馬車に向かおうとしたアリシアに、ヘレンが「お嬢様! あちらは夏の国との境に近いですからね! 日射しを避けてよくよく水をお飲みになりますように!」と声をかける。
礼を言おうとしたアリシアだが、同じように近くにいた使用人が自分に向かって何か言おうとするのを感じ取って返事をせずに足を速めた。ニナと目を合わせず済むように、というつまらない目的のために。
馬車は二台準備されていた。一台は荷馬車。もう一台は、人が乗るための座席を備えた箱型ボディの馬車。あくまで、不愛想でワガママな王都追放の身となった令嬢としてアリシアは馬車に乗り込み、そしてその扉は静かに閉められた。
王都の南方へ向かって馬を走らせること数時間。途中、長時間馬車で揺られる経験がなかったせいで気分の悪さを覚えたアリシアだが、外套を畳んで席に敷けば多少快適になると分かってからはうとうと眠気に誘われる余裕も生まれた。
どれほど走っただろうか。馬の足音から、石畳の道が途切れたらしいと分かってほどなく、アリシアの乗る馬車はゆるやかに停車した。御者を務めていたターキが、馬車の扉をノックする。
「お嬢様。到着いたしました」
扉が開く。アリシアは外套を手に、ステップへ足をかけた。馬車を降り、軽く首を回す。まだ体が揺れるままであるような地面の波打つ錯覚を味わいながら、アリシアは、今自分がピオ村にいるのだと実感する。大きな空。今自分がいる場所より少し低い位置に農作地や家々が広がっている。あの作物は何なのだろう。川が一本流れていて、水車小屋が見える。民家の煙突から煙が上がっている。何か煮炊きをしているのだろうか。そよぐ風には、木や草花の青々とした匂いが混じっている。この村に、アリシアが来たのは初めてだ。目に入るもの全てが物珍しい。
「予定より早く着いたわね」
「ええ。途中の石畳が新たに整備されていましたから」
アリシアは、ポーレット家所有の農村に建つ一軒家をまじまじと見つめた。木骨組み建築の家だ。こじんまりとした二階建て、とアリシアは思ったが、この印象は貴族の娘としての彼女の認識であり、元の世界の一般庶民、桐谷優子の物差しで言えば暮らすに十分な大きさである。優子は、伝統建築が並ぶドイツの街道をふと思い出した。あのイメージに近い。外側に露出するこげ茶色の木組みと、やや傾きかけた日の光を受けた白っぽい土壁とのコントラストが美しいデザインだ。窓もいくつか並んでいて、あの窓辺に花を飾ればいかにもメルヘンな可愛らしさが強調されるだろう。
「荷物、運んでおきます!」
ターキよりもずいぶん若い声がした。ターキの息子のエリックだ。二人の目と髪はどちらも同じ色──灰色の瞳と茶色の髪──で、親子だとすぐ分かる。また、似ているのは容姿ばかりではない。ターキと同じく馬の扱いに長けたエリックはまだ十四だが、すでに仕事の一部を担っている。今日の荷馬車を操っていた御者は、この少年だ。
返事をしようとしたアリシアより先に「お、お願いしますぅ」とふらついた声が呼応した。ニナだ。
「あっ」
アリシアは思わずうろたえて声が漏れる。
(ニナ、ピオ村行きを拒まなかったんだわ)
冷たい言い方をして傷付けてしまったのに、ニナは王都を離れる自分について来てくれたのだ。ちゃんと彼女に謝罪したい、とアリシアは思って側付きメイドに駆け寄ろうとする。
「ニナ……」
その瞬間、ニナの体がぐらりと
「ニナっ!」
アリシアの慌てた声が響くと同時に、ニナを支えたのはエリックだった。
「ほら見ろ! アリシア様と同じ馬車に乗せてもらえってあんなに言ったのに! 荷馬車の
「うぅう、すいませぇん……」
エリックがぶつぶつ言いながら、ニナに肩を貸す。アリシアとターキが駆け寄り、ターキが「私が運ぼう。応接間にソファがあります。よろしいですか、お嬢様」と尋ねた。アリシアは頷き、ターキがニナを横抱きに抱える。
鍵を預かったエリックが扉を開き、四人はポーレット家所領、ピオ村の別邸に足を踏み入れた。
アリシアの父、ジョージが時々領地を回ることもあり、このピオ村のポーレット家別邸も時々は掃除の手が入る。それでも家の中はやや埃っぽく、ニナを応接間のソファに寝かせた後、ターキとエリックは家の窓を開け放って風を通した。
「外傷があるわけではないですし、少し横になっていれば回復するでしょう」
「ありがとうございますぅ……」
アリシアも「ありがとう、ターキ」と礼を言う。
「お嬢様も慣れない移動でお疲れでしょう。少しお休みください。私達は荷を降ろして来ます」
ターキがそう告げて、彼は息子のエリックは荷馬車に向かった。アリシアはニナのそばにしゃがみ込んで様子をうかがう。ニナは顔をしかめ、額に嫌な汗をにじませている。うなされるほどではないが、はきはきと明瞭に話せる様子ではなく、じっと目を閉じている。
「すみません、アリシアさまぁ……」
「いいから。眠れそうならしばらくお休み。吐きたくなったらすぐ言うのよ」
アリシアはニナの顔にかかる赤毛を指先で払ってやり、彼女が「うーん、うーん」とうめくのを見守っていた。