ヘレンは、素知らぬ顔で令嬢に事情を説明した。
「あぁ、ニナは今朝、私が新人のサポートをするように言いつけたんですよ」
「え?」
「 新しく入った子がねェ、ニナの郷里と近い出身らしいんですよ。ニナもここに勤め始めてそこそこ経ちますし、人に指導する立場になって成長することは多いですから」
ヘレンからの答えはアリシアの推測とは異なっていた。だが、それならよかった、ニナは自分を嫌ってなんかいない、と思えるほど、今のアリシアは物事を楽観的に捉えられる心境ではない。
(だめだ、こんなんじゃ)
感情のコントロールができていなくて、暴れ馬に乗っているような体感にまたもアリシアは襲われて落ち込む。そんなアリシアとは対照的に、ヘレンは快活な笑顔で一日のスタートを促した。
「さァて、今朝もしっかり食べて頂いて元気に過ごして頂かねば!」
アリシアの気持ちは確かに沈んではいる。だが、幼い頃から頼りにしてきたヘレンに給仕をされながらそう言われたら、朝食を摂ることで少しだけ前向きになれるような気がしてくるのだから不思議なものだ。
供されたのは白い丸パン、目玉焼き、ソーセージ、トマトと煮た豆、野菜スープ。オーソドックスな朝食メニューだ。
アリシアが食事を終えて学院の制服に着替えるのを、ヘレンが手伝う。
「今日はどんな風に結いましょうかねェ」
「……ヘレンにそう聞いてもらうの、随分久しぶりだわ」
鏡台の前でヘレンに髪型をリクエストすると、アリシアはほんの少し切ない気分になる。どうしたって母のことを思い出すからだ。アリシアは、遠くを見つめるような表情を浮かべた。
「いつも、お母様とおんなじ髪にしてって言っていたわね。お揃いがいいの、って」
「ふふ、小さな頃のお嬢様の
アリシアの望み通りに今朝も髪を結いながら、ヘレンは「こうして髪を結わせて頂くのは一年ぶりくらいでしょうか」とつぶやく。
アリシアが幼い時期に比べると、ヘレンの立場も昔とはかなり変わっている。屋敷全体を取り仕切る側となっているから、アリシアのワガママが過ぎると使用人達が令嬢を避けるようになっていることはもちろん把握していた。それを強く諫められなかったのは、ひとえにアリシアが母を亡くした悲しみの深さを知っていたからだ。そうこうするうち、ここ一年はニナが身の回りの世話を言いつかるようになっていた。ヘレンは、鏡に映るアリシアの顔を見やった。晩餐会でのショックのせいか今朝のアリシアは意気消沈して見える。例の傍若無人さは鳴りをひそめていて、こうやって接してみれば彼女の幼少期の天真爛漫さが消えたようには思われない。なめらかな髪を触りながら、ヘレンは過去に思いを巡らせた。
ヘレンがポーレット家に勤めるようになったのは、故ポーレット夫人──アリシアの実母であるモニカが理由だった。モニカの実家の屋敷に勤めていたヘレンはモニカと年も大きく違わず親しくしていて、モニカが嫁ぐ時に一緒にポーレット家にやって来た。今の時代なら勤め先を柔軟に変えるケースも少なくないだろうが、当時は特定の屋敷に勤め続けることが一般的であり、ヘレンのように花嫁と共に家を出て奉公する先を変える使用人は比較的珍しかった。それほどモニカとヘレンは仲が良く、モニカの実家両親もヘレンに信頼を置いていたのだ。
モニカの結婚は新郎新婦の恋愛がきっかけではない。貴族社会でのしきたり通り、家と家との結び付きによる婚姻で、当然モニカは不安を抱えていた。そんな新生活の中で、ヘレンの存在は何よりもモニカの心の支えだったし、結婚してから徐々にジョージとの恋が始まったモニカの惚気(のろけ)を聞けるのがヘレンは幸せだった。
それからのモニカの、妊娠、出産、闘病、死去。端的に言葉にしてしまえばたったそれだけに集約できてしまう、親友の嫁いでからの十数年。だが、その日々はとても美しい愛の結実に至ったことをヘレンは知っている。モニカの愛娘、アリシア・ポーレット。小さく生まれたアリシアが、今やこんなに立派に成長しているのだ。十七歳になったばかりのアリシアの髪に青いリボンを絡めながら、ヘレンは丁寧に手際よく編み込んでゆく。
「ねぇ、ヘレン、聞きたいことがあるの」
アリシアの表情と話し方の中に親友の面影を感じながら、ヘレンは「あらァ、何ですか?」と促した。
髪を結い終わったら、アリシアは間もなく学院に向かって出発することになる。アリシアは、聞きたいことを尋ねるには今のタイミングしかないと思って、迷いながら言葉を選んだ。