「はーい」
ホリーが返事をして、「先輩、どれから持って行きます?」とニナに指示を仰いだ。
「じゃ、じゃあすぐ使いそうなものは手前に積みたいから後回しにして……」
ニナの答えにホリーが「あ、確かに。なるほどー」と納得する。
アリシアは、ニナに何か言うべきだろうかと迷った。
ふと、アリシアとニナの目が合う。考えあぐねるうち、無意識に見つめてしまっていたらしい。とっさに、ニナが顔を背けた。
(え……⁉)
正直、アリシアにとってはかなりショックだ。
(そんな……)
アリシアが内心おろおろする中、二人の使用人は作業を終えてしまった。
「では、アリシア様、失礼いたします。また後ほど、出発前の身支度がありますので」
ニナが、そう言ってドア前で一礼する。「あ」とアリシアが声を出しかけた時には、メイドの二人はすでに扉を閉めていた。
(……ニナ)
辛い。だが、そう言ってもいられない。アリシアは部屋を見回した。準備せねば。今朝の朝食の席で、アリシアの父であるジョージは、午後の早いうちに出発して暗くなるまでにピオ村に到着できるよう手はずを整えると話していた。アリシアは、机周りの学院の教科書や筆記具といった必要そうなものをピックアップしてゆく。
「……そうだわ」
思い付いてひきだしを開け、例のライザの言葉が印刷された革張りの本を取り出す。
── 義を尽くし、愛を為せ。女神ライザの名のもとに。
(これも、持って行こう)
元の世界の桐谷優子の感覚でたとえるなら、この本は聖書や経典にあたる。女神ライザの存在こそがこの世界の全ての始まりであり、ライゼリアという名称の理由だ。ゲームの開発チームが実際のところどんな風に設定を作って練っていたのかは分からないけれど、ライゼリアに生きる多くの者は女神ライザの授けた心の規範に従って生き、祈りを捧げている。
(別に熱心な信徒ってわけじゃないけど、でも──)
アリシアが本を開くと、母、モニカの声が聞こえる気がする。様々な物語と同じく、子供の頃のアリシアの寝入りばなにモニカは女神ライザの教えを読み聞かせてくれた。だから、アリシアがこの本を自分のお守りのように感じるのも当然だ。パラパラとページをめくる。
(不思議ね、落ち着く気がする)
アリシアは本を閉じ、その表紙に指先で触れた。
卒業のための条件については学院長と取り決めたものの、その手段をどうすればいいのかは曖昧だし、女神ライザや天の御(み)使いであるルーシィが言っていた「恐れずに為すべきを為しなさい」という言葉の意味も具体的にはまだ掴めていない。そんなアリシアにとって、少しでも自分の心の拠り所にできそうな本の存在はありがたかった。
次にアリシアの部屋のドアがノックされた時、やって来たのは一人だった。
「失礼します、お嬢様」
ホリーだ。ニナではない。アリシアに、昨日の朝ほどの驚きはなかった。ただ、辺境へ向かう前にこの王都でニナと一緒に身支度する機会はもうないのだと思い知る。
「どーですか? 荷物、あれから増えました?」
「……えぇ、後でこのミニトランクも追加でお願い」
「かしこまりました。お召し変えなんですけど、ヘレン婦長から
「そう、ありがとう」
ホリーの目に、令嬢は明らかに意気消沈して見えた。これから謹慎処分で家を移るなら当然かもしれない。だが、それだけではない何かも感じ取る。
「お嬢様、ニナ先輩とケンカでもしました?」
「う」
答えに窮したアリシアに、ホリーは「いや、詳細聞きたいわけじゃないんですけど、多分そんな難しく考えなくてもいーんじゃないかなって」と明るく言う。
「ニナ先輩、お嬢様のこと大好きですもん」
「……そう」
気を遣ってホリーはフォローしてくれるけれど、きっとそれは自分が傷付けてしまう前のニナの話だ、とアリシアは思う。
「絶対心配ないと思うけどなー」
ホリーはそう言いつつ、あまり話したくなさそうなアリシアの様子を察して、それ以上しつこく言及はしなかった。
アリシアは青緑色のシンプルなワンピースに着替えて歩きやすい短靴を履いた。薄紫の美しい髪をホリーが梳き、リボンを絡ませた二つ編みを左右に編み下ろす。最後に、白麻の小さなヴェールをかぶった。
準備が整い、いよいよ部屋を後にする。桐谷優子の意識がライゼリアに現出してからは一週間と少ししか過ごしていない部屋だが、アリシアにとっては生家だ。寂しさを感じないわけがない。これから何が待っているのだろう、と漠然とした不安とともにアリシアは正面玄関の馬車回しへと向かった。
馬車にはすでに荷が積まれていた。今仕事を抜けられる使用人は可能な限り見送りに来ているのだろう。なかなかに人が多い。ニナも、その使用人の列に控えている。アリシアが到着してほどなく、父親のジョージと継母のカミラもやって来た。
「アリー、不便をかけてすまない。できるだけ早く呼び戻すつもりだが」
「いいえ、お父様。しばらくお会いできませんが、どうぞお元気で」
ジョージに挨拶したのと同じように、アリシアはカミラにも一礼する。カミラは会釈し、ヴェール越しの耳元で「恥を塗り重ねることはなさいませんように」とちくりと忠告する。今のアリシアには、それに威勢よく張り合うだけの気力もなく、余裕ぶって微笑むだけだった。