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第5話 婚約破棄〈終〉

「……どういうつもりだ」

 ケイル王子の声がして、アリシアはその翡翠色の瞳ですぐさま眼前の光景を確認しようとする。何が起こったのかはすぐに分かった。

(マンジュ卿⁉)

 犀利さいりな抜き身は、ケイルの腰ベルトに下がった鞘から放たれてはいなかった。獣の手によって柄は押さえ込まれ、レオはすかさず片膝を床につきひざまずく。王子に対する敬礼の意を示してはいるが、刀剣を抜ききるのを一代貴族に叙された獣人の彼が妨げたのは明白だった。

「……宴の席でございますゆえ」

 王子に問われて答えるレオの言葉は、感情を押し殺すような苦渋を感じさせるものだ。彼がどれほど迷った末にこの場に飛び出してきたのかが、アリシアは伝わってくるような気がした。

「いい加減にしろ、ケイル」

 ジェイドも苦言を呈する。弟はサーベルのグリップを握っていた手を離し、その右手をぶらぶらと揺らしてみせた。「本気で斬りつけるつもりじゃなかったよ」とつまらなさそうに言う。兄は「当たり前だ」とたしなめた。

「まったく。城内でないとはいえ、軽率な行為に至る前でよかったと思うことだな」

 ケイルに釘を刺してから、ここで初めてジェイドはアリシアをじっと見つめた。

「まぁ……お前の疑いと憤り、分からなくもないが」

 弟に同意を示す気色けしきばんだ言い方は、紛れもなくアリシアに疑義を抱いたトーンだ。ジェイドの眼差しには、温かみのかけらもない。アリシアは、心臓がぎゅっと縮むような落ち着かなさと心の痛みを覚えた。

(ど、どうしようどうしよう)

 取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか、とアリシアは息苦しくなる。

 彼女は気付く。ライゼリアが実体化したと聞かされてこの世界に生き始めてなお、さっきまでの自分はこの場所をまだどこかゲームの延長線上のように捉えていたのだ。だから、ケイルがサーベルに手をかけても心から焦っていたわけではなくて、真の現実味がなかったし完全に冷静さを欠くこともなかった。その正常性バイアスに囚われた思考が、作中で最も敬愛する対象であるジェイドから疑いの目を向けられたことでようやく崩れた。この世界でずっと生きてきた器のアリシアの感覚が、今の彼女の立場を再認識させる。

(大臣に設けて頂いた場で王子達に疑われて、マンジュ卿まで巻き込んで──)

 事の重大さに色を失ったアリシアは、こわごわとケイルを見やる。

 弟王子は「下がれ」とレオに告げた。獣人の彼は立ち上がって一礼し、他のゲスト達と同じような位置まで下がる。王子達一行のやり取りを興味深げに見ていたギャラリーは、腫れ物に触るようにレオから少し距離を取った。「出過ぎたことを」「さっきあいつが飛び出した勢いで、突き飛ばされたぞ」「力の誇示か? みっともない」「獣人のくせに」などとレオに対する陰口が囁かれるが、今のアリシアがその様子に気付く余裕はなかった。

 ケイルは、かたわらにいたジェイドに向かって微笑む。

「──兄上のおっしゃる通り、軽率な行為に至る前でよかった。わずかな疑念も、夫婦の間にはふさわしくないからね」

 王子は大きく息を吸った。目の前のアリシアや自分に視線を注ぐゲスト達と、意味ありげに目を合わせる。そして、朗々と宣言した、

「本日お集まり頂いた方々を証人に、私とアリシア・ポーレット嬢との婚約は、今この瞬間をもって破棄とさせて頂く」

「な……っ」

 アリシアは思わず声を漏らし、ホール内が一気にざわめく。ケイルとアリシアの婚約については正式に公表されていなかった上に、その婚約が目の前で破棄されるという、ある意味ドラマチックな展開なのだ、ゴシップ好きな一部の貴族にとっては見逃せない演劇舞台に等しい。

 ケイル王子は「内々ないないで話を進めてくれていた叔父上には申し訳ないことをしたな」とハーヴィー司教に向き直った。アリシアは思わず王子の名前を呼ぼうとする。だが、アリシアは出遅れた。

「ケイル様、誤解です! 娘は無実です!」

 人々のどよめきの中、父親のジョージが娘をかばう声が響く。

「ただ王妃様を案じただけなのです! どうか賢明なご判断を──」

「口を慎め、ポーレット。正式な婚姻の誓いが結ばれたわけでもないのに、すでに外戚気取りか? 娘の不審な発言も今の擁護も、不敬であるとして罪名を付けることもできるぞ」

 ケイルの言い方に、アリシアはさらに青ざめる。

(お父様のために、何か、言い返したいのに……!)

 悪役令嬢とゲームファンから評されるほどのアリシアの性格でも、さすがにこの状況では強がれない。いや、こういう場面で、立場が上の者には楯突くことができないからこそ、彼女は悪役令嬢という不名誉で中途半端なヒール役なのだ。

「追って沙汰する」

 そう言い残して、ロアラの二人の王子は晩餐会の会場から退出する。気が抜けて、アリシアは床に座り込んだ。大事な節目だからおめかししようと、今夜のために選んだ美しいドレスの豊かな布地が放心した令嬢を受け止める。

 アリシア・ポーレットにとって、十七年の人生の中で最悪と言っていい晩餐会であり、誕生日だった。

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