「……お母様と、ケンカしたことはあって?」
「うーん、そうですねェ。
些細なことでいちいちいがみ合ったりはしませんでしたが、お互い意見が食い違って意地を張ったことはありましたよ」
ケンカの思い出を聞いたのにヘレンの返事は嬉しそうで、アリシアには鏡越しに見るヘレンの笑顔が何だかまぶしい。
(お母様とヘレンが親しくしていたことは知っているけれど、仲違いした思い出まで幸せそうに思い出せるなんて)
素晴らしいことだ、とアリシアは素直に思う。同時に、母をさらに誇る気持ちが湧く。友人と信頼を築き、伴侶と愛を育み、娘を授かり、病と闘い──、最期まで立派にモニカは生きたのだ。
「さァ、できましたよ」
ヘレンがそう言ってアリシアを送り出す準備をする。令嬢は、扉を出る前に部屋を振り返った。壁にかかった肖像画のモニカをしばし見つめてから自室を後にする。憧憬と自分の未熟さをひしひしと感じ、アリシアは学び舎へ向かう馬車に乗り込んだ。
学院に到着したアリシアは、いつも通り植栽や花壇で飾られた校門をくぐって歩を進めていた。普段と異なるのは、馬車を降りて歩き出した瞬間から自分に向けられている好奇の視線の存在だ。
(ま、当然よね)
こうなることはアリシアの予想通りだった。王子との婚約が公衆に明らかとなった途端に破棄されたのだから、興味を持って人の口にのぼらないはずがない。断片的な囁きは風にそよぐ葉擦れの音に混じって、いやでも耳に入ってくる。
「ケイル様がかなりお怒りだって」
「不吉な予言をしたらしいわよ」
「あのヒステリーが王家一族になってたかもしれないってこと?」
噂話など、割り切ってしまえば貴族の
(あんな陰口気にしない! 言わせておけばいいわ!)
自らを律しようとするアリシアが姿勢を正し、学院の生徒用玄関に向かって闊歩しようとしたその時だった。
「失礼な獣人がその晩餐会にいたんだと」
「そんなの即時処罰してしまえばいいのにな」
飛語の一つがアリシアのこめかみ辺りを殴りつけたような感覚をもたらして、令嬢は手足の先が冷たくなった気がする。
(だめだわ。また、私、こんな勝手な考え方……)
言わせておけばいいなどと、ついさっきそんな風に思った自分は何と傲慢なことだろう。自分の失態のせいでレオを巻き込んで彼の評判を下げている事実を突き付けられて、アリシアはまたも自己嫌悪に
「今、なんとおっしゃって⁉ あなたが言及した方のみならず、ケイル王子への侮辱ですわよ!」
自己嫌悪だけを理由としてではなく、アリシアは他者の濡れ衣をどうしても捨て置けないという明確な意思のもと、声の主を探して振り返った。果たして、
「そんなに興味がおありなら、恥ずかしげもなく憶測せずともその場にいたわたくし自らが説明して差し上げますわ! ケイル王子がわたくしとの婚約を破棄したのも、その場に居合わせた者がケイル王子をお諫めになったのも、全て正当な理由あってのこと。低俗にもその決断と行動を軽んじて辱めるならば、ポーレットは王家への忠義の徴証として貴殿らとの争闘も辞さなくてよ!」
この常春の国、ロアラは長く大きな争いもなく平和で、多くの魔法の効力は日常の便利な小技程度に弱体化している。学院の授業や部活動においてスポーツとしての剣術や体術は存在するが、他者を直接傷付けることを目的とする魔法をカリキュラムの中で手ほどきされることはない。あくまで専守防衛を旨としていて、結果的に相手に害をなせそうなのはせいぜいが護身用警告レベルの
「発言の撤回を要求します」
生徒らは顔を見合わせ、頷き合ってから「て、撤回します」とそれぞれ上擦る声と強張る表情で口にした。
「ありがとう」
アリシアは抑揚のないトーンでそう告げてから二人の生徒を解放し、校舎に向かった。