 急ぎ足のアリシアはきょろきょろと辺りを見回しながら歩いていた。ターキに助言はもらったけれど、自分が闇雲な行動に出ている自覚はある。

(何の見通しもないのは、果物を探しに来たことだけじゃないわね)

 大善を知る雫と呼ばれる結晶の生成についても、そもそも元の世界の桐谷優子が今どんな状態で、自分が元の世界に帰れるかどうかも、何もかもはっきりとしたことは掴めていない。

(でも……)

 それでも、何かせずにはいられないのだ。

 アリシアは、自分の声が届くかどうかの位置にある木の陰に少女が佇んでいるのを見つけた。

「そこのあなた!」

 できる限り大きな声を張り上げて、アリシアは少女の元へ急いだ。少女は、自分が呼ばれていることにすぐ気付いたようで、彼女からもアリシアの方へ歩を進めた。

「お姉さん、誰? どうしたの?」

 遠目には小さい子供かと思ったが、近付いてみるとそれほど幼子おさなごというわけでもない。学院の生徒でたとえるなら、中等部くらいだろうか。灰色のワンピースを腰の革ベルトで締め、肩につく長さで揃えた髪型は可愛らしく丸みを帯びている。少女の髪と瞳は涼しげな淡い青をしていて、アリシアはどこかで見たことのある色合いだと思った。

「私はアリシア・ポーレットよ。はじめまして。あのね、気分が悪い人のために果物を探しているの」

 少女はその返答だけで、自分のするべきことを悟ったようだった。聡い子だ。

「こっちよ。今、教会の庭にフサスグリがってるの。誰でも食べていいのよ。近道があるわ」

 少女は急ぎ足でアリシアを導く。「ありがとう。あなた、お名前は?」とアリシアは尋ねた。

「キャス」

「キャスね。素敵な名前」

 それを聞いて、キャスははにかんだ笑顔を見せた。

「ここを通るの」

 民家の庭を囲う生垣の一部が途切れて、秘密の抜け道のようになっている。キャスの案内に従って、アリシアは教会を目指した。

 日が少しずつ暮れ始めて、薄暗さが増している。キャスが「ここよ」と到着を知らせたのは、教会の裏手だった。さっき教えてもらった通り、青々とした低木にスグリの実がたわわに生っている。キャスがいくつか摘んで、アリシアに見せた。

「赤いのはかなり酸っぱいわ。でも気分が悪い人にはすっきりしていいかも。白スグリは甘いから、そのまま食べるならこっち」

 小さな果実達は、まるで宝石箱から取り出してきたようにツヤツヤしている。「本当にありがとう」とアリシアはヴェールを外し、自分の髪を編むのに使っていた青いリボンの一本をほどいて差し出した。

「これは目印よ。今は何も持ち合わせていないけれど、後で必ずお礼をさせて」

 キャスにとってはシルク製のなめらかな手触りのリボンそのものが十分に礼の品のように感じられたが、アリシアは「ポーレットの家へぜひ来てね。もしあなたが来なくても、わたくしから探しに行くから」と冗談めかして約束させる。令嬢は急いでスグリの実を摘み、ヴェールを開いて大事そうに包んだ。キャスも一緒に実を摘んでアリシアに渡す。「これくらいで大丈夫だわ」とアリシアが収穫を終えると、キャスはいくつかの白い実を口に運んでにっこりした。その様子があまりに愛らしくて、思わずアリシアも白スグリの一粒を口にする。ほんの少しの渋みと酸っぱさ、素朴な甘さと爽やかさが広がった。

「帰る前に、教会の方に一言声をかけて来なくては」

 そう言って、アリシアは教会の裏口からそっと聖堂に足を踏み入れた。

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